渋谷
AM・新宿武蔵野館『サイボーグでも大丈夫』
P M・渋谷ルシネマ『タロットカード殺人事件』 代々木 病院
山手線往復し新宿~原宿~渋谷の町並みを景観。久々の都心若者街を闊歩。相変わらず視線の先にキラキラネオンが入る。モアイからハチ公抜けてセンター街へと入る。途中、左折して円山町方面へ坂を登る。11月の東京だというのに体温がやや上昇少し汗ばむ。坂を下り新ユーロスペース前を通過、東急裏あたりで少々、休憩。腹も減ったのでフレッシュネスバーガーとモスバーガーを梯子。なぜなのかは未だに不明。たぶんいろんな店に入りたかったのだろうかと思う。さして旨くはないがこの街にくるとジャンクも洒落たる香があれので3倍増しに旨くなる。
女子高生や外国人観光客や田舎出都会人が目立つがとりわけその類のものだけに偏っているだけではなくリーマンもフリーターもOLも浮浪者も水系人もちゃんといて大複合地盤が以前にもまして見えた。109前ではテレビカメラマンや様々なスカウト人なんかで通行人の視線が集まっていた。 消費する街には必ずゴミもでる
それはものに関わらず人にも溢れ、膨張し巨大化していき爆発する。すでに爆撃後なので荒廃差にうっすらもやがかかっていた。もやは新小岩に帰っても一週間くらいは消えないだろうと確信した。
演劇
第5回・演劇 公演
2007/11/3・4 - 9・10・11 於・新小岩
劇場
開場 18:30~
開演 19:00~
<出演>
岩崎健太
藤島 かずみ
麻生 悠里
関谷 泉
花上直人
構成演出 山田 零
演出補 今野 洋平
照明 今 龍平
2007年11月 3 日( 土 ) 19:00~
4 日( 日 ) 19:00~
9 日( 金 ) 20:00~
10 日( 土 ) 19:00~
11 日( 日 ) 14:00~ & 19:00~
当日券 2,500円
前売り・予約券 2,000円
於・ 新小岩劇場
(総武線「新小岩」南口。左手側。陸橋手前のバス停より乗車。「江戸川区役所前」下車。進行方向に徒歩4分。…駅から歩くと約20分)
(↑)http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35.70098694&lon=139.87164389&p=%B9%BE%B8%CD%C0%EE%B6%E8%C3%E6%B1%FB1%C3%FA%CC%DC1-5
劇団 錦鯉タッタ公式ブログ http://blog-imgs-12.fc2.com/n/i/s/nishikigoitatta/20071010004537.jpg
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演出家 山田 零 ブログ ↓↓↓
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4月、今回は役者は男1女1で行くか、というトンデモ ナイ話になったとき、まず口について出たのが島尾敏雄 の『死の棘』だった。夫婦とか恋人 とか、あるいは結社の同志とか、どうしようもなく結びついて、かつ離れられない男女の話をしよう、、、みたいな線でいこうということになった。『死の棘』をそのままやる気はない。なにせ言うまでもなく、『死の棘』は「狂気」をめぐる話だから、いまのわれわれがそのままやるのには嘘臭さ(あやうさ)がともなうだろう、と。島尾が特攻隊 にいたこと(そして、出撃命令を受け、待機姿勢のまま敗戦を迎えたこと)も含め、「死んでいく者」「死なない者」「死ねない者」、、、われわれと世界のねじれた関係 、、、という、ここ数年に連作的・間歇的に考えてきたことをつなげたいと思っていた。
そして、小説 『死の棘』を読み直す。映画 『死の棘』を見る。『魚雷艇 学生 』を読み、たまたま復刻された『出発は遂に訪れず』を小躍りして購入し、その存在 すら知らなかったことが恥ずかしく思える『死の棘日記 』を手に入れて、読む。繰り返し、繰り返し。それらに表象 されているもののしんどさと悲しさと美しさに感嘆しながらも、同時に、腑に落ちなさをつねに感じ続けながら、泥沼にはまりこんでいく。
そんなこんなのなか、『死の棘』の部分を適当 に抜いて、つなげて、「ほかのものも、ぜひ入れて」という条件のもとに、何度か稽古 してみた。すると、『死の棘』の本の帯やカバー に記載されている美文とはまったくちがう『死の棘』の様相が見えてくる。そうじゃん、これでいけるじゃん、と思えた。『死の棘』に埋没したい、けれど、それは不可能でもあるし、ならば遠く離れたい、ただ離れるのはかんたんだろうけれど拘泥したい、、、それはつまり、現在 のわれわれの問題だから。今回、『死の棘』の美しくもおぞましい世界の再現・表象 をねらっているのではけっしてない。むしろ言うならば、この芝居は現在 のわれわれの「コント 」だ。
個人の話になるが「日本 前衛 舞台芸術 者協会準備会 」というものに参加している。錦鯉 タッタのどこか前衛 なんだっ!とつねに反問・煩悶しつつ、前衛 らしきものを「らしく」やることが前衛 なんじゃなくて民衆演劇 こそが(人間 が元気になりうる要素を持つ演劇 こそが)前衛 なんだよ!と自らを鼓舞叱咤している自分がいる。会議 では「あなたは演劇 というものを自明視しすぎている」などと言われつつ、実際やるならば愚直に信じつつ批評 的な視点を忘れないことしかないでないか、と単純に強く思う。古くからの友人で演劇 の「廃業」をうたっている人がいて、それはそれでわかる部分があるけれど、それは「死」と「責任 」の問題を回避しているんじゃないか、とも。あるいは「それによって生きる 」という意味 での「生」の問題を。愚直で真面目ならばいい、などと言うつもりはさらさらない。そんな者たちが、その愚直さから真面目さから「はみ出る」者たちを排外してきたのは紛れもない事実 なのだから。
「いまこそ芝居ではなく運動を!」と言う友人もいる。「ひとりよがり の自己満足 的な芝居はもうたくさんだ」という友人も。「わかりやすい、誰でも楽しめる芝居がいい」と主張する劇団 メンバー もいる。どれもよくわかる。その要素はどれも必要かつ不可欠なものだと思う。そして、それへの道はさまざまであり、一見の「らしさ」がそれらを保証 するものでもない、とも。ただ今回、それらの発言に応えたいと思う。プラス 、応えられると思う。人間 が元気になりうる要素を持つ演劇 とは、それらにほかならないのだから。なにより『死の棘』は、つらく悲しくきびしくも、笑える要素を含みながら、われわれの問題として、いまここに、あるのだから。
数年前に何度かハイナー・ミュラー を素材とした。ある芝居で、彼が帰宅し(おそらく自殺 した)妻の死体 を発見 する場面を扱ったことがある。島尾もミュラーも、そしてわれわれも同じようなものだ。ただ、島尾の妻・ミホは生き続けた。そしてわれわれも、いま、生き続けている。
切に、切に、御来場をお待ちしています。
(山田 零)


