けいすけ's page~いと奥ゆかしき世界~

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日々感じたことや思ったことをつれづれなるままに綴っていきたいと思います。

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EXILEの「Ti Amo」に「キスをするたびに 目を閉じてるのは 未来(あした)を見たくないから」という歌詞があります。ここには、余計なことは何も考えずに、キスをしている「今この瞬間」の幸福にのみ意識を向けていたいという思いが表現されていますが、だとすれば、この人は「未来(あした)」だけではなく「過去」に対しても目をつむっていると考えられます。「過去―今―未来」という時間の構成要素から「過去」と「未来」を取り除いて、ただひたすら「今」に浸ることがこの幸福感を守ることにつながる。つまり、「時間意識の極小化」が、このときの幸福感を支えているのです。昨日仕事でミスをしてしまったこと(=過去)や明日そのミスの始末書を書かねばならないこと(=未来)を意識していては落ち着いて幸福感に浸ることができません。

 

さらに、人間の幸福感を支えるものとしては、「時間」に対する意識の極小化だけではなく、「空間」に対する意識の極小化もまた考えられます。たとえば、駅の改札の前で抱きしめ合っているカップルを見かけることがあります。周りから見れば恥ずかしい行為以外の何ものでもないのに、なぜ彼らにはそれができるのでしょうか。おそらく彼らは、周囲の他人を意識から排除し、今そこにある互いの温もりや幸福だけを噛みしめているのでしょう。つまり、抱きしめ合っている二人の意識は、抱きしめ合っているまさに「ここ」だけに集中しており、それが至福の感覚を守っているのです。もしもこのとき、抱き合う自分たちに対して白い目を注ぐ周囲の視線を意識してしまったり、「今こうしている間にも世界中の貧しい子どもたちが死の危機にさらされている」などと空間意識を広げてしまったりしたら、せっかくの幸福感が急に色あせてしまうでしょう。

 

 このように、人間の幸福感は「時間意識の極小化」と「空間意識の極小化」とに支えられていると考えられます。ここで「時間的・空間的意識の極小化」というのは、言い換えれば、どのような過去とも、どのような未来とも、どのような他の空間とも比較することなく、「いま、ここ」だけを特権化することです。自分を何かと比較するというのは、様々な経験が教えるように不幸のもとでもあります。何ものとも「比較」することのなく、「いま、ここ」に生じている快だけに没入すること、それが最高に純度の高い幸福感だと言えるでしょう。

 

 快や幸福感が持続するところには、時間的・空間的な意識の極小化によって「いま、ここ」の特権化が起こっています。では逆に、時間的・空間的な意識を「極大化」し、それによって「いま、ここ」を徹底的に相対化することには、どのような使い道があるしょうか。それは、「悪感情の制御」ではないかと考えます。

 

 たとえば、自分が何かに苦しんでいるとき、その自分よりも数段苦しい思いをしている人がいることに気づいたとします。そのとき、「自分の苦しみなんかあの人の苦しみに比べればたいしたことはない」と思えれば、多少その苦悩を緩和することができます。同様に、断崖の先端に立って広大な海原と対峙したときや、何万光年も離れた無数の星々のきらめく夜空を仰ぎ見たときに、自分の悩みがちっぽけなもののように思えるのも、時間的・空間的意識の極大化による「いま、ここ」(の苦しみの感覚)の相対化です。

 

 もちろん、お腹の痛みなどの「肉体的な不快」は意識の力で取り除けません。時間意識や空間意識の調整によってコントロールできるのは、「精神的な不快」(いわゆる不愉快)の方だけです。しかし、私たちの日常のなかでは「肉体的な不快」よりも「精神的な不快」を覚えることの方がはるかに多いのではないでしょうか。だとするならば、意識の調整による「精神的な不快」への対処という方法は、十分ふだんの生活のなかで有効性をもつと言えます。

 

「精神的な不快」(不愉快)とはなにか。肉体的な不快(痛みなど)は人類共通の不快ですが、精神的な不快の方は民族や文化、そして個人の内面によって異なります。麺類をズズッと音を立てて食べることに対して日本人は何も感じませんが、他の文化で育った人にとっては「不愉快」以外の何ものでもありません(=民族・文化の違い)。あるいは、電車の優先席に若者が座っているのを見て不愉快に思う人もいるでしょうし、そうではない人もいるでしょう(個人の信条の違い)。その他にも、時間やお金を無駄にしたり、相手とうまくコミュニケーションがとれなかったりなど、直接身体に痛みとしての刺激はないけれども「心が凹む」ような事態(=「精神的な不快」)は日常生活のなかで頻繁に出くわします。

 

ここで最も注意しなければならないのは、このような「精神的な不快」を覚えたときに、自分の時間的・空間的意識を極小化してしまうと地獄のようなドツボにはまってしまうということです。もしも時間的・空間的意識を極小化して自分の苦しみ(精神的な不快)を絶対化してしまったら、その人はその苦しみを最も純度の高いレベルで苦しむことになるでしょう。まだ理性の発達していない子どもというのはこの種の苦しみ方をしています。子どもは自分の感じた精神的な不愉快を最も純度の高いレベルで受け入れており、それゆえその激しい不愉快にどんどん流されて(不本意にか)行為してしまうのです。

 

大人の場合であっても、このような純度の高い不愉快を受け入れていながら平静を保つのは至難のわざです(というか無理です)。だから、他人との間で無用の摩擦を引き起こさないためには、何かの拍子に「イラッ」ときた場合、まずはその時点での意識をできるかぎり時間的にも空間的にも拡大して、その「イラッ」としている「いま、ここ」の感覚を徹底的に相対化することが有効だと考えられます。

 

恋人同士でも夫婦同士でも、よく「些細なことでケンカになる」ということがあります。これは本来矛盾しています。些細なことではケンカにはならないはずです。にもかかわらずケンカになるのは、ほんの微量の「イラッ」とした感覚を絶対化するあまり、それに流されて相手に接してしまい、今度はそれを受けた相手がまた「イラッ」とした感覚を絶対化し、それに流されて行為する…というような連鎖が続いた結果、最初は微量だった「イラッ」とした感覚が彼らの感覚の全領域を埋め尽くす巨大な不愉快に変貌してしまうからでしょう。

 

そのような「精神的な不快」(不愉快)を制御するための、時間的な意識の極大化の最大の例の一つは、〈いずれ自分が死ぬ〉という意識だと思います。私はよく、自分の悪感情のコントロールには「自分の死」を比較対象に持ってきます。たとえば、今この瞬間に重要なものとして感じられている不愉快というのは、自分が死の間際になったときにもやはり重要なものとして思い出すであろうか、と。もしそうでないのなら(たいていはそうでない!)、いまここで感じている不愉快に流されて相手に不用意に反応してしまうのは、相手にとっても自分にとっても何の意味もない。したがって、この不愉快はなかったことしてできるだけすみやかに感覚から抹消するべきだ、となります。

 

「自分の死」を比較対象としてもってくるのは時間意識を「未来」へと飛ばすやり方ですが、時間意識を「過去」に飛ばす方法もあります。相手に対して「イラッ」とした場合、その相手からかつて受けた恩を思い出すのです。相手と別れたいと思ったとき、その相手が自分の看病をしてくれたこと、そのとき感じた相手への恩義を思い出すのです。すると、「イラッ」とした感覚がフッと軽くなります。このとき重要なのは、「あのとき受けた恩はもう返したではないか」とか「自分だって相手に対して尽くしてきた」というように、無駄に公平性を意識しないことです。人間関係というものを公平性の観点からのみ捉えると、かえってその関係を悪化させてしまうことがあります。無駄に公平性を意識することなく、ただひたすら相手から受けた恩(人類学でいう「贈与」)を意識し、「あんなに尽くしてくれた人に対して自分はなんでこんなことでイライラなんかしているのだ」といったかたちで自分を相対化する。それが、相手とのあいだで無駄な摩擦を引き起こさないコツなのではないかと考えます。

 

 これはある意味では我慢、すなわち心理的に「泣き寝入り」することではないか、と思う人もいるでしょう。現代人は「泣き寝入り」を嫌います。なんで自分だけがこんな目に…という不公平感覚は現代人にとって耐え難いものなのです。現代社会はつねにこの不公平を取り除くために努力してくれているからです。学校でも会社でも国会でも、「公平であることが重要だ」と語られ、「泣き寝入り」は絶対にいけないものだとして非難されます。ですが私が言いたいのは、「一生泣き寝入りで過ごせ」というのではなく、「一時の泣き寝入りを我慢しろ」ということです。一時的な悪感情を相対化してやり過ごし、しかるべきとき(互いに冷静なとき)に話し合ってその都度人間関係を調整すればよいのです。

 

 悪感情を覚えてしまうのは人間である以上仕方がありません。しかし、その悪感情は意識の力で対抗できる部分があるはずです(全てに対抗できるわけではないのは認めます)。「他者との共生」ということを本気で考えるなら、まずは自分のなかの悪感情との付き合い方をよく考えてみる必要があるのではないでしょうか。

※ネタバレ注意

 

遅ればせながら、年末年始に一挙放送されたバージョンでドラマ『逃げ恥』を全話見まして、素朴に感動しました。『逃げ恥』の見どころの一つは、はじめは単なる「取引関係」のようなものに過ぎなかった平匡さんとみくりさんのドライな関係が、次第に愛情要素の濃い関係へと変化していく過程です。僕はこのドラマを見て思わず「そうだよなあ」と反省させられました。あのドライな取引関係の中になぜ濃密な愛情関係が生まれたのか、その原因は様々あると思いますが、その中で僕が注目したいのは「契約外のちょっとした行為」についてです。

 

たとえば第一話の中で、仕事から帰った平匡さんがみくりさんの書いたメモを読む何気ないシーンがあります。そのメモは、みくりさんが家事に必要なものを買い、何にいくらかかったのかを記した明細書に過ぎませんし、それを残すのは取引関係上当然の行為です。ところが、みくりさんはそのメモの最後に、「お仕事 お疲れ様でした。」という一言を付け加えました。平匡さんはそれを読んで思わずほほえんでしまいます。

 

また、その直前の妄想版「情熱大陸」の中で、みくりさんは「誰にも見られてなくても 気づかれない努力だとしても それでも頑張ることって大切だと思うんです」と述べ、いつも一カ所多く掃除するようにしていると言います。そして、このいわば「余計な掃除」が、後に平匡さんの心に大きな変化をもたらします。みくりさんは「勝手に」網戸を掃除しましたが、それに気づいた平匡さんはみくりさんの仕事ぶりに感動し、「ありがとうございました」「もっとずっと働いてほしい」と告げます。それによって、みくりさんは〈自分が誰かに必要とされることの喜び〉を感じ、物語が「契約結婚」へと進んでいきます。つまり、ドラマのメインとなる「契約結婚」は、それ以前に「契約外の行為の積み重ね」があったからこそ生まれたのです。(ちなみに、病気で倒れた平匡さんの看病をするのも契約外の行為でした。)

 

ここで、こう思う人もいるかもしれません。〈相手の労をねぎらう〉のは仕事をするうえであたりまえのことだ、と。その通りです。しかし、その当たり前のことが書かれている雇用契約書を見たことがあるでしょうか。少なくとも私は見たことがありません。社訓のようなものには書かれているかもしれませんが、「他人にありがとうと言わなければ懲戒処分」なんて話は聞いたことがありません。

 

それでも私たちは「ありがとう」と言います。そこから考えられるのは、実は私たちは、「取引契約外のちょっとした思いやり」こそが人間関係を築くうえで大切なことなのだと、無意識のうちに知っているということです。取引契約にそのようなことが書かれていなくても、「先日は○○を○○してくださり本当にありがとうございました。○○さんの誠意と熱意のおかげで○○を無事に終えることができました」と言うことが、契約関係そのものを維持するうえで大切であるだけではなく、契約関係を超えた「生身の人間としての絆」をも深めることを、私たちは知っています。自分の会社の清掃員さんに対して、「彼らが掃除をするのは、こちらがお金を払っているのだから当然だ。別にありがたくもなんともない。だから、すれ違っても別に挨拶とかねぎらいの言葉とかは必要ない」などと、他人を取引関係でのみ捉える人が多かったら、その会社の空気は最悪で、いずれ誰も生き生きと働かなくなるでしょう。

 

これはあらゆる組織、人間関係に当てはまると考えられます。たとえば、宅急便の配達員にとって、荷物を届けること自体はただの取引行為ですが、彼らが「お忙しいところすみません」と一言付け加えて感じよく配達を済ませるのは取引外の行為です。他方、客にとって、その荷物を受け取ること自体はただの取引行為ですが、「ご苦労様です。いつもありがとうございます」と言って荷物を受け取るのは取引外の行為です。どの行為の組み合わせが双方にとって望ましいかは明らかでしょう。

 

つまり、人間関係を良好に保つには、相手に対して取引的な態度だけではなく、取引外的な態度を示す必要があるということです。このことを以下、夫婦の場合に当てはめてみたいと思います。

 

まず、繰り返しになりますが、取引的な態度というのは〈自分が○○をするのだから相手が△△するのは当然だ〉という態度のことです。「俺(夫)は仕事をして家計を支えているのだから、君(妻)が家事や育児するのは当然だ」という考え方は、「自分(夫)の仕事」と「相手(妻)の家事・育児」を取引する態度です。そのような取引的な態度に貫かれた夫に対して「あなたももっと家事や育児を手伝ってよ」と言っても、「じゃあ君も俺の仕事を手伝ってくれ」と取引を持ち掛けられます(もしくは「俺は仕事で忙しいんだ」とか、「疲れているんだ」とか、「明日の仕事のための休養時間をくれ」などと切り返されてしまいます)。そして、このような「取引」的な態度にとらわれると人間関係を崩壊させる確率を高めてしまうことは経験の教えるところでしょう。

 

もちろん、取引行為それ自体はちゃんと遂行しなければなりません。外出している妻から「ご飯を炊いといて」と言われて炊くのを忘れれば、怒られるのは当然です(平匡さんのように)。ここで言っている取引外の行為というのは、ただご飯を炊くだけではなく、それに加えて、たとえば炊飯器の周りをキレイにしたり、そのときたまたまシンクに溜まっていた食器を洗ったり、(たぶん無理でしょうが)おいしくお米を炊いたりすることです。すると、そのような取引外の様々な行為をしてもらった側(炊飯を依頼した側)は、「そこまでしてくれるなんて、嬉しい!」となるでしょう。

 

「ご飯を炊く」という取引を済ませるだけではなく、そこに一種の利子というか、プレゼントというか、何かをサービスとしてつけ加えて相手に与える行為。こうした取引外の行為の部分は、人類学で言うところの「贈与行為」にあたります。人類学者の松村圭一郎さんは『うしろめたさの人類学』(ミシマ社、2017)の冒頭で、そのような贈与行為を受けた人(炊飯を依頼した人)は、贈与した人(炊飯の他に掃除などをした人)から、自分に対する「思い」や「感情」を受け取ることになると述べています。そして、家族という人間関係を良好に保つためには、この「贈与行為」(=取引外の行為)こそが重要なのだと言います。

 

―――――

「家族」という領域は、まさに「非経済/贈与」の関係として維持されている。家族のあいだのモノのやりとりは、店員と客との経済的な「交換」とはまったく異なる。誰もがそう信じている。

レジでお金を払ったあと、店員から商品を受けとって、泣いて喜ぶ人などいない。でも日ごろの感謝の気持ちを込めて、夫や子どもから不意にプレゼントを渡された女性が感激の涙を流すことは、なにもおかしくない。

このとき女性の家事や育児を経済的な「労働」とみなすことも、贈られたプレゼントをその労働への「対価」とみなすことも避けられる。そうみなすと、レジでのモノのやりとりと変わらなくなってしまう。」(p.29

―――――

 

『逃げ恥』の第一話で、みくりさんがメモの最後に付け足した「お仕事 お疲れ様でした」は、いわば平匡さんに対する「贈与行為」なのであり、家事代行のお金をもらっているから行ったこと(対価として行ったこと)ではありません。これは人類学的な観点から見ても、人間関係を築くうえで大切な行為だったのです。

 

ところが、みくりさんはドラマの終盤で、平匡さんから正式な結婚を申し込まれたあと、ひたすら家事の「対価」とは何なのかを考え、迷い込んでしまいます(その過程で平匡さんとの関係も一度危機に陥ってしまいます)。「対価」というのは取引的な考え方の代表なので、「対価」をどのように変えたとしても、正式な結婚をうまく維持するのは困難なのです。それに対して、「ハグ」というのは彼らにとって最も取引から遠い、取引外な贈与行為の代表です。ドラマの中盤に出てきたこの「ハグ」はすさまじい威力を持っており、たとえ「毎週火曜日にハグしましょうね」というように取引の対象に成り下がったとしても、一度ハグすると「対価」だの何だのが洗い流され、信頼性と親密性のある夫婦関係へと原点回帰してしまうのです。(この「ハグ」や「手をつなぐ」といったスキンシップ全般の効果は、もはや「取引外の行為」などというヌルイ言葉を超越している気がしますので、別途考察が必要。)

 

要するに、『逃げ恥』を見て僕が「そうだよなあ」と思ったのは、家族や夫婦の関係を良好に保つためには、取引的な考え方や行為だけではなく、取引外的な考え方や行為が必要だよなあ、ということです(そこにハグなどのスキンシップが加わると最強かもしれません…)。

 

ちなみに、松村さんは先の本の中で次のように述べています。

 

「家族という間柄であれば、誰もが最初から愛にあふれているわけではない。」

 

つまり、家族や夫婦の愛情というものは、「自分たちで絶えず作り出していかなければならないもの」だということですね。

 

『逃げ恥』の主題歌「恋」のサビにも次のような歌詞があります。

 

――――

胸の中にあるもの

いつか見えなくなるもの

それは側にいること

いつも思い出して

――――

 

そもそもなぜ「見えなくなるのか」。その理由を僕は、努力を怠っていると夫婦関係がドライな「取引関係」に変わってしまうから、と答えたいと思います。

 

物書きでなくとも、人はいくらか表現欲求を持っています。何かを書きたい、でもどうすればいいかわからない、そういう人たちの需要に応えるように、書店では「文章の書き方」について解説した本もたくさんあります。私もそれらを手に取って眺めたり購入したりしていますが、読んでみると、何のことはない、ほぼ共通する事項があります。

 

それは、「文章は読まれるためにある。それゆえ、書くときは常に読み手の立場を意識しなければならず、決して自分に酔ってはならない」という点です。

 

たしかに、読み手のことを考えればこそ、簡潔明瞭で抑制のきいた表現を心掛けたり、比喩や具体例などへの工夫も生まれます。「読んで面白かった」といった感想を得るためには、そのような読者の視点を徹底的に内面化し、自分の文章を磨く「技術」が不可欠でしょう。

 

しかし一方で、「読者をおもしろがせようとして、それを意識しすぎるのは邪道ではないか」という意識で文章と向き合っていた作家がいます。夏目漱石の弟子、内田百閒(1889-1971)です。

 

「自分の文章を人が読む、読んで面白かったと云われると、いつでもいやな気がする。腹の底に反発する虫がいる。あなたの云う様な意味で面白い物を書いたつもりはないと思いたい。しかし面白くなければ人が読まないとするとそれは困る。面白かったのも差し支えない。それは読んだ人の勝手である。しかし私は私の目じるしを目あてに書いただけだから、面白くても知りませんと云いたい」

 

「書いた物が面白いのでなく、面白い物を書こうとするのは、自分の目じるしを見馴れた私から云えば邪道である」

 

以上二つの引用は、朝日新聞の短評コラム「天声人語」を長年執筆していた辰濃和男さんがお書きになった『文章の書き方』(岩波新書1994)に掲載されていたものです。辰濃さんがこの本で何度も繰り返して力説しているのは、「文は心である」ということです。本の冒頭では、もちろん技術論は大切だと譲歩したうえで、次のように述べられています。

 

「とくに考えてみたいのは「文は心である」ということです。正確にものごとを見る訓練をおろそかにしている人が、はたして正確な文章を書くことができるでしょうか。大自然と遊ぶたのしさを知らない人が、人の心をとらえる自然の描写をすることができるでしょうか。…いい文章を書くことと、日常の暮らしの心のありようとは深いつながりがあります。その人の文章のありようと、その人の生きる営みとは切り離せません。」

 

そしてこの本の中では、書き手の「心」がいかに「文」となっているかを、福沢諭吉や幸田文など著名な物書きの文章を多く取り上げています。(詳細は本に譲ります)

 

たしかに、ダラダラと生きていてはいくら文章技術を身に着けたところでまともな文章が書けるはずがない。私は仕事柄、大学受験生に読み書きの指導を行っていますが、辰野さんの言う通り、世の中のことなんざどうでもよいと思っている受験生がいくら小論文を書くすべを学んだところで、採点官をうならせる文章を書くことはできません。

逆に言えば、辰野さんのいう「心」や内田百閒のいう「目じるし」がしっかりしているならば、多少ぎこちなくとも、ある程度読み手の世界観やものの見方・感じ方に影響を及ぼす力があるということです。たしかに私の経験上、帰国子女や留学生の文章には、日本語として不自然な表現が多少あったとしても、(特異な体験をしているからか)それを上回る鋭い感性や力強さが(ときどき)認められます。

 

 

ところで、私には1歳になる息子がいます。妻は、息子が生まれた日から毎日欠かさず育児日記をつけており、日記といえば三日坊主の私からすると、なんでこんなに続けることができるのか、羨ましいかぎりです。その育児日記を拝借して読んでみると、母親としての普段の生き方が浮かんでくるようで、なんだか純粋にすごいなと思ってしまいました。以下、許可が得られたので昨日の日記を公開します。(●●は息子の名前です)

 

「●●が久しぶりに「パパ」って言ったので、「パパじゃなくてママって言ってよ」って言ったら「ママ」って言ってくれた!!感動。今日初めて、何もないところで四つん這いの姿勢から足をたてて一人で立ち上がれた!!そして今日半日くらいでもうマスターしたみたいで、夜にはがんばって何回もできるようになってた。成長スピードもハンパない。すごすぎる。そして、無事卒乳しました。授乳しなくても全く問題なく、むしろ寝かしつけすらいらないくらい、一人でゴロゴロ転がりながら、そのうち眠った。●●の成長は本当に嬉しいけど、手を離れていくのは少し寂しい。授乳の幸せな時間を今までありがとう。」

 

息子の成長や変化の仕方を敏感に察知して、今日は「何ができたか」そして「何をもうしなくなったのか」について、ほとんど頭を使わずにサササっと書くそうです。昨日は3歩まで歩けて、今日は5歩まで歩けたとしても、その3と5の間に子どもの厳然たる成長を認め、はっきりと区別して認識するのはやはり妻の目です。私の目からすると「少し歩けるようになった」のようにザックリとまとめてしまいます(…いけません)。

 

どんな人であれ、楽しんで生き生きと事柄を書いている人の文章は読んでいて気持ちがいい。私はそのように感じます。