Yale Open Course

英国近代史

Keith Wrightson

7. Late Medieval Religion and Its Critics

 

英国近代史(1)  教会の権威と英国の宗教の本質、プロテスタント宗教改革とその歴史的検証、宗教的文化の歴史の光と影、カンタベリーとヨーク大聖堂と大司教、管区と教区、9000件の小教区と750の修道院系教区

 

(訳注)今回は英国近代史を語るうえで最大の課題である英国の宗教とその本質を宗教改革の文脈から中世の古い宗教の権威性について話をしている。二つの情景、一つはEly大聖堂とそれに続く中世の教会の偶像破壊、もう一つは聖人崇拝と修道院とその教会の破壊活動である。今英国ではその宗教改革に関して歴史学的に二つの評価に分かれている。従来は宗教改革を絶対視する説が主流であったが、今は敗者である旧宗教への同情を含む弱者への視線を尊重する派である。そこにはプロテスタント宗教改革の本質を問う歴史学者の責任もある。キリスト教社会の歴史に横たわる光と影を明らかにしようとしている。少なくとも英国のキリスト教はカンタベリーとヨーク大聖堂を中心とする二つの管区がヨーロッパカソリック集団の支店的立場にある。その一方でこの二つの管区の下に9000以上の小教区がありそれぞれがその地域の宗教的基盤を持っていた。そこには宗教的権威のみならず多くの世俗的権利が付随していた。有名な宗教税である10分の1税をはじめ様々な手数料や課金、さらに司法権を背景にした司法取引まで行っていた。貴族たちよりも多くの土地や財産を保有し英国の権力機構の中枢を占めていたことは忘れてはならない。さらにこれだけ教区が増えた背景には亡くなった聖職者を聖人として崇拝する基調が大陸よりも強かった。

 

 

前回はTudor朝初期の君主制の権威の再構築を見てきたが、今回は16世紀を通して証明しなければならない最大の問題の一つ、教会の権威と英国の宗教の本質の問題を見ていかなければならない。いくつかの場所を紹介することから始めよう。FenlandsのCambridge市の北数マイルのところに海に向かって広がった平野に小さな町Ely市がある。そこに英国で最大の大聖堂の一つがある。Ely大聖堂は遡ること12世紀に建てられそこの中央廊下は豪華なノルマン建築様式で少しうす暗いが作られている。しかしその廊下のそこには小さな扉があってそこからLady Chapelへとつながっている。そこを通ってゆくと誰もがすぐにまぶしい光に眼を奪われる。(0103)すぐにそこが中世後半の教会であると分かって広大な窓から光が差し込んでいる。晴れた日にはそのコントラストに驚かされる。

 

その光に眼が慣れてくるとゴシックの石の窓飾りがありそこにかって石像が立っていたくぼみがあることが分かる。いくつかはまだ頭が割られたままの半身像がまだそこに立っている。あちこちの素通しのガラスの窓の一部がステンドグラスになっているのを見るとかっては全面がステンドグラスに覆われていたことが分かる。これがEly大聖堂である。数百マイル北にあるNorth Yorkshireには聖Agatha Easbyという小さな教会がある。これは先週話したRichmond市からそう遠くない川の側に立っている。(0202)Easbyには聖Agathaを祀る12世紀の小さな教会が立っている。窓は非常に小さく足を踏み込むと非常に暗い。しかしここも光に目が慣れてくると壁に薄れた多分13世紀初めに描かれただろう絵が見えてくる。それがAdamとEveである。そこにあるのは素晴らしい可愛いロバと一緒のキリスト降誕の情景である。そこから物語は壁を廻ってキリストの受難の磔そして復活まで続く。主要な絵の左わきのスペースには中世の種まきをしたり鋤で耕す農夫の姿が描かれている。外に出ると川の側にはEasby修道院の遺跡が残り、それは聖Agathaの教会のすぐそばにある。(0300)

 

この二つの場所を使って象徴的なプロテスタントの宗教改革が近代英国で起きた歴史的史料として見て行こう。ある人はこれをいわば光の洪水だと見ている。光を浄化し、気を引き締め、鼓舞し,解放することだ。その一方で他の歴史家はEasbyの教会の壁の薄れた絵画やEly大聖堂の壁のくぼみやEasby修道院の川の側の廃墟に代表された宗教的文化に対する同情を語っている。そこには広い意味の宗教改革の熱情の中の偉大な美の破壊で失われた感覚がある。1980年代以前は一般論としてはこれが第一の支配的なアプローチの傾向だった。宗教改革は一般的にはポジティブにとらえられていた。(0402)Christopher Marshはこれを称して「そこには方向性があり一定の不可避性があった」と言っている。今日ではむしろ他の方向性が支配的である。その傾向は古き宗教的伝統を破壊することを強調し、その破壊はMarshによれば「後悔すべき、希望の無い、望むべきでもない」ものだった。結果として今多かれ少なかれ宗教改革の歴史的価値について二つの方向がある。それは良い事だった。

 

歴史は常に単なる賞賛や自画自賛ではなく重要な調査を続けるべきものである。しかしそこに改革者や勝利者だけではなく抵抗者や敗者の関与する二つの次元の絵があるとこれには平等はなく歴史家はその選好に従わざるを得ない。彼らはどちらかに傾かざるを得ず、それは情熱をもって語られなければならない。(0505)今日はこれらすべてに向かって古い宗教の本質と宗教改革以前の教会の状態、その強さと弱点とがすでにいくつかの特徴ある批判にさらされていたことを考慮の上で話をスタートしたい。初めに如何にこの巨大な構築物がわずか数年で崩壊をもたらしたかを考慮することが大いに役に立つ。16世紀の初め教会は英国の中でもちろん最大の団体組織機構であった。これは西ヨーロッパにカソリックのキリスト教界として集合的なアイデンティを与えた最大の国際的機構の英国支店であった。(0601)

 

英国の教会は英国教会ではなくは英国の中の教会であっても二つの管区CanterburyとYork大司教の下で組織化され司教を首長とする20の大教区でその下に副主教や地方司祭をおき9000以上もの小教区に分かれそれぞれの小教区に教会を持っていた。それは地域全体に分散していたが特に約そのうち750件が北部と西部の修道院や女子修道院の周辺に集中していた。この機構を支えていた牧師たちは独特の領域を地区に持っていた。その数を把握しようとする試みが行われ全部で60,000件にも及ぶことは判明した。その意味は牧師たちは全人口の4%にも達していて、そのすべてが男性であるから全男性人口の8%にも達していたことになる。大きな存在価値を持っていた。(0708)

 

聖職者のメンバーは法の前に特権的地位を享受し、教会で法廷を開き、例えば時には犯罪を犯した世間的権威と取引をし彼らは手数料や課金や特に人々がその所得や生産の10%を教会維持のために支払う10分の1税(0732)によって支えられていた。更にもちろん敬虔な信徒による大きな寄付財団もあった。従ってこれは大きな機構であり富裕な機構であり、大きな土地や財産の所有者であっただけでなくまた定期的に彼らの宗教の儀式としてお祈りのために教区の教会に集合する9000件以上の小さな教会のキリスト教の集団(0801)であった。この古い宗教とその本質を考えるとき多分我々が始めなければならないのはその古い信仰の特徴と本質的基礎ではないだろうか。中心的教義を簡単に話してみよう。簡単に言えばこういうことである。キリストの十字架での犠牲はその慈悲、神の加護を通して罪深い人間の救済をする。救済の手段である慈悲への導きは教会とその神聖な儀式を通して可能である。

 

教会の会員はその神聖な儀式、通常幼児のころに行う洗礼を通して得ることが可能であり、儀式への継続的な参加によって表され、特にミサはパンと肉の要素が聖別されて神秘的な変質をキリストの肉体と血に変容させる儀式である。(0904)キリスト者の生活は十戒の遵守と7つの絶対的な罪を忌避し、よき勤労と信仰のために儀式へ参加することである。すべての人間は罪深いとすることで信者は罪の告白を通して懺悔を享受し罪滅ぼしを行うことで代わりに司祭によってその罪の許しが認められる。教会は全体として聖人のコミュニティとみなされ他者の魂のために祈ることができ、それに加えてすでに天にいる聖人は生きている信者に代わって神に取りなしができると信じられ、請願する信者は聖人に向かってお祈りをすることができる