英国近代史(4)Edward王子の誕生とローマとの和解、正統派カソリックとプロテスタント主義の葛藤、大司教Thomas Cranmerへの絶対的信頼、新ルター派改革の漂流と中断、地域教会の聖人信仰の消滅と浄罪信仰の消滅、英語訳聖書と祈祷書と新しい宗教文化の進捗

 

(訳注)1530年代の改革派の緩やかな漂流はルター派皇女との政略結婚の失敗を原因とするCromwellの処刑とともに頓挫した。これまでも英国の宗教改革はHenryの個人的性向が強く英国国教会の長の役割と絶対王制の君主の間で揺れ動いていた。それがスイス改革派と正統派カソリックへの回帰の葛藤の中で初めて男の承継者Edwardが生まれたことによってローマへの和解には消極的になった。彼は絶対王制に敵対する者もプロテスタントへも平等に虐待し弾圧した。そんな中でEdwardを生んだCatharine親族後にSeymore Circleと呼ばれる改革派支持者と大司教Thomas Cranmerへの信頼は揺るがなかった。一方で英国内の地区教会を中心とした新しい宗教文化が芽生えていった。聖人信仰もなく遺物信仰もなく修道院もなかった。英国の宗教文化はケンブリッジの神学者たちによる英語の聖書と祈祷書の発刊によって国教会と大学を中心としたロンドン周辺の少数派のプロテスタントエリートによって育まれていった。

 

 

 

 

Katherine女王の死後すぐにJane Seymoreとの結婚は昔の女王たちとともにはその正当性が疑われたことを意味した。1537年ついにEdward王子を出産した。Janeは彼女自身はその分娩によって死んだ。王は男子を得た。これはローマとの和解の道を明確にし、彼のより保守的な相談役たちは速やかにそうするように望んだ。(2801)しかし再びHenryの強引な個性があらわになった。今やHenryは英国国教会の最高の長である役割を真剣に信じていた。この問題での疑問はいかに彼は権力を行使するかだった。彼の保守的な相談役はこの国での過激なプロテスタント主義の進展の危険性を彼に説得していた。彼らは再洗礼派がロンドンに多く見られそこにはいわゆる一般的にプロテスタントの礼典象徴説主張者sacramentarianが多く見られた。これはスイスの改革派の教えである聖餐式Holy Communion主義者に追随するものが多かった。1539年Henryは英国が明快なカソリックの信仰に関する正統派に戻るための6か条の法案を是認することを説得された。

 

1540年Thomas Cromwellは彼の敵によって異端信仰を内密に奨励することを非難され、逮捕されてすぐに処刑された。(2903)実際の罪はドイツのルター派の皇女とされるClevesのAnne 皇女との仕掛けられた王の第4の結婚の完全な失敗によるものだった。おべっか笑いの肖像画に騙されたHenryはClevesのAnneが着いたときにショックを受けた。彼は彼女を「フランドルのでぶロバ」と表現した。彼は結婚のセックスを拒み速やかに解消された。これは幸運な破談でClevesのAnneは余生を幸せに過ごしていた東イングランドの大農園を辞めたばかりだった。彼女はあらゆる意味でこの結果に全く満足していた。Thomas Cromwellはその首を失った。さてこの事件の段階はしばしば教区民の伝統的な信仰の再活性化を伴った完全なカソリック正統派への回帰として描写されている。しかしこれも再び過ぎたものになった。Henry治世の後半の治世は決して完全なカソリック正統派のものではなかった。(3005)

 

あくまでHenry自身の個人的に特有な宗教に関する認識や欲望だった。Henryは時々たしかに過激なプロテスタントが捕まると処刑したが時には絶対王制に反対するカソリックも処刑していた。ある時は幾人かを同じ日に処刑するようなデモンストレーションを行った。Henryについては決して素敵な男ではなく虐待者であったが、平等な機会で虐待をしていた。Henryは協議会の何人かの保守的な声には耳を傾け、特にWinchesterのGardiner大司教やNorfolkの伯爵Thomas Howardなどを取り巻いていた保守的な派閥の声に耳を傾けていた。(3103)彼は1540年代Norfolkが彼の姪後にHenryの新しい花嫁、5番目の妻になったKatherine Howardに注意を惹いたときどっぷりとその影響下に浸かって、彼女の叔父は彼の派閥の影響を強めるために18歳の彼女をベッドに押し込んだ。にもかかわらずHenryは保守派の人物の影響力を増していながら、決してThomas Cranmerへの信頼は失わなかっただけでなく、Cranmerの失敗を指摘する敵の盾になった。1542年Katherine Hawardの実際の不貞の発見後、その処刑後王は前よりもその保守的顧問たちの影響を避けるようになった。(3200)

 

確かに1530年代の一種の教義上の新ルター派改革に向けた緩やかな漂流は中断した。しかしHenry治世下の後半の英国の宗教は完全な正教ではなかった。教区教会の宗教は前からそうではなかった。聖人や聖遺物や聖遺骨の信仰は大きく減少した。浄罪や煉獄の信仰は消え去っていた。修道院も消滅した。より積極的には英国の聖書と祈祷書を使った新しい地方固有の宗教文化が現実のものになっていた。もし実際に真実の教義上のプロテスタントの人々ならそれは極めて少数派であったが進展する少数派でありある程度の影響力を持つ少数派であった。そこにはすべては数から来る大きな影響力を持つ人々が含まれていた。Cranmerは依然として大司教であり教会や大学での改革派を支持していた。(3303)1543年Henryの最後の女王であるCatherine Parr王女はいわば彼の子守のような王女で権威の座に就くと改革派に大きな共感を示した。

 

いわゆる宮廷のSeymore Circleと呼ばれる集会をHenryの亡くなった前女王の兄弟であるEdward とThomas SymoreやJane Seymoreの周辺に集め、皇太子の叔父でありEdward皇太子自身もプロテスタント主義を支持した。多分中でもその直接的影響からEdward皇太子とその妹のElizabethの家庭教師はCranmer大司教によって指名され私室の勉強はすべてプロテスタントによって行われた。これらのすべてがHenry時代の宗教改革の遺産であった。(3402)これは真のプロテスタント改革ではなかったし、当時認識されていたものより伝統的なものを破壊する重要性にははるかに遠かった。さて第4段階に移ってみよう。Edward時代の改革である。Henry8世は終に1547年1月に亡くなった。56歳の若さだった。何年かは老衰状態だったけれども。新しい王Edward王はわずか9歳と半年でそれに付随する別の偶然性が宗教改革の歴史の形成の手助けをした。Edwardの叔父であるEdward Seymourは改革の意志を持つ人を権力の中枢に集めリードした。Seymourは若い皇太子の摂政としてSomerset伯爵を指名した。(3500)