加納石人の書

 

 

加納石人

1924.1.28〜2008.9.22

 

 

 

 

加納石人の書の世界へ

お越し下さり、ありがとうございます

 

 

前回から

《いなづま》同人誌 1998年掲載に、

全10回で連載した記事を

ご紹介しています。

 

 

今回は、

 

あれこればなし(二)

ほそ道つれづれ

 

を、お届けします。

(実は2回目ですが…通しで、ご紹介します)

 

石人本人の文章を、お楽しみ下さい。

 

なお、『おくのほそ道』全文は、

全54回の連載として、原文・現代語訳と共に

ご紹介済みです。

 

宜しければ、是非ご覧くださいませ。

お好きな章段、ゆかりのある場所の章段など、

ご自由にお楽しみいただければ幸いです。

 

 


 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

98 いなづま№75 掲載

あれこればなし(二)

ほそ道つれづれ   加納石人

 一度は「おくのほそ道」全文を書いておこう
と思い、五年ほど前に実行した。
自分の覚えのためと、こどもに残してやっても
いいか位の軽い気持からだったが、いざ筆を
とって書きはじめると興にのって一週間。
ぶっつづけに書き了えた。
 巾二五,五糎長さ十二米。

巻子に仕立ててある。
 文中の仮名遣いの間違い

(原文にはかなりある)は

岩波日本古典文学大系によって正しながら、
一字一句完全に写しとったつもりでいたが、
荒海の句の「天河」をうっかり「天の川」と
書いたのが唯一のミス。この句は、他の芭蕉句集
では「天の川」となっているのもあるので、
言い訳がましく目をつむった。


 「おくのほそ道」は、全文をしっかり読む
こともなく、若い頃の記憶も曖昧なので確認の
つもりでもあった。
 千住生れの私には深川も馴染み深く、
芭蕉庵旧跡から清澄公園辺りにかけては、
中学が両国だったので悪仲間との行動範囲に
入っていた。千住大橋南詰のお宮には
〈行く春や〉の碑があったと覚えている。
今は春日部に住んでいるので、草加から
日光までの間の細道遺跡は大方尋ねている。
室の八嶋は意外と辺鄙な処にあるのだが
二度ほど行った。
 曽ては能登に住んでいたお陰で、金沢、
山中、山代。粟津の那谷寺、小松にも足を
伸ばしてそれぞれ得るものがあった。
私が所属していた書団蒼狼社の研究集会も
芭蕉ゆかりの地が多い。仲間に俳句好き
(書と俳句には近似点が多い)がいたせいで、
黒羽の雲巌寺の折の帰りには那須へ、
仙台では松島、多賀城、塩竈を経巡り、
鳴子では尿前の関、山刀伐峠、封人の家を
経て天童山形蔵王を抜けて白石白河関址。
仙台の書友の案内で雪の中尊寺光堂、
高館毛越寺をゴム長靴で廻った時の
印象は強烈だった。
 立石寺へ行ったのは秋。山寺の駅から
暮れ行く山の寺を眺め、蟬の頃とは
ひと味違う風情を感じた。
妻と旅した象潟は蚶満寺の合歓の花の
盛りで、ここだけは細道の季節と合致した。
 書き進むほどにそれぞれの風景遺跡を
思い浮べ、更に未踏の地へ思いを馳せる
ようになった。
 芦野、須賀川、信夫、飯坂、笠島、
武隈は近いところ。最上川下り、
出羽三山はどうしても尋ねたいし、
北陸の大聖寺から永平寺、そして終点
大垣までは近々機会があろう。
 元気なうちにともかく行ける処は
行っておきたいものだ。

 おくのほそ道を書いた後、立てつづけに
野ざらし紀行、笈の小文、俳文のいくつかを
書いておいた。こちらは書く楽しみで、
細道を書こうとしたキッカケとは
ちょっと違う。せいぜい内容を覚える程度、
と同時に単なる手習いでもあった。

書く___というのは、聞いたり読んだり
するのとはその記憶に著しい差が
あるようだ。
 特に歳をとるとそれが甚だしい。物覚えが
悪くなるから、私はつとめて書くことに
している。時には書いたそのことを
忘れたりして、情無い思いをすることも
あるけれど・・・
 一昨年から今年にかけて常用漢字、
人名漢字、使用可能旧漢字を楷行二体で
二回書いた。つまらない毛筆の仕事である。
書の上では楽しくもタメになるものでもない。
親しい知人からのたっての依頼で
断りきれなかったからである。
その中で少々プラスだったのは、現在使われて
いる漢字を正しく覚えられたこと、
文字行政?というもののいい加減さを知った
こと、そして共通記号としての文字の
画一化の難しさを痛感した位か。
 それでも書かなけれ知り得なかった
であろう常用漢字の実態は掴めたわけだ。

書を書くことが生甲斐であり、
それしか能のない私だから、
書くことは少しも苦にならない。
曽ては万葉集をみんな書いてやろうと
取組んだり、荘子もずい分書いた。
その都度いろいろ勉強させられ覚えもした。
恐らく読むだけで終わったら今の頭の中は
空っぽだろうと思う。
 芭蕉のものはいろいろ書いた。
これらを書くことによって、その足跡を尋ねる
たのしみが与えられたことと、
句作の背景とそれが触発された対象が明らかに
見え、更にその対象から芭蕉自身の詩想の展開を
覗い知ることが出来たことなど、
より深く見てとれたのはこの上ない収穫であった
といえよう。

あれから五年経ったのに、その後の細道は
まだ尋ねあぐねている。

~ ’98.6.23 ~