こんにちはあ

久々にブログを書こうかと思いまして

 

病院ネタはいつまでもだと辛気臭いんで

避けたいし

かといって疫病感染が怖いんで外出も極力自粛してまして

ネタがないなあと

 

最近の我が家はスポーツ観戦が趣味のカミさんの影響で

TVでは冬季オリンピックが常にかかっています

 

若い頃からスキー三昧だったもんで

夏季オリンピックよりも

点いていればそのまま つい観てしまいますけどねえ

あたしが若い頃は

日本選手の表彰台なんて

ジャンプ ノルディック系ぐらいしかなくて

アルペン競技入賞なんて夢のまた夢でしたよねえ

今回は平均してメダルが取れるようになっていて

凄いなあと嬉しく思っています

 

長野オリンピックの時の原田選手の感動は

志賀高原のホテルで観ましたっけねえ

スエーデンチームが同宿してたっけ

もう 24年も経つんですよねえ

 

さて今回のオリンピックで

あれ!?って思ったことを今回書こうかなと思います

あまりにも個人的な事でして

わざわざブログ記事にすることもないかなあ

でも最近 な~んにも新しい事や考えた事もないしなあとw

写真も撮っていないしねえ

 

先日東京でも雪が降りましたけど

多摩地区でも積雪は数センチで除雪作業することもなくホットしました

最近雪景色を見てないなあと

懐かしくなって

PCの奥から昔の雪の画像を探してきましたんで

記事とは無関係ですけどアップしますね

 

水上駅郊外から

 

スタート前の大宮駅で

 

 

 

 

さて

オリンピックのTVを見ていると 張家口という地名が

ちらほら出て来て

張家口ってあの 張家口?

ふう~ん・・・

しばらく観ててもTVからは

張家口と日本人との関連が解説されてこないし

SNSのタイムラインにも出会わなかったし

いいのかあ?知らなくても~と

寂しい気持ちになっていたんですよねえ

 

張家口といえば北京じゃなくって

旧モンゴルなんですよねえ

先の大戦 

終戦直後に4万人もの在留邦人大脱出を成し遂げた

根本博中将の功績が昔から有名だったはずなのに

今回のオリンピックで触れられない事が 

なんか残念なんですよねえ

 

バリバリの戦後ッ子の私も本で知っただけの事ですけどね

せっかくだから流れを書かせて頂こうかと思いまして

 

ういきより 根本博中将

終戦時に内モンゴル駐屯していた駐蒙軍司令官として

終戦後もなお侵攻を止めないソビエト軍の攻撃から

蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在していた在留邦人4万人を救った

1945年8月のソビエト軍の満州侵攻は

8月15日の日本降伏後も止まらず

同地域の日本人住民4万人の命が危機に晒されていた

ソビエト軍への抗戦は罪に問われる可能性もあったが

一切の責任を負って自分が腹を切れば済む事だと覚悟を決め

根本は

「理由の如何を問わず陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし

これに対する責任は一切 司令官が負う」と

日本軍守備隊に対して命令を下した

攻撃を止まないソビエト軍に対し何度も突撃攻撃を繰り返し

ソビエト軍の攻撃を食い止めながらすさまじい白兵戦を繰り広げた

更に八路軍(人民解放軍の前身)からの攻撃にも必死に耐え

居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜いた根本は

中国国民党軍の傅作義と連絡をとっていた

8月19日から始まったソビエト軍との戦闘はおよそ三日三晩続いたものの

日本軍の必死の反撃にソビエト軍が戦意を喪失した為

日本軍は8月21日以降撤退を開始

20日に内蒙古を脱出した4万人の日本人は

三日三晩掛けて天津へ脱出した

その後も引揚船に乗るまで

日本軍や政府関係者は彼らの食料や衣服の提供に尽力した

一方の満州では関東軍が8月10日居留民の緊急輸送を計画したが

居留民会が短時間での出発は大混乱を招く為に不可能と反対し

11日になってもほとんど誰も新京駅に現れず

結局軍人家族のみを第一列車に乗せざるを得なかった

これが居留民の悲劇を呼んだと言われる



1946年、根本は最高責任者として在留日本人の内地帰還と

北支那方面の35万将兵の復員を終わらせ最後の船で帰国した。

終戦時中国大陸には日本の軍人・軍属と一般市民が合わせて600万人いたが

蔣介石は日本軍の引き揚げに協力的で

本来ならば自国の軍隊の輸送を最優先させねばならない鉄道路線を

可能な限り日本軍及び日本人居留民の輸送に割り当てた

以上 ういきより抜粋

 

あたしの感想

当時縦社会の軍部内では本国の命令は絶対で

軍部の命令=天皇陛下の詔勅(しょうちょく)で逆らえる事ではない

全ての将軍たちは 本国からの終戦 降伏 武装解除の命令を受けて従ったが

根本博中将だけは ソ連軍との和平交渉なんて信用できない

※○スケの言う事なんて信じられるか!と言われたとかw

降伏後の無事が保証できない

終戦後の戦闘は 天皇の詔勅には逆らうことになるが

大御宝(おおみたから=国民)を守る事こそ

天皇の 大御心(おおみごころ)に報えると信じたそうです

前例踏襲より信念で考えられる方だったようですね

 

近年の疫病対応されている上部の方々で

こういう独断で動かれる方はいないんだろうかと

つい思っちゃうんですよねえ

現代では無理かああ・・・

 

これと同じく終戦直後

千島列島東端の占守島に侵攻してきたソ連軍に対して

一旦の武装解除を取りやめて戦闘を指示した

樋口季一郎中将の占守島の戦いが

戦後の2大名戦闘として語り継がれていて

(占守島の戦車戦は現在でも世界中の戦車戦の教科書に載っているとか)

これのおかげで北海道が占領されなかったわけですね

 

戦前の日本は南米を始めとして 中国大陸モンゴル各地に

600万人もの開拓団を出していて

現地で開拓した土地を所有して財産を持ち生活をしていたようで

人種も中国人モンゴル人ロシア人ヨーロッパ人が共存して

それなりに安定していたようで

南方の日米戦争を理解していなく

日本軍が敗戦撤退しても

警察官が日本人からロシア人に変わる位のイメージで

財産没収 虐殺されることまでは無いだろうし

満蒙での生活が続くと思い込んでいたようですね

 

そのため満州での軍の退去要請に従わなくて

軍人とその家族だけが撤退列車に乗り 結果助かり

軍は民間人を捨てて逃げたとの旧陸軍に対しての

悪い風評が今でも続いているんですねえ

 

根本博中将も最初は撤退希望の日本人が揃わず

居留民幹部を説得したのちの一夜にしての全員撤退となったようです

 

2001年1月8日 高崎駅にて

先日のように関東以北で雪が降った日でした

カミさんと18きっぷの余りで水上まで雪を見に行こうかと

軽いノリで出かけたはずでした

 

上野駅からの列車を牽引するC58363が待機中

 

雪がレフ板の代わりで下回りがきれいに出てました

 

懐かしいなあ

ELSL奥利根号です

 

上野駅からけん引してきたEF5861

ここで切り離してSLに変わると思っていたら重連になっちゃった

 

まだこの頃は こちら側のホームのこの立ち位置に入れていたんだねえ

今は入れないよね?

 

静かにバックしてます

 

 

客車はいつもと違う新潟から来た

ばんえつ物語号の客車ですね

 

蒸気をまとって発車しました

 

さすが水上駅 雪が多いですねえ

 

しばし休息

 

 

 

 

 

機回し中

 

ホームの人達は殆ど帰り便の乗客かな

 

色補正が合わないなあw

 

 

 

この後この列車を追いかけて

途中駅から上野駅まで乗車したと思います

贅沢な編成でしたねえ

まあ20年も前のお話ですもんねえw

 

 

ほんの思い付きでしたけど 

ついつい長くなりましたあ

張家口撤退と占守島攻防戦は

結構書籍化もされているんで気になった方は探して読んでみてくださいな

 

特に根本博氏は戦後しばらくしてから

国民党の蒋介石氏には世話になったからと

ぶらりと釣りに行くからと漁船に乗って台湾に密航して

台湾の軍事顧問になり大陸と金門島で抗戦

台湾の独立に貢献されました

 

当時の国会でも根本氏の密航の真偽で

質問が行われましたが

終戦後のうっぷん晴らしからもあり

与野党ともに好意的に応援しながらの審議が行われたとかw

 

凄い日本人がいたもんだなあと

偉人だねえ さむらいだねえ と

昔驚いたことを

オリンピックでの張家口思い出したんですねえw

 

ちなみにカミさんの父親は 7年間

なんとかスタン?とかに捕虜で抑留されて帰ってきた人で

この辺の話はまた機会があったら書かせて頂くかもです

 

 

長々とご覧いただき有難うございましたm(__)m