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(この記事は2017年の記念式の日に書いた記事です)





まずは主の記念式に関係したこちらの聖書の記述をご覧ください。


21 あなた方が[それを]食べるとき,各自自分の晩さんを前もって取るので,ある者は空腹で,ある者は酔っているという状態だからです。

22 あなた方には食べたり飲んだりするための家があるはずではありませんか。それとも,あなた方は神の会衆を軽んじ,何も携えていない人たちに恥ずかしい思いをさせるのですか。わたしはあなた方に何と言いましょうか。あなた方をほめるべきでしょうか。このことについては,わたしはあなた方をほめません。

コリント第一11:21-22



新世界訳だと何だか分かりにくいので、新共同訳もご覧ください。

なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。

あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。



この部分の黒崎幸吉さんの注解

註解: 当時聖餐式は今日の如き形式に於て行われなかつた。信者は多く主日(日曜日)の夕刻に(使207)各々弁当持参にて集り食事を共にした。之を愛餐と称し(ユダ12)其の終りに主のパンを割き葡萄酒を飲んだ。是れ出来るだけキリストの最後の晩餐に象ると共に、信者の愛を増さんが為であつた。然るにコリントに於ては教会等にて「一つ処に」信者が聖餐即ち愛餐のために集る時、当時ギリシヤに行われて居つた宴会などの影響をうけて富者と貧者との間に食物が平等に分配せられず、富者は先づ己の持参せるものを飽食し貧者は食物に乏しくして飢うる如き事実が行われた。是れ悪魔に処を得させたのであつて、かかる有様では最早や主の晩餐を食するものと云う事が出来ない。多くの場合にそうである通り、聖餐式も初めの間は極めて自然で生気に溢れる集会であった。それが儀式化すると共に精神は死滅する。


註解: パウロの心に溢るる奮慨が此の文より溢出でて居る、聖晩餐を乱して普通の飲食と異らない様にした事は其の一(普通の飲食ならば他の家で為すべきで教会で之を為す必要が無いではないか)、特に重んずべき教会の集会を軽んじて之を不一致なものにした事が其の二、貧者を辱しめて之を飢えしめた事が其の三であつて、何れも基督者として重大なる罪である。パウロは112に一般的にコリントの信者を誉めたけれども此の点については誉める事が出来なかつた。夫故にパウロは次に聖晩餐の真正の意義を示して彼等の過を矯正せんとして居るのである。



つまり、ここでは、富んだ人は食べれて、貧しい人は食べれないなどといった不平等があってはならないこと、集まりあった皆んなが分け合って共に食事にあずかり、互いに対する愛を深めるべき事が述べられています。



しかーし!


エホバの証人の記念式では、回されたパンやぶどう酒をスルーしなければいけない、いわゆる食べれない人がほとんどですが、それって、そもそも間違いですよね?


さらに、アブラーを高める歌まで歌わされるって何やねん(笑)


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どんな集まりやねん!ですよね(笑)


食べる人、つまり霊的に富んでいるかのような人と食べちゃダメな霊的に貧しい人を分け隔てるなんて想定されてなかったはずなのに。




食べていいのは特別な人たちだけって何なの?



そういう差別があっては絶対にいけない集まりのはずなのに。



ほとんどの人が食べちゃダメな食事会で、皿やグラスだけが回されるとかって、奇妙過ぎますよね。



不気味な儀式でしかありません。



そ~んな残念な集まりには行きませんでしたが・・・



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ちょっと遅くなりましたが、これからパン(ピザ)とワイン(苺ワイン)を感謝していただくことにします。