今回のお城は下克上を果たした人の代名詞とも言える斎藤道三が城主を務め、後に織田信長が支配、この頃から天下布武の朱印を使い始めたとされる岐阜城(ぎふじょう)です
岐阜城は稲葉山と呼ばれた山の上にある山城で、別名は元々その山名から呼ばれた稲葉山城、現在の改めた山名から金華山城などと呼ばれています
歴史や戦国時代が好きな方には稲葉山城が一番分かると思います
城郭の構造は上記した通り山城で、現在は独立式望楼型3重4階構造の模擬天守がそびえています
その成り立ちは鎌倉時代の西暦1201年、公家の二階堂行政がこの稲葉山に砦を築いたのが始まりですが二階堂家は数代後に廃城としており、その後室町時代に美濃の守護代の斎藤利永がこの城を修復をして居城としました
しかしその後の西暦1525年、斎藤家の家臣であった長井氏が謀反を起こして稲葉山城を奪取、こうして城は長井氏が支配することになります
そしてこの8年後に長井新左衛門尉の跡を継いで城主となったのが後の斎藤道三です
道三は1538年に美濃守護代の斎藤利良が病没すると名跡を継いで斎藤姓を名乗り、守護代として居城である稲葉山の城を大改修しました
こうして守備を高めた稲葉山城は織田家など近隣の武将の攻めも寄せ付けず、また、ここは天下三関の不破関があり、長良川など様々な物流の通り道でもある東西の交通の要衝だったため経済も発展しており、「美濃を制する者は天下を制す」とまで言われています
しかしそんな稲葉山城に陰りが出ており、それがハッキリと現れるのは斎藤道三が息子の斎藤義龍に家督を譲った後、斎藤親子は仲違いをして絶縁してから発生した長良川の戦いからです
この戦いで斎藤道三は討死、勝利した斎藤義龍もその5年後の西暦1561年に急死、家督は子の斉藤龍興が継ぎますが、以前から織田信長がこの美濃に幾度も進行しており、更に斎藤道三の時代に明智光秀や森可成など有能な家臣が流出しているなどの内部事情があり、さらに14歳で家督を継いだ龍興は凡庸で家臣団の信用も得られずに弱体化、それでも織田軍を抑えたのは天才軍師の名が高い竹中半兵衛のおかげでしたが、その半兵衛よりも斎藤飛騨守を重用、その飛騨守に私怨もあった半兵衛を中心に稲葉山城を占拠するという事件が勃発、後に龍興に返還はされましたが、ここから確実に斎藤家は衰退します
西暦1567年に織田信長が再度美濃へ進行、この稲葉山城の戦いは美濃三人衆を味方につけての進行だったので、内部からも攻撃を食らった龍興は敗戦、城を捨て逃亡しました
それから稲葉山城は織田信長が支配し、この城と城下を「岐阜」と改めています
この頃から信長は有名な“天下布武”の朱印を使い始めたとされ、天下統一の覇道を進みます
この後に信長の嫡子の織田信忠が入城して更にこの岐阜城は整備と改修がなされますが、また事件が起こります
織田信長と織田信忠が倒れた事で有名な本能寺の変です
この事件後は留守居の斎藤利堯が岐阜城を掌握しましたが、明智光秀が豊臣秀吉に破れると織田信孝に服し、信孝が城主となります
この信孝も後に美濃返しと呼ばれる賤ヶ岳の戦いで破れて切腹、岐阜城は池田輝政らが城主となりますが、転封によって豊臣秀勝が城主となります
その秀勝没後は織田秀信が入りますが関ヶ原の戦いにて敗北の後に死亡しています
そして西暦1601年、徳川家康はこの岐阜城を廃城とし、天守や櫓などは加納城の築城に回されました
そんな岐阜城が復活したのは1910年、この時に岐阜市や建築協会によって模擬天守が再建されての事です
この後は火事で焼失やなどもしていますがまた再建し、大河ドラマのブームも起こって来訪者が多く訪れ、また、日本100名城にも選定、更に信長居館跡の発掘など史跡としての価値が認められて史跡登録され、近世城郭の成立を考える場所としてそのロマンを伝える場所となっています
⚫︎城門
それではスタンプをぽんっ!
御城印です
岐阜城は街の中心から近くてしかも天守がある山城という他では見られない城で、かなり興奮しました
長良川も斎藤道三や鵜飼に想いを馳せますね〜
まあ、築城大変だっただろうなーって気持ちが一番でしたがw
◆岐阜市公式ホームページ◆