もうすぐ締切りの明石市文芸祭の詩の部門に、詩がかけてすぐ、8月11日にネットで応募したのだが、後悔することしきり。
ひと言で言えば、推敲不足。
もっと言えば、推敲以前に土台からなっちゃいない。
何でそういう拙速なことをするかなー。
読み返せば読み返すほど、書き直したくなる。
いつもそうだ。
詩に限らず、どんな芸術作品も、醸成期間が必要だと僕は思っている。
どんな化学変化が起きるかわからないからだ。
その変化は実に内向きで、作った者にしか気づけないほどのことかもしれない。
でも、その気づきがとても重要なことなのだ。
放っておくと、腐ってしまい、お客様(読者)に出せない代物になっている。
いや、僕の場合、最初から腐っているのだろう。
腐ったものを平気で出した自分がとても恥ずかしい。
賞を獲るとかそういう話ではなくて、もっと大もとの話だ。
そんな代物を、
「はい、蘇武羊の作品です。」
と、自ら差し出すこの破廉恥さ。
穴があったら入りたくなる。
「恥だのなんだのと、そういう風に考えているから、いつまでたっても詩が書けないんだよ。」
別な自分が、そうささやく。
うん、一理ある。いや、十理ある。
でもね、カッコつけの自分には、自分の恥が耐えられないのだよ。
そう言えば、以前、ツイッター上で頻繁にいい詩をアップロードする詩作の友だちとお話したところ、
「ツイッターで詩を発表するのは、野球で言う『素振り』のようなもの。」
と言われ、ハッとしたことを覚えている。
そうだよな。
あの大谷選手だって、バッターボックスにいきなり立って、たくさんのホームランを打っているわけではないもんな。
そのレベルに到達するまでに、どれほど鍛錬してきたことか。
それこそ、花巻東高校時代から、いや、野球を始めた頃から、きっと数えきれないほど素振りをしてきたことだろう。
それを、なんの練習もしないでいきなりホームランを打とうとして、三振した自分を恥じているなんて、へそで茶を沸かすほど、ちゃんちゃらおかしいこと。
そのこと自体を、ほんとうは恥じなきゃいけないんだ。
「おい、蘇武羊よ、お前ってやつはほんとうにちっちぇえ人間だな。」
あ、なんか聞こえてきたぞ。
