英国近代史(4)  教会の内部改革派とモラル基準改革、ローマ教皇の権威防衛と殉教、Lllord派異端者と中世カソリック主義への本質的批判、Oxford神学の信奉者とLlord派、新約聖書の秘伝的普及と大陸の宗教改革、宗教改革の先駆者とLlord派、Llord派の異端追放と処刑

 

(訳注)宗教改革は一筋の道ではなかった。古くから教会内部のモラリストは腐敗した教会の改革を企てていたが、彼らの持つ特権と宗教家・聖職者のモラルのバランスは常に揺れ動いた。オックスフォードやケンブリッジの神学エリートの批判に対してローマ法皇の権威を守ろうとする教会は常に抵抗勢力になった。そこに決定的に立ちはだかったのがLlord派と言われるオックスフォード神学の異端者たちの出現だった。彼らは中世からのカソリック主義に対し抵抗し法皇と教会は反キリストを標榜するヒエラルキーシステムだと非難した。また彼らの資金源の浄罪やサクラメントや贖罪やミサは聖書にはない後講釈で拝金主義の絶対的手段だと非難した。そして聖書絶対主義を打ち立て新約聖書を初めて英語版として秘伝として仲間内に普及させた。Llord派は英国内でロンドンを中心に南西部で散在的に生き残った。その意味ではLlord派は宗教改革の先駆者と言える。一方大陸内部でも我々が知っているルターを中心とした教義的プロテスタンティズムが同時発生的に生まれ、英国でも出版物を手に入れてオックスフォードやケンブリッジのエリート神学者たちの勉強会に使われた。その間にも旧守派による処刑や弾圧迫害は続いていた。今アメリカで主流の福音主義エバンジェリコは当時のケンブリッジの神学エリートが初めとなった教義的プロテスタンティズムが原点となっている。アメリカ独立宣言まで1世紀共和党の精神的バックボーンが揺るがないのはこの辺にその要因がある。

 

 

しかし現実の批判は単なる偶然の憤慨を越えて主に三つの源から始まった。まず最初に批判は教会自身の内部の改革派から起こされた。John Colet彼の名前は配布資料に載っている。ロンドンのセントポール大聖堂の首席司祭で教会経営の失敗によって困難に陥っていた人間だった。(3003)彼は指導的聖職者が集会を開いた教会の国会ともいうべき主教会議での説教で有名で1511年主教会議の説教でその自尊心と一定の聖職者に見られた世間体を酷評したColetは長い間教会内部での改革派の伝統的代表を務めてきたといわれ、時々厳格なモラリストとして聖職者は彼ら自身が享受してきた特権に見合った職業基準に沿って行動すべきであると要求してきた。Coletは孤立し彼の親友で学識が高く誠実な敬虔な信徒のThomas Moreは他の古参の聖職者の間で聖職者の基準改革の要求に同感していた。そこにはKent州に近いRochesterのJohn Fisher司教や最初にロンドン次いでDurhamにいたTunstall司教(3103)や他にもこの種の教会内部からの改革案に賛同した司教がいた。

 

このほとんどはエリートの批評であって、ある意味で豪華な知識を享受したとしても彼らは自発的に究極的な教会自身の権威に挑戦する気はないだけでなく、実際に慣習的偽善的一般的人々の姿勢を傷つけようとはしなかった。教会自身が改革をしようとしてキリスト教会の一体性を破壊するのではないかと心配し、彼らすべてはカソリックとして死んでいった。事実Thomas MoreもJohn FisherもHenry8世の初期の改革の中で処刑され古い信仰の殉教者として死んでいった。彼らは英国教会にかかるローマ教皇の権威の防衛のために死んでいった。(3201)つまり一定の批評は教会内部にもあり、その対極に教会の権威と因習的な中世カソリック主義の本質に対する一般庶民の痛烈な批判があった。これらが英国におけるLollard派の異端者として知られた。Lollardはその時代の教会に非常に批判的だった14世紀Oxfordの神学者John Wycliffeの信奉者たちだった。Wycliffeは1384年に亡くなったが彼の思想は残った

 

Lollardsは異端派の地下組織で断続的な迫害にもかかわらず一世紀以上生き残った。彼らは教会が享受した特権に深い敵意を持ち、彼らの多くは法皇と教会は反キリストの集合的代表者のヒエラルキーに位すると見ていた。彼らが深く敵意を抱いたのは聖人への畏敬の念であり、聖人や聖人の遺物に対して崇敬を示すことだった。(3306)彼らはそれを詐欺であり偶像崇拝だとみなした。彼らはミサによってキリストの肉と血に変質するという教義に懐疑的だった。彼らは聖体拝領や聖餐の式は多くは追悼的なものとみなす傾向があった。彼らはカトリックの煉獄や浄罪の教義は後に教会に導入された誤った教義であり、彼らはいわゆる魂のミサなるものは聖職者のポケットに入れる金もうけのための商売だとみなしていた

 

中でも彼らは全てを聖書の権威にゆだねていた。1380年代以降Lollardsは新約聖書を英語に翻訳しその新約聖書のコピーは秘密のうちにLollardsのグループの中で回覧されていった。(3404)いくつかは非常に美しく保存されている。その意図はこれらは秘密のうちに生み出された始原的産物としてイメージされ、そのうちのいくつかは美しい形のまま現存し光を発している。これがLollardsでこのすべての基本的なプロテスタントの響きを与える信念と態度がある意味でそのものの特徴だった。Wycliffeは明らかに15世紀のボヘミアのプラハの偉大な改革者Jan Husに影響を与え、そしてJan Husの教えは深くMartin Lutherに影響を与えそれらの軌跡は明らかに結合している。カソリックもプロテスタントも後にLollardsを英国における宗教改革の先駆者と見ている。この見方は1540年代と1550年代にすでに主流とみられている。(3503)しかし最近になって彼らの役割が何か問題視されるようになった。あるいは最低限変革をもたらした可能性について問題視された。

 

従来指摘されたポイントは確かにLollardsは存在したがその数はそれほどではなかった。確かにその通りだ。にもかかわらずあるエリアに集中していたことも事実である。ロンドンでは数は少なかったが、群衆の中に潜伏していたのも事実である。彼らの影響が広まった田舎のあるエリアではそのまま根付いていた。ロンドンの北西のChiltern Hillsではその影響がしっかりと根付いていた。東アングリアの小さな町にはLollardyが散在した前哨地があった。これらすべてを知ってから時々主教たちは彼らの教区からLollards達を追い出そうとして、探し求めていた。1521年ある主教がそのBuckinghamshire郡で追放を実行しようとした。(3607)彼はLollardsの嫌疑がある400人を連れてきて、単独の郡としてはこの数は相当な数であったが、収容された。教会裁判所は絶えず警戒していた。こうした臨時的追放が行われた。時にはLollardsは焼き殺されたが、そのほとんどは改宗したと見られ、静かに戻って行って監視されていないところで彼らの信仰を続けた。時には見せしめに焼き殺されたこともあった。

 

国民全体としては彼らは小さな少数派に過ぎなかったが確かに彼らはその重要な存在を示したある地域にはいた。特にロンドンと英国南東部の学識の高い信徒の間には存在していた。そこにはそのシンパは至る所に散在していた。聖職者の中にさえもLollardsの共鳴者がいたと言われている。(3702)つまり彼らは依然としてその存在を維持し続けていた。彼らは地下組織を通じて首尾一貫性を維持し続けていたので、彼らを全面的に無視するのは間違いだと思う。比較してみれば1970年代と80年代の東ヨーロッパの反対意見者には既存のシステム生き残るのはその組織の腐食性にもかかわらず立場を維持するのは難しいとした。権力の構造は結局最終的には揺さぶりが来るもので、Lollardsも同様にその機会が来れば明るみに出るものである。教会内部の批評と改革派高位聖職者と対極にあるLollardsとの間には、少数の数の人々には初期のプロテスタントの姿を正当に描いていたからである。(3811)