何度も言っていますが、登山が好きです。


好きになったのはここ3年くらいです。

もともと、どこかに出かけて日常と違う景色を見るのが好きで、旅が好きでした。

自然が好きなので、自然の場所には興味があったものの、自然の場所は行くのが難しくてあまり行っていませんでした。

自然が豊かな場所というのは人が少ない場所なので、電車で直というのはまず望めないのはもちろんのこと、駅からのバスなども、あったとしても便数が少なすぎて不便だし運賃も高いです。

私のように一人で公共交通機関を使って出かける人間にはそこがまず難しい点でした。

ちなみに一人で行くのはそんなことを共有できる相手がいないことと、自分のペースで周りたいからです。


それに加え、ずっと文化系でやってきて運動は苦手で体力がなく、また体が歪んでいて(側弯症)足も曲っていることから膝に負担がかかるとすぐ痛くなり、登山なんてするとその後しばらく痛むので、敬遠していました。


でもコロナになって普通の旅が難しくなったことから、自然の場所で密にならなくて、野外で空気がオープンに流れているところなら可、という判断で、まずは軽い高原地帯(八島湿原)に行ってみたところ、疲れはしましたがやっぱり自然はいいな!となり、そこから「ちょっとした山くらいなら行けるかも」と少しずつ始めてみました。

無理ない範囲で難易度を上げていくと、自然に膝を支える筋肉がついてきて痛まなくなりました。何より、これまで旅先で見てきたよりずっとすごい景色が山の上で見られることにすっかりハマり、毎週どこかの山に登るようになりました。


はじめてハマった八島湿原

徐々に難易度を上げていき、いろいろな山に登れるようになりました。それがうれしくてまたチャレンジを重ねていきました。

もともと、大腿と下腿、足(足首より下)が捻れているために、膝の周りに筋肉がついても膝の負担のかかり方が不均一のため、膝が痛くなって正座ができなくなってしまったりしましたが、すっかり登山にハマっていたので続けていました(今はどうにか正座できるところまで復活しています)。


登山によって毎週一定以上の負荷のかかる身体活動を継続し、その運動も身体の一部分だけを不自然に強化するのではなく、環境に合わせて全身を使うので身体全体が鍛えられ、また結構色々な判断力が必要になるので頭にも、もちろん自然の中で活動することで爽快感があり心にも、いいと感じています。

正直、いい事ずくめです。


最近、YouTubeで石黒先生の動画を見始めたのですが、石黒先生が55までに、特に女性は、運動を始めるといいと言っていて、さらに意を強くしました。


石黒先生は医師なので、YouTubeによくある怪し気感満載の健康情報ではなく、かといってゴリゴリの西洋医療しか信じられない!みたいなのでもなく、参考になります。


私は大学入試に失敗してから不安定になり、それから健やかに生きる方法に興味を持つようになりました。

健やかでないからこその興味なので、そういった情報を得ても、「やっぱ自分はこうだからダメなんだ‥」と思うばかりで、ますます落ち込むという悪循環でした。

健やかになることに取り組む前向きな意欲がそもそも失われていたからです。


迷走して、オステオパシーというアメリカ生まれの代替療法を学んだこともあります。

それ自体はとてもよい療法なのですが、なにせ自分が健やかではないため、それを続ける気持ちにもなれませんでした。

しかし、そもそもの、「健やか」というのは、薬や手術で悪いものを取り除くというのではなく、身体に備わっている自然治癒力で治っていく方がよいと思う気持ちはずっとあります。

もちろん、薬や手術が悪いというわけではないです。できれば未然に、自然治癒力で治るのがいいと思いますが、その段階を越えたなら、薬や手術で治すことができるならもちろんそうすべきです。一般医学はもちろん一番研究もされていますし、治療法が定まっているものの効果は抜群です。

でも、そこからはみ出すものもたくさんあることを感じています。

とくに検査結果に出てこない不調には西洋医学は弱く、病気はない、気のせい、精神的なものなど言われかねず、そう言われた人は対処の仕方もわからず落ち込んで、ますます健康を害していく悪循環にはまってしまいます。


私はコロナの1年前に、軽い風邪から後遺症になりました。

コロナ後遺症でいわれている症状とほぼ同じです。きっかけは軽い風邪でしたが、いつもは1日寝ればすく軽快するのにまったく良くならず、

倦怠感が強く、食欲も失せ、そうしていくうちにどんどん弱ってきました。

通勤で駅まで歩くのもしんどく、駅の階段はとてつもなくきつくなりました。

内科医に診てもらっても、検査で何の数値の異常もなく、喉が腫れているわけでもないので病気ではないと言われるだけでした。


そうなると「精神的なもの」になってしまいます。先に述べたように、私は精神的に問題はあるのですが、これに関してはきっかけがはっきりしていたので違う!と思いました。

身体的には鼻の奥、喉の上の問題からの感じがしたので、耳鼻科に行ったところ、慢性上咽頭炎では?と言われました。

それは西洋医学の正式な病名ではなく、治療もないのだが、そういう不調に現に苦しんでいる人は多く、対症療法ならある、(コロナでも有名になったEATという方法です)といわれました。保険点数がついていない療法なので自費と言われ、藁にもすがる思いでやってもらいましたが、私の場合はかえって悪化しました。

しかし、診断(正式には病名ではないので診断ではないですが)がついたことで少しホッとしました。


その後、どうにか自分で治しましたが(結局オステオパシーが役立ちました)、こんなことは大いにあるのだろうと思います。

検査で診断がついて、かつその病気にはっきりと効果がある薬や手術がある場合はそれで治るものの、診断がつかなかったり、ついても治療法がない、あっても効果が薄い、場合はそれ以上どうしょうもないのです。


その後遺症になる前、私は左腕が上がりにくくなったり、いくつか不調がありました。

でも生活に大きな支障はなかったのでそのままにしていました。

そういう、身体の何処かがなにかおかしくて、通常の自然治癒力が働かず、風邪のウイルスを追い出しきれず後遺症になり、それが悪循環を引き起こしてどんどん調子が悪くなっていったのだと思います。

何事でもそうですが、悪く転がり始めるとどんどん悪くなります。何か小さなことでも、その悪い転がりを止めることができれば、普通の状態に戻ることも可能になります。


私はその時は、上咽頭の炎症が治らないのはそのあたりの関節が固くなっており、ウイルスなどの排出といった、正常な働きが阻害されていると感じました。

それでその関節の動きを少しつけるようなことをしたところ、復調しました。

それ以降は、何かの菌やウイルスに侵されても治る事ができる身体であることが必要だと、毎日短時間ですがヨガなどして身体に固すぎるところなど作らないように心がけるようになりました。完全に柔軟になることは難しいですが、いつも以上に固くなることは警戒すべき兆候であり、それを防ぐためです。ある程度動いていれば、それなりに自然治癒力は働きます。


そうしてどうにかそれ以前の状態には戻りましたが、「健やか」とはいえない状態でした。

そこでコロナが始まって、その流れで登山をするようになり、「健やか」とまでいい切れませんが、以前よりずっとそれに近づいたと思います。今も気持ちは落ち込みますが、上げる方法←登山、も知っていますし、恐らく体力がついたことで、むやみに落ち込むこともなくなりました。落ち込まないわけではないですが‥


少し慣れた頃に登った磐梯山

登山は楽しいですし、この山に登ったという満足感が得られ、次はここに行きたい、いずれはこの山に行きたい、という目標もできます。

やはり先日YouTubeで、アメリカ人社会科学者であるArthur C. Brooksさんが幸せについて答える、という動画を見ました。



ブルックスさんは、幸せとは「楽しさ、満足、目的」により得られる、と言っていました。

登山は、この全てを満たすのです(それが楽しみになる人にとっては)。

なんの目的もなく、満足感も得られず生きていた私にとって、頑張って登った結果、山の上にたどり着く登山は、一回一回確実に、わかりやすい達成感を与えてくれました。

のみならず、続けていると「もっとこんな山に行ってみたい」という目標が自然にできるのです。目標を達成できる身体も、登山を通じで自然に作られていくので、「こうなればいいな」という夢物語ではなく、達成可能な目標がその都度できていきます。


それまでの私は、自意識過剰による自己嫌悪に陥っていました。

手近に満足を得られるようなものはなく、「素敵な男性と結婚できたら」とか「もっと収入が多くなればいいな」とか「みんなに尊敬されるようになりたい」‥もっと健康で、きれいで、お金もあって‥など、人間の空想する欲は留まることがないです。

でもどれも、手に入らないと本人自身が思っている内容なのでどうやったら手に入るのかわかるはずもなく、よって欲求不満は高まるばかりでした。


目標、目的もそうです。はっきりした目標がなく生きていたので辛かったです。ブルックさんいわく、「人生をかけた目標を持て、そのために生きているし、そのために死んでもいいような」ということで、それは難易度が高いですが、「この山に行きたい」という目標は持ちやすく、はっきりとしていて達成可能で、自分にとってはちょうどよい目標となっています。


「このために死んでもいい」も、正直なところ、もちろんみなさんに迷惑をかけるのはよくないですが、もし登山のために死ぬことがあったとしても、後悔はないです。登山なしでただ生き続けるよりは、登山した結果死ぬのならそれもよいかな、というくらいの気持ちはあります。


私にとっては登山でしたが、誰にとっても登山がいいとはいいません。自分は何なら楽しく身体を動かせて、気分も良くなるのか、それを見つければいいと思います。

結局はやはり、運動と食事は健康に欠かせないので、そこを避けて健康を手に入れることは残念ながらできないのです。


「そうはいっても運動はいや、食事制限もいや、そんなきついことなんてしたくない」という方もいることでしょう。

私自身そう思っていましたからわかります。運動、運動、食事が大事、と言う人がウザかったです。そういう人は運動が好きなだけで、嫌いなんだよこっちは、食べたいものを食べたいんだよ!と思っていました。


でも、登山ならできました。

やっていくうちに、きつい動きがやみつきというか、ある程度の負荷がかかることが気持ちいいと感じるようになりました。

だから、動かしはじめれば身体は動くことを好むようになるのだ、とも思います。

そして、登山していると猛烈にお腹が空きます。食べなければ動けないとはまさにこのことです。

それまでは、身体に良くない食べ方ばかりしていましたが、一応意識だけは高かったので、いつもそれに罪悪感を覚えていました。

食べちゃダメだ、と強く思っているとますます体に良くないものや量、食べたくなりました。

でも登山で体を動かして、以前だったら避けていた糖質(ご飯など)が食べたくて仕方なくなり、でもそれは食べちゃダメだから食べたくなっているのではなく、すぐにエネルギーに変換できる食事を身体が欲しているためで、そういう声に従って丼ご飯を食べるようになったりしましたが、山に登ったときなら丼飯でもまったく太ることもなく、すぐに消化されました。

そういうことから、食べ物に対しても罪悪感が減っていって、自然に食べて、満足したら止められるようになりました。

以前は満足するということもわからず、食べ始めたら止まらなかったのです。


ですから、私にとっては登山でしたが、自分に合う物を見つけて取り組めば、次第に健康に近づいていくのだと思います。

「自分は運動はダメ」「食べ物の制限はできない」というのはきっと思い込みです。

人間は一度思い込んでしまったものにしがみつきがちですが、なにかでそれを乗り越えることも生涯にわたってできるはずです。それが何なのかはやってみないとわからないので、まずは色々気になったことを試してみればいいのではと思います。

やってみるうちに、少しずつ変わっていったり、でも変わらないこともあったり、いろんな新しい自分に出会えます。


とにかく私は登山に出会えてよかったです。