Philospphy and Science:(5)TransienceCirculation

Epictetusの哲学はますます仏教哲学そのものになってきた。一つは「断捨離」執着を絶つことである。一つは「諸行無常」transience、無常という英語があることを始めて知った。一つは「輪廻転生」circulationはそこまでは言っていないが、むしろ人生万事塞翁が馬「禍福は糾える縄のごとし」。それにしてもこうした仏教思想が日本人以上に少なくともアメリカ人アメリカの知識階層には定着していることは驚きである。確かに昔のベトナム帰りの旧将校とロンドンからシアトルまでの飛行機で同乗したが、約13時間水以外は何も口にせず修行僧のように背もたれには背中をつけず、ひたすら本を読んでいた姿は感動的だった。すべてがそうではないが日本人以上に仏教的信条、清貧の思想を持ち続けていることは事実である。別れ際に私も本をしまうと、微笑んで私の仕事は昔ベトナム戦のパイロットでその本に書かれている体験をした。今日はロンドンに嫁いだ娘に会って、シアトルのボーイング社に戻る。と言った。
 

 

(5)TransienceCirculation

 

 

 適切な視野。Epictetusはこの特別な比喩をを第7節で書いている。彼は「航海に出て船が錨を下して、新鮮な水が欲しければ、小さな貝を捕まえて野菜もついでに。しかし気持ちは船にしっかりと留めて、船長が呼ぶといけないから時々そこを見なければならない。もし彼が呼べば、君はすべての他のことを放り出しても家畜のように船に縛られてはいない。」この考え方は確かに世界の物事を楽しむが、それに自分がとらわれないということである。主要な優先事項が起きたときにものごとを順序正しく心にそのままにしておく。しかし、彼は続けて「これはいかに人生を生きているか、いかにトマトや貝とつながっているかということである。

 

 「これもまた人生を生きている。」「もし野菜や小さな貝の代わりに妻子を与えられたら、これもまた君の邪魔にはならない。しかしもし船長が呼べばすべてを放り出してそこに戻ることなく船に走って戻らねばならない。」ものごとの無常transienceを知ってを自分に使えるものを認識する戦略を取れば,そのものごとの無常性に態度をつらぬけば、常に痛みを伴う。「水差しを壊せば、君はそれは壊れた水差しだという。子供をなくせば、それは亡くなった子供だという。」これは私が説明してきたEpictetusの概観の論理的帰結である。これはserenity prayerであれば極めて聞こえが良い。食料品店でも非常に聞こえが良い。それが妻や子では非常に困ったものに聞こえる。さてそれではどうなるのだろうか。私はこの問題は君たちに任せよう。

 

 今日読む二番目の教科書、524年頃6世紀に編纂された誰か人生の軌跡がほとんどEpictetusとは逆転したような偉大な作品の方に行きます。Epictetusは奴隷として生まれ彼の人生は困難から自由へとその体験は理解できます。しかし反対にBoethius は高貴な家に生まれ若い時期に政治的には極めて大成功をおさめ、二人の子供は続けて極めて成功した政治家になった。そして後年は反逆罪で獄門に下った。そしてThe Consolation of Philosophy哲学の慰めはその時代に広く読まれ版を重ねたものの一つでした。この本は数世紀にわたって多くの人に読み継がれ我々は豪華に彩色された写本を持っています。そこから今日の話が始まります。

 

 このスライドはBoethiusが前に人々に教えていたが後で監獄に幽閉されたものを表しています。(3301)彼は監獄で拷問され肉体的苦痛を受けたが、彼がPhilosophy」と呼ぶ仮想の人物との会話によって慰めを受けた。このスライドはPhilosophyが監獄にやってきてBoethiusと面会しているシーンである。Philosophyが彼に言っていることは、ともかく、Epictetusが語っていたようなことである。彼女Philosophyが云っているのはここに運勢の輪がある。時には物事はbadに始まりだんだんとgoodになる。時には物事はbetterに始まりbadになる。しかしそこにあるのは君にとってその去来は必然的に循環である。そしてその諸行無常を知ることは人生のとるパターンを知ることであり、そう考えてBoethiusは大いに自由の解放を感じた物事の成り行きに任せることを知ることは前に持っていた失った体験の時間を受け入れる可能性を意味している