こんにちはあ

梅雨入りしましたねえ

例年より遅いんだとか

昨年の事なんて覚えてませんてw

最近は極端な雨が降りますねえ

 

昨夜買い物で車を使ったら

後ろからチヤッポンチヤッポンて音がしたんで

雨漏りかあと調べたら

後部ドアの中に水が溜まっていてびっくり

風向きのせいだったのかなあ

愛車も高齢化してるんで隙間ができた来たのかもねえ

 

さて象山地下壕です

 

のどかで誰も居ない舞鶴山地下壕を出た後

車で15分程かな?象山地下壕に到着しました

事前のサーチでここには駐車場が無くて

徒歩5~6分離れた所の公共駐車場に車を停めて

見学する事になると分かっていたんですが

そこへの案内板を見つけられず

一旦見学施設前に進入しました

 

舞鶴山のゆったりした郊外のイメージだったんで

駐車場もすぐ分かるだろうと予想していたら

こちらは住宅街の中だったんですね

狭い路地を何度か曲がった奥にありましたね

 

地下壕施設にの隣に

「もうひとつの歴史館松代」という施設があって

数台の車が停められるスペースがあったのを見ていたら

外に出ておられた館長さんらしき御方が居たので

挨拶をしたら

歴史館を見学するなら

見学後の地下壕見学中も車を停めてもよいとの事で

車を停めさせて頂きました

 

もうひとつの歴史館松代のパンフレット

入館料200円

入館前に館長さんらしき御方に

今日は小学生の団体が居るけど

それでも良いかとの確認をされて

はあ お願いしま~すと入館しましたよ

 

館内は意外に狭くて

20人位の小学生でぎっしり埋まって

ガイドさんから解説を受けて居ました

校外学習なんだね

当時の工事用具とかを手に取ってわいわいがやがや

 

パネル展示が壁一面に掛かっていたんで

子供たちの邪魔にならないように

少し外れてパネルを読み始めたら

これがまた面白くて止まりませんでしたねえ

まあ 面白いと書いちゃうのは語弊があるんだけどね

戦時中ご苦労された方々の証言記録なんでね

 

ふと外を見たらK君がぼーっと立っていたのが見えて

側に行ったら

ガキがうるさくてかなわんとかw

続きのパネルを読みたかったけど

じゃあ地下壕に行こうかと移動しましたあ

 

松代象山地下壕 入場券代わりのパンフレット

こちらは長野市観光課が管理している施設のようで

受付で居住地を記入しただけで入場は無料でしたね

さすがお役所

どの地域から来たのかの観光データが欲しいんでしょうねえ

 

 

 

松代大本営地下壕は皆神山 舞鶴山 象山の

三つの山の中に碁盤の目のように掘られた地下壕の総称です

松代といえば杏とか旧武家住宅

佐久間造山 真田家が有名ですけど

こちらも年間で5万人が訪れるとかで

近年隠れた観光名所になっているんですかねえ

まあ近隣の校外学習地にも使われているようですけどね

象山地下壕は碁盤の目のように掘られた総延長が5853mで

その内の519mが公開されています

 

坑口前の広場にある看板

ここも小学生の一団がいっぱいいたんで

現地の様子の写真を撮れませんでした

なにやら慰霊塔やらいろんな石碑とかあったんですけどね

帰宅後いろんな方のブログを見ていたら

旧型客車を改造したトイレの写真があったのにはびっくりしました

レールは無くてボディだけを改造していて

元車両だとは想像も出来ないくらいちゃんとした建物風なんですよね

いやあ~現地では気付かなかったなあ

トイレは在った気はするけど使わなかったしねえ

数年前のレポートだったからもう撤去されていたのかもだけどね

 

どなたかのブログ画像をじっくりと見てたら

このパネルの後ろに客車トイレが写っていたんだけど

パネルを移動したみたのかなあ・・・

 

「さまざまな見解があります」と締められているように

この看板の文章にもクレームが着いたりと

なかなかに紆余曲折があったそうで

デリケートな場所なんですねえ

 

太平洋戦争末期に本土決戦に備えて

大本営の移転と国体(天皇制)護持のため

防衛上の観点から選ばれた松代を中心に

舞鶴山=大本営と皇居

弘法山=賢所

皆神山=皇族住居(後に食糧庫に変更)

象山=政府機関と日本放送協会 中央電話局

妻女山=受信施設などを

移転する大工事が秘密裡に企画された

 

松代は単なる避難場所ではなく

本土決戦に備えて反攻の拠点になってたんですね

 

海軍も大本営海軍部の工事に着手していた
陸軍が松代地区に大本営移転のための地下壕を建設しているが

海軍が入る余裕はないため

海軍軍令部職員約千人が入れる地下壕を新たに掘る事になり

ここから10㎞程離れた

長野市安茂里地区に

幅3.2m奥行50m程でY字形に分かれ

左に15m右に30mほど掘られた豪の跡があるそうです

現在その地下壕を保存しながら

資料館を開設しているグループもあるようですね

 

わりと有名だけど

陸海ほんとに仲が悪かったんだねえw

 

そういえば大本営って

大本営発表とかでよく聞くけど

どういう組織なんだろと調べてみたら

 

大本営とは戦争や事変の時に天皇を補佐するために

皇居内に設置される日本軍の最高統帥機関で

軍の最高指揮官の天皇のもとに

大本営陸軍部と大本営海軍部が置かれました

実際は

大本営陸軍部は陸軍参謀本部が

大本営海軍部は海軍軍令部が参加していたとか

 

松代大本営地下壕は

大本営陸軍部の地下壕だったそうです

 

ヘルメット!装着用意!

装~ちゃ~~く!!

入洞準備!準備良~し!!

入洞~~~

 

ここでも小学生の一団がいっぱい

ヘルメットのあごひもを確実に閉めろとか

かなり安全に徹底してましたね

 

緩やかな下りから始まりました

緑色のカーペット状の敷物は

車椅子用のスロープなんですね

 

いきなり ひんやり

 

入口から50mほど進み右に曲がると道幅が広くなりましたねw

坑道に降りると基本的に地面は水平でした

 

トンネルとは違って壁面加工されていない

彫りっぱなしの岩肌ゴツゴツ

ほんものの地下道は

やっぱり わくわくしちゃいますねえ

 

坑道内は結構明るかったですねえ

 

 

天井からの落石防止のため所々屋根で保護されていました

 

ワンボックスカーはちと きついかもだけど

車で通り抜けられそうな幅ですね

 

数か所に解説の標識と案内板がありました


当時はこの削岩機で岩に穴を開けて

そこにダイナマイトを仕掛け破砕した

この時抜けなくなつたロッドが壕内に数本あるとか
また削岩機のロッドによる穴跡は壁面に無数に残っているそうです
 当時は鉄がひっ迫していて削岩機のロッドは大変貴重な物で

本来は何とかして取り出しますが

これはどうにもならなくて放置されたそうです

 

写真を見返すと

漆黒とか無音沈黙の

シーンとしたイメージだけど

子供たちの楽しそうな声が前後から聴こえてきて

テーマパークのアトラクションみたいだったなあw

 

見学通路以外の横抗はフェンスで閉じられていました

奥のほうで崩落が起きているようですね

 

結構崩れているんですね

 

奥に明かりが

外の明かりが見える地上まで繋がっている坑道がありました

ピンボケだけど載せました

 

小学生のグループがポイントごとに

案内人の解説を受けていました

そーだここは戦争遺跡なんだっけ

平和教育学習ってやつだね

 

この付近で写真を撮りながら

聞こえてきた解説を聞いていたら

トンネル内は声が通るのよw

 

ああ~やっぱりね~w

当時の方々の個人名に敬語も使わず

悪い人のように・・・

いやあ著名人は敬称略で呼ぶっていう定式を知らん訳ではないけどね

当時同国人だった人たちへの極端な加害状況

軍部批判中心の

いわゆる お左翼的な解説でしたねえ

 

子供たち

戦争は繰り返しちゃいけないけどね

大きくなったら真実を学び直そうねえ

 

ちょうど中間地点の左折ポイントに案内図が

ここで先行していたK君とすれ違いました

写真もそこそこ撮れたし単調なんで

もう戻ろうかと思ってたんですけど

最後まで行ってみ~と言われたんで

進みましたあ

 

非常用のインターフォンですね

 

 

枕木の跡は道内あちこちに残っているようですね

 

 

 

所々に横穴の奥が見えるようにライトアップされていました

 

 

折り返し地点

ネットの過去画像を探るとこの看板の横に

折り鶴の房がいっぱい下がっている画像が出てくるんですけど

近年は下げる人たちが いなくなったのかな(謎)

 

ここも折り返し地点だったかな

上部の補強天井が無いと広いねえ

住めそうだわ

 

帰宅後調べて分かったんですけど

現地ではなんで

直線のストレートな坑道しか掘らなかったんだろうって

疑問だったんですよねえ

 

横須賀の某海軍豪にもぐったことがあるんですけど

そこは個室⇒通路⇒個室みたいな造りだったんですよねえ

陸軍式はちょっと違うのかもと想像してたけどね

 

謎は簡単に解けました

幅4mの坑道の片側3mに木造小屋を建てて

残りの1mは通路として使う予定だったとか

小屋もかなり出来ていたそうですけど

戦後資材木材はすべて盗まれたんだとか

 

それにしても凄い量の坑道面積ですよね

そんなに部屋数作ってどーすんのとは思ったけど

本気で各省庁を全部移設するつもりだったんですねえ

まさに霞が関遷都の本気だったんだね

その割に構内にトイレを造る予定も無かったとか

あくまでも住む事を前提としていないとかで

お勤め専用のオフィス街だったんですねえ

 

折り返し点横の先

 

洞窟って子供の頃の冒険譚を読んだときみたいに

単純にわくわくしちゃうよねえ

 

一人のご老人の話を聞きながらの

TV撮影が行われていました

入り口から出口までを撮影していたようで

途中追い越したり追い越されたりしていたんですよね

あたしが写真を撮ったりしながら

ゆっくりだったんで時々

お話が聞こえてきたんですが

言葉尻の端々に出る

旧軍と御皇室への恨みが強い感じでしたねえ

 

あたしとしてはカメラに映らないように

何度も避けたりしていたんで

それに気づいていたのかな

撮影スタッフの方がご協力ありがとうございみたいな

会釈をしてくれたりと

なかなか好い感じでしたねえ

あれ?

振り向いて写真を撮ったこの位置だと

しっかり写っちゃってたかもね

ゴメンねw

 

ういきさんより

松代が選ばれた理由
本州の陸地の最も幅の広いところにあり

近くに飛行場(長野飛行場)がある
固い岩盤で掘削に適し10トン爆弾にも耐える
山に囲まれていて地下工事をするのに十分な面積を持ち広い平野がある
長野県は労働力が豊か
長野県の人は心が純朴で秘密が守られる
信州は神州に通じ品格もある
松代に縁起の良い松という文字が含まれていた
なんだか後半は・・・ほんとかねw

追加として

前回も書いたけど皆神山の存在は大きかったと思うなあ

 

出口が見えてきました

ゆっくりと40分位の洞窟巡りは面白かったですねえ

坑内では気にならなかったけど

外に出るとやっぱり空気が清々しかったねえ

空気の美味しさが分かったねえ

 

外に出ても広くない敷地にちびっこがいっぱいいたんで

写真も観察もしないで

大量のヘルメットが置かれている台に

ヘルメットを返却して

早々に地下壕施設の敷地を出ましたあ

 

ヘルメット脱着用意!

脱着!!

返却用意!

返却!!

返却完了~

くどいかww

 

車を停めていた隣の施設の駐車場では

違うちびっ子たちが網袋にズリ石を入れた天秤棒を担いだりの

モッコ体験をしていて楽しそうでしたねえ

 

狭くなっている駐車場からはバック運転で出るしかなかったんで

K君に誘導してもらって慎重に車を出しましたよ

館長さんに駐車場利用の御礼も出来て好かったなあ

 

この後は姨捨駅に向けて発進しました

 

長々と失礼しましたm(__)m

 

 

さて

お気楽に洞窟探検が体験できる

楽しい施設だったんで

ここで旅日記を終わらせてもいいんですけど

結構何日も迷ったんですけどねw

 

やっぱりここは いろいろあるんで

なんか書いておかなきゃと思いまして

いろいろ書き始めたら

個人的な自分語りというか

ぐだぐだな長い感想分となっちゃったんで

以下は

読み飛ばして無視してくださいな

異論は聞きませんからw

 

さて

1956年生まれのジジイとしては

昭和の子供の頃から歴史の変化に

長年流されてきてたんですけどね

 

ここ松代地下壕については

昔は当時同じ国民だった方々を酷使した等で

触れにくいというか反省をしなければならない施設

という認識だったんですね

多分みんなそう思っていたと思うんですよ

いわゆる従軍慰安婦とか軍艦島とかの徴用工問題

と同じにうっすらと共通認識されていたわけですね

 

ちょっと前に

録画デッキに溜まっていた番組を

いっきに整理しているうちに

未視聴な

松代地下壕のドキュメンタリー番組が出て来たんですよ

みなさまの〇HKとかのアレです

 

なんとなく消去する前に観たんですけどね

この時はまさか

ここに訪問するつもりも無かった頃なんですけどねw

 

まあ~ど~せ自虐的な歴史ストーリーで

皆様は反省しなくてはっていう

いつものオチなんだろうって

見始めたんですけど

 

あれれ・・・

なんか・・・変だぞ・・・

ずいぶん腰が引けた作りじゃないかよ~

 

いつもの日本人がすべて悪いんだから謝罪しろじゃないの?

どーしたんだよおまえ~

 

松代では毎日酷いことをし続けたんじゃないの?

確か工夫が数百人も亡くなられて闇に葬られたんじゃないの?

って観終わったんですねw

 

視聴後にすぐに消去したのが

今となっては勿体なかったなあ

その時は

まさか松代に行くとは思わなかったからねえ

ブログを書き始めたら

も一度観たくなったなあ

 

番組内で出てくる情報のネタ元の多くが

最初に伺った

「もうひとつの歴史館松代」さんの

展示パネルの内容だったんですね

 

面白くて全部読みたかった証言記録ですね

 

今までの あたしの松代地下壕のイメージとして

工事のため

無理やり半島から騙されて連れてこられて

食事も満足に与えらず一日中作業を強要され

事故病気で毎日何十人もの労働者が亡くなった

慰安婦も連れて来られて酷い生活を強要された

とか

 

まあ最近の はやりでいうとこの

都市伝説ってのを

単純に記憶し続けていたんですね

まあ近隣でも無いし普段の生活にもリンクしないからねえ

 

多分TV番組の内容を

昔からのイメージで受けてた固定観念でぼお~っと観ていたら

昔の日本は悪い事をしていたんだなあで終わりだと思うんですよね

トーク内容とは裏腹に

映像的に悲惨なことがあったと誘導させるような造りだったからね

 

インタビュートークは今まで伝え聞いていた

悪いイメージとは正反対の内容だったんですね

良くもないけど

 

予備知識を持たなくて

シンプルに観たら

今まであたしたちに伝わってきた

都市伝説のストーリーを想像も出来ない

戦時中のひとつの場所のドキュメンタリー番組でしたね

 

「もうひとつの歴史館松代」さんて

かの人たちを応援する人たちが

立ち上げた施設だと思われるんですけど

 

パネル展示の文章が露悪的な煽り記事とは違って

事実に近いんだろうの内容だったんで

もしかしてここは

かの人たちを応援しているグループとは違うんじゃないかと

思いだして途中で混乱したんですよね

 

ここ十数年くらいからかねえ

世間では

左寄りの言論風潮が中道を超えて

かなり右寄りになってきたような気がするんですよね

 

多分インターネッツの普及からだと思うんですけど

書籍だけの個人では検証できないプロパガンダの時代から

より真実事実が優先されてきたからじゃないかなあ

 

資料館の展示記事がまさにそれで

全て見たわけじゃないんですけど

淡々とした当時の事実のみが書かれていたように読めたんですね

 

近年は何処でも公開してる展示資料等には

事実が優先されてきて下手なことを書いたら

突っ込まれるというか炎上案件必至の世の中だもんねえ

かつての大げさ盛りすぎっていう

小さな嘘が混じった話の記事を

表示出来なくなってきているのかもなあと思ったんですよ

 

そういえば坑内で聞こえて来た

ガイドさんの解説は記録に残らないからなのかなあ

個人的な解釈を伝えていたんだろうなあと考えたんですよね

 

事実が広まってきた今の時代

違和感にしか思えない平和祈念碑とか

坑内の折り鶴を捧げた人達も減ってきているんじゃないかなあ

 

中高校時代はひたすら本ばっかり読みふける毎日で

プロレタリア文学がお好きな

現国の教師の影響からかな

いやあそんな時代だったんだよね

話題の書籍は

左的な本ばかりだったもんなあ

社会主義思想がカッコイイ時代だったんだよなあw

蟹工船みたいな作品ばっかりよく読んでたもんなあ

もー難しくて今じゃ読めませんて

当時は面白かったのかなあ

記憶も蘇りませんて

 

そのころは革新とかの言葉が使われだして

御皇室や政府に反抗するのが当たりまえの時代だったもんね

 

あたしの20代は

K君とか早逝したA君とかと

山や自然に入る事ばかり考えているうちに

いつの間にやら中道を超えて

今や立派な親右派になってきたわけですね

もう20年以上の初詣は靖國神社様の昇殿参拝だしねw

 

そおいうのも時代に素直に流されやすい

いい加減な人生やってるだけなんだけどねw

 

今回調べているうちに

昔の松代に持ってたイメージと

かなり違うって事に驚いたんですよ

 

分かってきたこととして

 

戦後秘密計画だったこともあって

資料と記録がほぼ消去されたんですね

だから余計にプロパガンダとして使われ

事実が不確かになっています

 

日本人の作業員は勤労奉仕隊として少額の報奨金を受けた

付近の住民 と小学生以上の学生等 延べ3000人

当時日本国民だった半島から来た労務者は賃金をもらっていた

時期の違いはあるが推定7000人の記録がありました

 

よ~く考えたら分かるんだけど

地下壕は陸軍が主導したとはいえ

現場の建設は民間企業に任せていたわけで

現在も続いている大手ゼネコン数社に発注してたんですね

 

当時ほとんどの日本人青年は軍に所属していたわけで

民間の労働には従事できないわけです

現在はかの国の人々の

出稼ぎ者が労働力の主力だったんですね

 

建設会社としても

極秘の緊急施工だったため

ダム工事 トンネル 炭鉱にいた傘下の労務者を

全国から急遽集めたようです

 

坑道内の先端部分で働く人は

専門職 スペシャリストなわけで

長期にわたって働いてもらわなくては困る訳で

待遇を良くして当時の日本人より高額な賃金と

一日米8合と食肉を渡していたとの民間資料が残っているんですね

気軽に地元の農家に出向いて

余った米と引き換えに野菜その他物品等を交換していた証言があります

 

また慰安所の件も

実際は工夫の間でも上下の地位があったようで

労務者をまとめる上位の立場の人が利用してたとの証言も出てきました

軍人や日本人は市内にいくつもの色町とか遊興場があったわけですからね

 

建設業は今と同じく

大元から子会社 孫請け会社とある訳で

一部の良くない孫請け以下の所で

自国で勧誘されたり騙されたりしての来日後

不運な境遇になっていた事実は当然あったと思われます

そんな工事人はご不幸だったとは思いますね

 

壕内での事故はそれほど多くなかったようで

労働に従事していた人たちが大量に亡くなったという噂も

10名以上の死亡記録と証言はほとんど得られていない

 

戦後労働者はほとんどが手当と帰国費用を受けて帰国した

松代の人たちによる見送りも盛大に行なわれたという記録があり

地元民との交流が普通に行われていた証拠ですね

 

少数の労働者が個人的な理由でそのまま日本にとどまったとか

ここで働いていた人達への賠償等は既に政府間で決着が付いている等

 

憲兵隊による監視の下で重労働を強いられたとかの話も

当時極秘の計画施設では

当たり前の警備としか思えないんですね

 

地下壕を掘削して出たズリ(石屑)は

終戦後霞ヶ関一帯の舗装に使われたとか

進駐軍が舗装するのに都合のいい堅い石が松代にあったのを知り

本土決戦を覚悟して掘り進められた地下壕のズリが、

進駐軍によって霞ヶ関の舗装に転用されたというのは

何とも皮肉なことである などなどが出てきました

 

 

当時80年前の工事に携わった方々は

機材も今のように便利ではなく

大変だったろうし

ご苦労されたとは思いますけど

不本意に亡くなられた方には合掌しますけど

 

鶏頭のあたしとしては

戦争中は異常な時代だったろうしなあ

いろんな人生があったんだろうと想像するだけです

子供の頃にはしっかりと貧富の差があったしね

今になって

あんまり人種差別とかで押し付けられてもなあ

 

あたしの家族だけでも

いろいろな人生があったようです

 

母の兄は昔プロ野球球団を持っていた水産会社の

捕鯨船乗組員で

軍から輸送船として徴用されているときに

何処だかわからない海で潜水艦に沈められたそうで

靖國神社様の何処かに軍属としての名簿が刻まれているとか

 

別の兄は少年時代に志願しての入隊

輸送部隊に配属されて

トラックの運転を覚えさせられて大陸に居たとか

戦後は自動車の免許を持っている事自体が貴重だったそうで

楽々民間のバス会社に就職

内勤は字が下手なんで嫌だと拒否をし続け

※あたしはその血を引いているんだなあw

わがままを通して定年まで路線バスの運転手をし続けて退社

その後皇居で

なんとか栄誉賞とかの勲章と金杯を頂きました

王選手が頂いたアレですね

 

母は小さな頃に両親共に病死したため

親類を頼って兄弟バラバラに

面倒を見てくれた親類の家は貧農だったらしく

おかずは貧相だったけど

戦時中でもお米を切らしたことは無かったとか

 

父は子供の頃友人たちと軍に志願しようと約束していたら

父親に ぎりぎりになるまでは兵隊に行くなと

許可を貰えなくて焦心しているうちに終戦

友人たちはみな生きて帰国できなかったそうです

そこで死んでいたらあたしも生まれてないしねえ

 

カミさんの父親は

関東軍で終戦 ロシアの捕虜になって

なんとかスタンとか未だ分からない国に抑留

元の仕事が床屋だったんで

ロシア将校達の専属理容師と使われ

好待遇の捕虜生活をしていたとか

逆になかなか離してくれなくて

その場所で最後の捕虜グループにまでになって

帰国が7年後になったんだとか

 

将校からのチップでお菓子とか便宜をもらったが

全て同僚に渡していたのに

それでも好待遇をやっかまれていて

一部のグループから

帰国の船中で海に落としてやろうと画策されていたそうで

2日間眠らないで船内に潜んでいたんだそうだとか

日本に上陸したときは

捕虜期間より辛かった移動と

生きて船を降りられたのが嬉しかったんだそーです

 

 

まあ戦時中はみんな

それぞれにいろいろあったわけですよ

 

戦争は知らないけど

身近には感じていたんですよねえ

現在戦争をしていない日本に生まれて

人生をなんとか全うできそうなあたしとしては

ありがたいことですやねえ

 

象山地下壕見学後の感想をつらつら書いてきたんですけど

結論として

まあ・・・ありがたいわなあ