私が研究したレヴィナスという人は、先の大戦で応召したのち、捕虜となり、捕虜収容所に終戦まで収監された。戦争が終わってみると、リトアニアにいた親族のほとんどは、アウシュヴィッツで殺されていた。帰化した第二の祖国フランスのユダヤ人共同体は、崩壊寸前だった。
若いユダヤ人たちは、父祖伝来の信仰に背を向けた。彼らはこう言った。もし神が存在するというのがほんとうなら、なぜ神は彼が選んだ民が600万人も殺されるのを看過したのか。なぜいかなる奇跡的介入もされなかったのか。信者を見捨てた神を、なぜ私たちはまだ信じ続けなければならないのか、と。
そういう人たちに向かって、レヴィナスはこう語った。
では訊くが、あなた方はこれまでどんな神を信じてきたのか?善行をするものに報奨を与え、悪行をするものに罰を下す「勧善懲悪の神」をか?だとしたら、あなたがたが信じていたのは「幼児の神」である。
なるほど、勧善懲悪の神が支配している世界では、善行はただちに顕彰され、悪事はただちに処罰されるであろう。だが、神があらゆる人間的事象に奇跡的に介入するそのような世界では、人間にはもう果たすべき何の仕事もなくなってしまう。
たとえ目の前でどんな悪事が行なわれていても、私たちは手をつかねて神の介入を待っているだけでいい。神がすべてを代行してくれるのだから、私たちは不正に苦しんでいる人がいても疚しさを感じることがなく、弱者を支援する義務も免ぜられる。それらはすべては神の仕事だからだ。あなたがたはそのように、人間を永遠の幼児のままにとどめておくような神を求め、信じていたのか?

内田樹ー「修行論」p168より




「父」とは「世界の意味の担保者」のことである。
世界の秩序を制定し、すべての意味を確定する最終的な審級、「聖なる天蓋」のことである。
どの社会集団もそれぞれに固有の「ローカルな父」を持っている。「神」や「天」という名を持つこともあるし、「絶対精神」や「歴史を貫く鉄の法則性」と呼ばれることもあるし、「王」や「預言者」という人格的なかたちをとることもある。
その世界で起きていることは(善きにつけ悪しきにつけ)を何かが専一的に「マニピュレイト」しているという信憑を持つ社会集団はその事実によって「父権制社会」である。
どれほど善意であっても、弱者や被迫害者に同情的であっても、「この世の悪は“マニピュレイター”が操作している」という前提を採用するすべての社会理論は「父権制イデオロギー」である。
「父権制イデオロギーが諸悪の根源である」という命題を語る人は、そう語ることで父権制イデオロギーを宣布しているのである。
なぜ、私たちは「父」を要請するのか。
それは、私たちが「世界には秩序の制定者などいない」という“真実”には容易には耐えることができないからである。
実際には、私たちは意味もなく不幸になり、目的もなく虐待され、何の教化的意図もなく罰せられ、冗談のように殺される。
天変地異は善人だけを救い、悪人の上にだけ雷撃や火山岩を落とすわけではない。
もっとも惜しむべき人が夭逝し、生きていることそのものが災厄であるような人間に例外的な健康が与えられる。
そんな事例なら私たちは飽きるほど見てきた。
では、世界はまったく無秩序で、すべてのことはランダムに起きているのかといったら、そうではない。
私たちは「父」を要請してはならない。
たとえ世界のかなり広い地域において、現に、正義がなされておらず、合理的思考が許されず、慈愛の行動が見られないとしても、私たちは「父」の出動を要請してはならない。
ほとんどの人はこれからのどうするかを決めるとき、あるいはすでに何かをしてしまった後にその理由を説明するために、「父」を呼び出す。
それは必ずしも「父」の指導や保護や弁疏を期待してではない。
むしろ多くの場合、「父」の抑圧的で教化的な「暴力」によって「私は今あるような人間になった」という説明をもたらすものとして「父」は呼び出されるのである。
「父」の教化によって、あるいは教化の放棄によって、私は今あるような人間になった。
そういう話型で私たちのほとんどは自分の今を説明する。
それは弱い人間にとってある種の救いである。
「私が今あるような人間になったことについて、私は誰にもその責任を求めない。」
そう断言できる人間が出てくるまで、「父の支配」は終わらない。
「父の支配」からの「逃れの街」であるような「ローカルな秩序」は、そう断言できる人間たちによってしか立ち上げることができない。
『1Q84』にはたくさんの「小さな父たち」が登場する。
それが子どもたちに深い傷を残す。
主人公たちはその「邪悪な父によってつけられた傷」によって久しく自分の現在を説明してきた(あるいは「説明する能力」の欠如を説明してきた)。
それが彼らをどこにも進めなくしてきた。
「トラウマ」とはそういうものだ。
何が起きても、誰に出会っても、「あのできごと」に帰趨的に参照されて、その意味が決まる。
「トラウマ」とまったくかかわりのない、「新しいこと」は決して起こらない。そのように過去に釘付けにされることが「トラウマ」的経験である。
何を経験しても、それを「父」とのかかわりに基づいて説明してしまう(「父が私にそれを命じたから」あるいは「父が私にそれを禁じたから」)。
そのような言葉づかいをしている限り、「父」の影響を一方的に受ける「被制者」という立ち位置から私の人生は始まったという話型で自分について語る限り、「子ども」たちは「父」から逃れることができない。

アモルファスな世界に線を引くことが宗教の本質。
ただし一神教の概念。つまりユダヤ教。
実際にはこの世界はアモルファス。
天と地。昼と夜。男と女。対極に見えるものも実際に両者を分断するものは無い。
境界にはグラデーションがあるだけだ。
アダムに託された最初の仕事が生きとし生けるものに名前をつけること。
この神話は人間理解のうえで慧眼。
人間活動の本質は名前をつけることに尽くされる。
分節し難い世界に個々に名前をつけて分節化し存在させる。認知するものがいなければ存在しないのと同じ。
太古ヒトは森から出てきた。森は母だ。
これは多神教的な考えは原始的なようで実はこの世界の本当のところだろう。
神もヒトも動物も植物も鉱物も水も大気もヒエラルキーの中でカテゴライズされているわけではない。
そこに序列を持ち込んだのがユダヤ教だ。これは画期的な思想。
世界はいっぺんに分かりやすくなり。科学技術は飛躍的に向上する。すべての資源は人間のために用意されていたという。ある意味逆転の発想。かくして森は恐れるものから従えるモノに変わった。
ユダヤ人が理知的で科学的なのではなく。ユダヤ的なものを我々の世界では科学的というのである。
現代科学は一神教的思想基盤が無ければ、存在し得なかったというのは言い過ぎか。
今のところこんな感じ。この方向でもっと考えてみよう。