エゴイズムというものは、

 

あっても良くて、

あっても普通で、

 

本当は、

殊更に押さえつける必要も、

逆にそれを声高に主張する必要もないもので、

 

 

だけど、

日本人は特に、

それを徹底的に悪いものとして押さえつけてきた過去があって、

 

だから、

それに反するように、

今度はエゴイズムを礼賛する人たちがもてはやされて、

 

どっちがすごいとか、

どっちが正しいとか。。。

 

 

 

世の中の多くの人は、

 

それに疲れていたのかもなぁと思う。

 

 




 

 

こんにちは。

心理カウンセラー 星野えみ(えいみー)です。

 

 

 

今日は、鬼滅の刃の最終巻の発売日で、

 

朝から電子版を読んで、

昼から単行本を買ってきたよ^^(外伝も

 


 



 

想いと考えが溢れて止まらないので、

今日は、鬼滅の刃に絡めて書くのだ。

(勝手な考察と最終巻までのネタバレが入るかもなので、そういうの嫌いな人は読まないように)

 

 

 

世の中で、何かが爆発的にヒットする時って、

 

もちろんその作品自体や、そのプロモーションがすばらしかったというのはあるけれど(今回の鬼滅で言えば、連載開始の時期が良かったり、アニメーション開始の時期や、そのアニメが今回の映画に続いていることや、潔く完結したために全23巻と読みやすいことや、完結して映画までの期間とか諸々のプロモーションがすごいなど

 

 

何かが爆発的にヒットする時、

社会現象となるくらいのヒットをする時は、

 

世の中の人が『求めていた』という部分も大きい。

 

 

潜在的なニーズが高かったということ。

 

 

そんなことを考えると、

鬼滅の刃は、世の中の多くの人が求めているものが詰まっていたんだとわたしは思うのだ。

 

 

 

 

鬼滅の刃は簡単に言うと、

鬼が悪で(鬼になった悲しい過去がそれぞれにはあるのだけれど)

主人公は被害者側で、

そんな主人公と仲間がそれを倒すという、ストレートに『勧善懲悪』のお話ではあると思う。

 

 

けど、

主人公の一番近しい妹が、悪の側である鬼になりかけていて、

一緒に旅をする中で、その鬼の部分が暴走したりとても役に立ったりもするし、

 

鬼の中にも、主人公たちに協力する人が出てきたり、

 

鬼だからといって、

完全に悪でもなかったりもする。

 

 

 

鬼たちは、

エゴイズムの塊みたいで、

 

自分だけが良ければいい

もっと楽しめばいいじゃないか

強いものが勝つ

美しいものは何をしてもいい

俺を認めない奴は死ね

 

みたいなことをよく言うのだけれど

 

それは

一見、醜いのだけど、

 

多くの人の中には実は、

そんな鬼がいるし、


それは、生きるための生存本能のような部分でもあったりもするし、

 

鬼が鬼になった悲しい過去があるように(たまに元々がサイコパスみたいな鬼もいる

そんな鬼を心の中で強く持つようになった悲しい過去が、

人にもあったりする。

 

 

 




 

 

真面目に、清く、正しく生きてきた、主人公の炭治郎が、

エゴイズムの塊のような鬼に、家族を惨殺されるところから物語は始まる。

 

 

家族を殺されたとはいえ、鬼全体に対する復讐心が強いわけでもなく、

はじめは鬼に対しても優しさや同情心を消せなかった炭治郎が、

 

いろんな鬼に出会いながら、

そして鬼と対話しながら、

そして、仲間や先輩剣士たちと交流しながら、

 

鬼を倒す強さを、心身ともに手に入れながら話は進んでいく。

 


(強さって、優しさであり、非情さでもあるな、とここでも思う)

 

 

 


物語の中、

 

いくら修行しても、

強くなっても、

 

理不尽な目に遭うことはあって、

 

度々、

炭治郎は泣いて叫ぶ。

 

 

なんでこんな目に遭うんだ!

こんなに一生懸命やってるのに!

なんでこんなに悲しいことが起こるんだ!

 

 

力を持つもの

圧倒的な強さを持つものに、

真面目に生きている人間が蹂躙される時の叫びは、

 

今を真面目に生きてる人、

ちゃんとすることを良しとしてきた人、

真面目に頑張ってきた人たちの代弁みたいにも感じる。

 

 

だから、

炭治郎の泣き叫ぶ声や、その姿は、

わたしたちに響く。

 

 

真面目に、ちゃんと、がんばって生きてるのに、

なんで?!。。。




でも実は、 

 

そんな風に生きることに、

たくさんの人がもう疲れ切っている。

 

 

そして、

この20年くらいの自己啓発ブームや、

自分らしく生きることへの開放で、

 

今度は、

 

エゴイズムだけで、自分だけが良ければいいかのように生きるのも、

それを声高に主張して認めてもらおうとするのも、

実はもう、疲れている。

 

 

 

鬼滅の刃って、

こんな風な、

 

エゴイズムの抑圧も、

エゴイズムの礼賛も、

 

そのどちらにも疲れていた人たちが、

心の奥底で求めていたものなんだろうなぁと思った。

 

 

 

結果、

 

鬼滅の刃の中で描かれているのは、

 

 

『力あるものが、力ないものを助ける』

 

ということが当たり前のこととして描かれている世界。

 

 

 

煉獄さんもそうだった。

死んでいった柱たちも、隠たちも、

あそこで戦っていたみんながそうだった。

 

 

 

 

 

『力あるものが、力ないものを助ける』

 

ここに、

自己犠牲という概念もない世界。 

 

 

傍目には、明らかに自分を犠牲にしている行為なのだけど、

 

本人たちは、

それが当たり前すぎて、

 

だから自分たちが不幸だなんて1ミリも思わない。

 

 

一見『綺麗事』。

 

 

誰かの幸せのために、自分の命を懸ける。

 

自分がした苦労を、他の人にはしてほしくないから。

 

 

一見、

気恥ずかしくすら感じるくらいの綺麗事。

 

 

 

だけど、

 

私たちが次に求めているのは、

 

そんな世界なのかもしれない。

 

 

 

エゴを抑えるのでもなく、

エゴを礼賛するのでもなく、

 

当たり前にエゴはあって、

 

そして、

当たり前に、

みんなが助け合う世界。

 

 

力あるものが、力ないものを助け、

 

そこに、

見返りとか、感謝とか賞賛とかを求めることはなく、

犠牲心も、犠牲心から来る憎しみや悲しみもなく、

 

 

当たり前に助け合って、

補い合って、

「ある」人は「ない」人を助けて、

「ない」人はそれを受け取って、次の誰かに与えていく。

 

 

どっちが損でどっちが得かとかもなくて、

 

誰かの存在に誰かが救われて、


生きているだけで幸せだって思える世界。

 



 

そんな世界が、

 

私たちが次に求めている世界なのかもしれないな。


というのが、

わたしの鬼滅の刃の考察( ´ ▽ ` )ノ

 

 

 

星野えみ(えいみー)でした^^

 

 

 

 

 

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