こんにちはあ

今日も暑かったんですけど

梅雨が近づいているんでしょうねえ

お天気が定まりませんねえ

 

皆神山からの続きです

 

皆神神社様の駐車場から山を下りて

15分ぐらいで

 舞鶴山 気象庁松代地震観測所に到着しました

 

さて

こちらは気象庁の現役の施設なんですけど

戦時中の遺構を再利用した変わった施設なんですね

先ずは歴史的なことを少しばかり

 

第二次世界大戦末期に 

軍部が本土決戦の最期の砦として

長野県松代に

皇居 大本営 軍司令部や 参謀本部 政府等の 

重要拠点をこの地に疎開させるべく

 

皆神山  舞鶴山 象山地区 地域の地下に

極秘裏に巨大な 地下要塞 (坑道) が築かれました 

実際には75%の工程を終えた時点で終戦となった為

完成には至らなかったんですね

 

いわゆる遷都ですね

 

こちら 舞鶴山が戦時中

臨時的に皇居施設を移設した場所です


当時のお金で約2億円の巨費を投じて

終戦までの9ヶ月間に掘られた

三地区の地下坑道は

総延長10kmあまりという大規模なものでした

 

当初

皇居と大本営は皆神山の地下に移転される予定だったが
皆神山の地盤が脆く危険なため備蓄庫になり

皆神山の南西にある舞鶴山の地下に

皇居と大本営を移転する計画に変更となったそうです


新世紀エヴァンゲリオンにも松代に実験場が置かれていましたよねw

この辺り お好きな方たちには有名なんでしょうねえ

 

 

 

舞鶴山 地下壕 駐車場に到着

皆神神社様でナビに

気象庁松代地震観測所と設定したら

こんなところに着いてしまいました

大型バスも停められる公的駐車場でしたね

 

なんだあ ここはと思ったら看板がありましたよ

なんだかぱっと見 分かりにくくて

どこに行ったらいいのか分からなかったんですね

南北が逆の地図に最初は気付かなくて混乱したぞ

確かにこの表示の通りだったんだけどさあ

 

 

看板の所からトンネル穴が見えたんで

気の早いK君が歩き出そうとしたんで

押しとどめて車で

奥の駐車場まで移動しましたよ

 

気象庁松代地震観測所

 

案内板から2分ほどで駐車場に到着

だーれも居ません

鶯の声しか聴こえない静かなところでしたねえ

 

遺構見学者用の案内図です

通常見学できるのは戦前に造られた緑色の建物を

外部から見られるだけなんですけどね

 

戦時中に造られた建物ですが

現在一部が

気象庁の施設として使われているようですね

 

1号庁舎が天皇の間

天皇御座所

2号庁舎 皇后行在所
間取りは1号舎とほぼ同じ
3号庁舎 

皇太后・皇太子・内親王・直系3宮家の

住居と予定されていた

5~6号庁舎まであったらしい

各部屋の奥には天皇皇后専用の

地下坑道があって

大坑道に繋がった造りになっているそうです

 

気象庁松代地震観測所

人の気配も無くって

観測所の入り口らしい

正面玄関のシャッターは降りていました

 

歩いていて分かってきたんですけど

現在は完全無人の観測所なんでしょうねえ

地下豪を再利用した観測室は

ばっちり現役なようですが

 

天皇の間⇧

勝手に見学してねの小さな案内が

事前の調べでは

建物を外からのみ見学可能となってたんで

早速上がってみました

 

天皇御座所

戦時中天皇陛下と御皇室の方々に

避難をして頂くために造った建物です

 

昨年かな

無理やり視聴料を ぶん取るTV局の

特集番組で観たのとおんなじだあ~と

 

白い看板の右奥はシャッターが降りてたね

倉庫と解説があったけど

賢所にしようとしていたのかな?

 

山のすそ野に合わせてカーブしているんだね

こちらも無人で のどかすぎてw

いいところだなあ~としか思わなかったですね

 

 

解説板を見ると

 

爆撃から守る

80~90cmの厚さの屋根と天井とか

外見からはそんなに厚く感じないし

普通の家屋としか思えないですね

 

完成後は天井に土を盛って木を植えて

山と一体化する偽装を予定してたんだとか

約80年前の建物って想像しにくいのは

外壁リフォームとかしてるだろうねえ

 

セコムのシールにちょっと笑ったね

そこら中に監視カメラが配備されている感じがするから

怪しい事なんかする気も起きませんでしたあw

 

 

さて

こちらの松代地下壕群は

書籍も多く出版されて

研究も進められていて

情報量が多すぎて読みだしたらきりが無いんで

簡単に行きますねw

 

でも長くなったかなあm(__)m

 

戦況が悪化しだした

昭和18年ぐらいから

ここ松代に東京から重要施設を遷都をして

戦局を立て直す

とてつもない計画が進行してたんだとか

 

終戦の数か月前に

宮内省が昭和天皇に皇居移設の説明をしたおり

「私は国民を置いて東京から逃げ出すことは無いと」

頑なに拒否をされ

関係者が困惑したんだとか

 

それでも陸軍省主導で

地下壕建設は止まらず

陛下を安全に移動して頂く為に

特別な戦車ベースの車両まで急遽製造して

極秘裏に深夜の都内の道路を使い

警備の戦車数十台を含めた

移送模擬訓練が終戦まで続けられたんだとか

 

陸軍省は賢所(三種の神器祀る所)について

天皇の常の御座所(部屋)の隣室に神棚をつくり

置いて頂ければ良いと思って施工していたが


宮内省より
「三種の神器は不可侵

賢所は陛下の常の御座所と

伊勢の皇大神宮を結ぶ線上の

南面に造営しなければならない

建設に際して工事人は

純粋な日本人(無垢な青年)でなければならない」

 

と強く厳しく指摘されたと記録にあります

こうして新たな工事が追加され昭和20年7月より

御座所 賢所 皇太子 皇太后 皇族壕の

工事が着工したと

 

たとえ天皇陛下の身に何かがあったとしても

賢所の神器さえ無事であれば

別の皇族を立てて天皇とすることができる

というスタンスだったようですね

なんだか恐ろしいなあ

 

掘削要員は「無垢な青年」ということで

静岡県の鉄道教習所でトンネル工事の技術を

学んでいた少年隊に決まったとか

 

賢所は御座所と伊勢の皇大神宮を結ぶ線上にある

近隣の弘法山の南面に決まったが未完成


※線引きモノはやっぱりあるんですねえw

 

そういえば昭和陛下は

戦後しばらく地下壕にお住まいになられていたはずと

思い出して調べたらいっぱい出てきましたよ

 

皇室関連の話題のサイトって多いんですねえ

逸話が多くて

驚いちゃいましたよ


戦時中の皇居内の陛下のお住まい

 

皇居内には「防空室」と呼ばれる地下金庫室があり

昭和天皇と香淳皇后は空襲の警報が発令されると

三種の神器の剣と

印(剣璽けんじ)を持ってこの中に

避難されたそうです


昭和16年(1941年)「防空室」は狭い上に

大型の爆弾に耐えうる設計ではなかったため

新たに防空施設を造ることになりました

1トン爆弾に耐えうるよう屋根の厚さ3m

コンクリート層 砂層 コンクリート層の3層構造とした
施設が完成し

御文庫(ごぶんこ)と名付けられました


昭和天皇は午前中は表御座所で政務をされ

午後は御文庫でお過ごしになるようになりました

戦局が悪化するにつれ御文庫ですら危ないということになり

御文庫のそばに新たな防空壕を造ることになります

御文庫 附属室です
附属室は地下10mのところにあり

会議室が2つと控室 機械室があって

それぞれ1mもの幅の鉄筋コンクリートの壁で仕切られていました

昭和20年(1945年)の6月ごろ完成したといいます


御文庫附属室は50トン爆弾に耐える能力を持ち

御文庫も6トン爆弾に耐えられるよう補強されました

附属室の完成に先立つ昭和20年(1945年)5月

米軍機B-29が250機来襲し焼夷弾を投下しました

これにより東京では16万戸が全焼し

皇居内も大きな被害を受けます

大小27棟もの明治宮殿も全焼

 

その知らせを聞いた陛下は

「そうか 焼けたかこれでやっとみんなと同じになった」

とつぶやかれたと伝わっています

以降 居住は御文庫という状況になりました

そして

終戦直前の御前会議が開かれたのもこの場所

そして終戦

東京は一面の焼け野原でした

町の復興もすぐには進みません

同様に皇居もまた宮殿が焼失してしまったため

両陛下は御文庫での生活が続いていました
 

建設当時雪が積もっていた砂を

天井にそのまま詰めてしまっていて

溶けた水が何年も経ってからコンクリートから浸み出して

ぽたぽたと落ちてくるありさまでした


同じく御文庫附属室は地下深くにあったため

そこから伝ってくる湿気も酷いものだったといいます

スーツを吊るしておくと一両日のうちに湿ってしまったのだとか


こんな場所に陛下を住まわせてはおけないと

侍従は御所の新造を提言しますが

陛下は「世の中には住む家の無い人もあるのに

私にはこれだけのものがあるのだから」

と あっさり却下


ではせめて修理を…と調査してみれば

天井裏からなんとドラム缶2本半もの水が出てきたのです
これはいかんと再三にわたり陛下に新造を奏上するも

やはり陛下の答えはNOでした


そして日本は戦後の混乱期を乗り越え

高度経済成長期を迎えます

昭和34年(1959年)皇太子殿下御成婚で

世間はミッチーブームに沸きますが

その時ですら なお まだ

両陛下は御文庫にお住まいになっていました


結局それからさらに2年後

昭和三十六年 終戦から丸16年経過して

ようやく新たに建てられた吹上御所にお移りになったのです

吹上御所は2階建ての洋風建築で

「こんないい家に住めるようになったのもみんな国民のおかげだ」

とこの年に還暦を迎えた陛下はおっしゃったのだそうです
 

旧予定 天皇御座所の内部

 

ガラス窓にスマホを密着して撮りました

少しでも斜めにすると乱反射で中が見えなくなるんで

正面しか撮れなかったのが残念でしたねえ

 

 

床の間がある部屋は15畳(現在は仕切られて2間)

ここで陛下に寝起きして頂くように作ったら

「陛下の施設は大変質素で良い」が

「陛下は日常今までずっと日本間はお使いにならない」と

現地視察に来て内覧した侍従から言われたとかw

 

陛下は通常ベッド使用で畳には寝られないんだとか

そんなこと当時は関係者でも想像できないよねえ
 

わりと質素な古い旅館みたいだね


松代大本営建設に至るまでの御皇族の御住居


宮内省の指示により

皇太子・皇太后・内親王・直系3宮家専用の住居は

ここから約16km離れた

長野市の善光寺温泉近くに牽かれていた

昭和18年に運行廃止した善白鉄道の

トンネルを利用する計画があった

 

 当時すでに廃トンネルだった

4本のうち3本のトンネル内に

皇太子・皇后・内親王・直系3宮家が住めるよう

各々の木造住宅をつくる計画だったが

この工事は準備している間に終戦となった

また

普段はトンネル外の施設で生活し

空襲時にお召車両をそのままトンネル内に待避させる計画もあった

ういきさんより

 

当時 皇太后と皇太子は田母沢御用邸(栃木県日光)に疎開されていました

 

ここまで

昭和陛下と防空の話を書いてきたんですけど

なんかこのまま真面目な話ばかりで

終わるのも なんだかなあと思いまして

 

不敬かなあとは思うんですけど

妄想のつぶやきを ぶつぶつぶつぶつ・・・

 

首都防空といえば・・・

東条総理がえた情報により

近々東京が壊滅する程の爆撃が予想され

昭和陛下に縋り付いて

回避していただいたとかのお話がありましたね

 

一個目の原爆を積んだB29が

投下をするため東京に飛んできた時

昭和陛下が祝詞をよまれて

護衛の戦闘機もろとも

千葉沖で異次元に吹き飛ばしたという話を

思い出しちゃったんですよねえ

 

戦後マッカーサーと

空間移動ができる物理的な検証ができる

その時の祝詞の内容を渡す条件で取引をして

戦後の日本を分割もさせず

救ったという展開になる話なんですけどね

 

久しぶりに検索をしたら

やっぱりネタ元は保江邦夫さんだけなんですねえ

小泉太志命 氏が同じくB29を異世界に掃った

という本は持ってもいるんですけど

 

昭和陛下と共同して行われたのではないか?

との 謎の部分が

近年更新されているかもと期待をしたんですけど

 

新事実も出てこなかったし

最近は話題にもなってないんですかねえ

 

やっぱり保江邦夫さんの妄想だったのかなあ

ちょっと残念ですねえ

う~~~~~むむ

 

はい!妄想終了~~

大うその話なんで

本気にしないで下さいねw

 

 

気象庁松代地震観測所

 

松代舞鶴山地下壕の跡地利用


1947年 - 舞鶴山のコンクリート庁舎に

中央気象台の松代分室が設けられ

舞鶴山地下壕に各種地震計が設置された

現在では日本最大規模の地震観測所となっている
1967年 - 松代群発地震発生で松代地震センターが設置される

 

冷戦時において北朝鮮のほかソ連インドの地下核実験を探知し

核開発競争に日本としての役割を果たすこともあった

冷戦後もこの施設は

包括的核実験禁止条約における核探知の中心基地として機能している

 

現在は世界屈指を誇る

気象庁の地震観測所として使用され

高倍率のひずみ地震計をはじめ

各種高性能観測機が設置されています

これを機に 地震予知研究が大きく飛躍し

現在の 「地震予知連絡会」 が発足している

 

1965年から 1971年にかけて発生した 「松代群発地震」は

ピーク時の2年間で 

震度5相当が 9回、震度4で 48回、3が 413回

有感地震 6万回越1日当たり 最大585回 (約2.5分に1回の割) もの

 地震が連発する世界的にも稀な長期地震だ 有感地震は5年半に及び

無感地震は現在でも毎日のように発生しているのだそうだ


群発地震の震源が当初は全て 

皆神山の直下 3~5km で発生していて

震源域が次第に拡大していった

なぜ火山でない皆神山が震源になったのか

現在でも解明はできていない


地下溶岩の上昇の影響による 

岩盤の膨張と破壊が群発地震の原因 と考えられているが

観測記録を見ると正に山そのものが揺れていたと思える

 特異的な現象であった


この地震活動の前後で 皆神山は約1m 隆起し

付近から 「松代地震断層」 が発見された
地割れ群からは 大量の湧水が起こり

地滑りや液状化現象を誘発している

1966年頃

数か月にわたる謎の 発光現象が観測された

 

 この群発地震を契機に1967年行われた

通産省の地質調査では

皆神山の中心部に低重力域があることがわかっており

このことから皆神山の中には"マグマ溜まり" を起源とする

800m ×1500m ×高さ200m の

巨大な空洞があるのではないかと推測されている

皆神山が色々な意味で世界的に注目されるようになった


また付近の象山地下壕1番壕には

信州大学の宇宙線観測施設が設けられている

 

 

観測所の駐車場からの風景

 

解説版を見た後に

この のどかな風景を見てたら

数日前に観たトップガンⅡマーベリックを

思い出しちゃいましたよ

山に囲まれた秘密地下基地を攻撃するストーリーですよね

確かに攻撃は難しそうだなあ

 

そーいえば

あの映画の敵国戦闘機の翼は

どう見ても日の丸としか思えないんだよねえ

話題にはなってないみたいだけどw

 

最初に停まった駐車場に戻って来ました

この時点でも だーれにも会いませんでしたあ

 

歩いて観測地下壕を見に行きました

川がきれだったなあ

 

当時の坑道のままのコンクリートの入り口

 

 

 

 

フェンスの中です

この奥に観測施設があるんだとか

一般公開はほとんど無いようです

 

 

 

地下壕の前の地面に

鎖に囲まれた蓋がぽつんと

これは結界じゃないよねw

 

案内板には

ボアホール地震計が設置と書かれていました

 

鍵は掛かっているんだろうけど

無防備過ぎないかいw?

重要なケーブルもいっぱい入っているんでしょうねえ

 

橋を渡って駐車場に戻りました

 

この像山地下壕に移動しました

 

ほんとに

のどかで好い所だったなあ

 

この後は像山地下壕跡に行きました

こちらも歴史的に複雑な経緯があるんで

次回のブログ記事の書き込みは難しいかなあ・・・

 

長々と失礼しましたm(__)m