加納石人の書

 

 

 
石人戯書
 
奉納
正一位 長屋稲荷大明神
大家一同
 
 
 
加納石人の書の世界へ
お越し下さり、ありがとうございます。
 
石人戯書》の落款のある
作品は数点あります。
 
長屋の住人のせめてもの憂さ晴らし!
…のブラックユーモア。
 
 
大家さん達にとっては、
長屋の住人の我々は、
正一位のお稲荷さんなんだよ!!
崇めよ〜ニヤリ
 
って感じでしょうかグラサン
 
批判される体制や背景を
知っていないと…何が何だか
ʅ(◞‿◟)ʃ
 
でも、ソコがわかると
しみじみと面白いですキラキラ
 
 
それでは、《戯書》についての
石人の記をお楽しみ下さいませ。
 

 

『戯書礼賛』

 

 以前、仏画と仏書について述べた。

 

 今度は、戯画と戯書について考える。

 

 ほんのあそびごころ・・・で、

たわむれにモノを書いて遊ぶ。

たわいのないものかもしれぬが、その底に庶民の心があり、ユーモアがあり、

常に体制への批判がある。

 

 それはスローガンではない。

世の中への警告なんてモノでもない。

いわば皮肉風刺の類い、パロディであり

狂歌であり川柳の世界である。

 

 長屋の住人のせめてもの憂さ晴らし。

 

 こういうものを書芸術の場に取り入れる

ことに抵抗する向き(当然のことだ)もあろうが、そんな書表現(純粋な)を横目で見て、ざまあみろと叫びたいものもある。

 

 スローガン・看板・標識の類いは確実に読めなくては用をなさないが、落書き・いたずら書きは必ずしも読めなくてはならぬということはない。

相合い傘の左右に何と書かれようがこれだけでどんなことか、大づかみにニヤッとすれば済むことだ。

 

 いたずら書きには、その根底に願望と

現実とのギャップ、それに対する風刺・

皮肉・ブラックユーモア。

また単なるユーモア(それもごく庶民的な、いわば長屋的な)もあり、狂歌・川柳・落語の世界に共通する。

 

 これらには(そしてこれらの作家には)

つねに体制に対する批判(反抗)があり、異端の存在を誇るものがある。

それは、これが単なるその場限りの思いつきだけでなく、前述のように体制に対する痛烈な批判を内包し、作者の志操がモノを言うからである。

でなければ本当の風刺も生れない。

 

 いたずら書きに芸術性はない。

なくてよい。芸術性を優先させて書く

いたずら書きはない。

しかし、結果として作者の志操が反映されて一種の芸術性(芸術には多面性がある)

を生み出したとしても、それは否定されないし、むしろそこに新しい芸術が創り出されたとしても不思議ではないだろう。

 

 

  1993.3  加納 石人 記