美紀と恵里は、次に長宗我部の歴史を見てみることにした。

長宗我部は、秦の始皇帝の子孫である。

元親の末弟親房から400年・17代目以上続いている。

元親の血は、途絶えたものの弟の血は続いているのだ。

長宗我部氏が領地としていた現在の高知県南国市一帯は、なだらかに海へと繋がる高知最大の穀倉地帯である香長平野が広がり、
その平野の終わりにある岡豊山が、長宗我部氏の居城、岡豊城。
岡豊城二の段からは、香長平野が一面に見渡せる。
高知は山岳地帯が多く、稲作に適する土地が少ないので、
「土佐のまほろば」と言われ、時代は古く、弥生時代の出土品もあり、平安時代には紀貫之が48代目の国司として訪れ、土佐日記を残している歴史ある地域である。

この、まほろばで成長し、毎日平野を見つめ、元親は四国を大きく飛び越え、天下を夢見たのがわかる。

長宗我部氏の居城・岡豊城は平成20年、中世の城郭を色濃く残しているものとし、国指定史跡になった。
起源は定かではないが、平安時代後期~鎌倉時代初期に長宗我部氏の祖、秦能俊が土佐へ移住した頃からあったのではないかと言われており、元親が大高坂城に移転する1588年頃まで存在したのではないかと考えられている、長宗我部氏始まりの地である。

では順に、一期目から見ていくと第1期 聖徳太子のブレーンであった秦河勝

4世紀ころ始皇帝から11代目くらいにあたる(この辺は不明のようだ)攻満王が日本に渡来し帰化する。秦一族は養蚕業で富を蓄え、6世紀の聖徳太子の時代には秦一族はかなりの豪族になつていた。中でも、日本渡来後5代目の秦河勝は聖徳太子の経済・軍事のブレーンとなり、17条の憲法制定にも関わった。物部守屋を討った功績で信濃国が与えられ、末裔が信濃に移り住んだ。

 なお、秦河勝は広隆寺を創建(603年)。有名な弥勒菩薩は聖徳太子から賜ったものとされている。映画村で有名な太秦
一帯は秦一族が栄えた所であった。


第2期 土佐に移り住んだ秦能俊

 信濃にいた秦能俊(秦河勝から21代目)は、保元の乱(1156年)の時、崇徳天皇側につき敗北。敵の襲撃を恐れ土佐に移
り住む。当時の土佐は京から遠く、罪人遠島の場所とされていた。移り住んだ所の地名、長岡郡宗我部郷をとって長宗我部と改姓する。

第3期 長宗我部元親の親、国親まで土佐に移り住んだ長宗我部家は土佐七雄の一つになっていた。長宗我部能俊(初代)から19代目兼序(カネツグ)の時、土佐七雄の本山氏を中心とした三つの雄の連合軍に攻められ長宗我部の本城、岡豊城(オコウ)が落城、落命。領地は奪われる。

 兼序の嫡男、後の国親(当時8歳)は土佐の守護職土佐一条家に難を逃れていた。10年後、土佐一条家の調整で、長宗我部の旧領を元親に返還させる。国親、18歳であった。親の遺言は本山氏を打て、であった。国親の復讐が始まる。岡豊城周辺の城を陥落させる。


あとは、元親が秀吉の前に降伏し、盛親、関ヶ原で西軍についたために長宗我部家は土佐を没収される。

そして、土佐は山内のものとなる。

世は徳川の時代。土佐藩主は山内家。元親の本流は子供の盛親で途絶えてしまった。

 土佐には元親の末弟(国親の四男)である親房の子供五郎左衛門がいた。五郎左衛門はプライドを捨て、「長宗我部の名を存続させることを自分の使命として生きる。」ことにした。

五郎左衛門長宗我部の名を表には出さす、島と名乗った。山内一豊は山内家家臣を「上士」とし、長宗我部家臣を「下士」と身分を分けた。幕末に、立ち上がったのはこの下士たちであった。坂本龍馬、武市半平太、中岡慎太郎、岩崎弥太郎しかりである。

五郎左衛門は下士、御歩行(おかち)に召された。親房を初代にして、幕末は12代目與助(よすけ)の時代であった。身分は下士であったが、志士には加わっていない。目だたないように生きた。

 明治になって與助は長宗我部重親と名乗り、長宗我部を復活させた。

1929年(昭和4年)、昭和天皇より長宗我部元親に正三位が贈られる


 その後15代目長宗我部親(ちかし)は、水心流剣詩舞の開祖となる。

こういう壮絶な歴史が、長宗我部にはあるのだ。

美紀が語る度に、恵里は楽しくてたまらなくなった。

語る美紀も、実際に高知で見ることで興奮していた。

美紀は、言った。

「初めて知る人は、特に驚くよね。

あの中国の秦の始皇帝から、血がつながる長い歴史をもつ長宗我部だもんね。

そして、一つ一つの重要な歴史に長宗我部は関わってきた。

考えただけで、すごいことだよね。

脈々と始皇帝の血は、受け継がれてる、私はそんな気がする。」

すなわち始皇帝の血が、長宗我部を歴史に関わらせているのではないかと美紀は思ったのだった。