誰だって生きていればツラい経験もしているだろう。

その経験をすることはそれだけのことなのだが

「ツラかった」という記憶がずっと残り、何度も繰り返し味わってしまうことで

その経験は実際の経験よりも深刻なものになって

その人に苦しみを与え続けることになる。

 

私の場合は、それは大学の時の経験だ。

そもそも、行きたかった大学に落ちてしまい、受かった不本意な大学に行ったことから立ち直れなかった。

今の人たちは、「受かったところに行く」ということを当たり前に受け入れられる人が多くなっている気がするが(本当かどうかは知らない)

私は当時、人と比べて自分が少しできることといったら勉強くらいしかない、

という自覚があったのでできるだけ良い大学に行きたいという気持ちがあった。

その気持ちが逆にアダとなって、無難なところではなくちょっと難易度が高いところに挑戦してしまい、結果、無難だったところ以下の大学に行くことになった(併願はできなかった)。

競争がない地方で育った私にとって、自分にとって得意だと思っていたことに関してのはじめての挫折だった。

 

不本意な大学に入ったものの雰囲気が合わず、それ以降は挫折から立ち直ることができず、鬱々とした大学時代を送った。

実家から離れての東京暮らし、花の女子大生(当時はそういう時代でした)なのに

全くエンジョイできず、しみったれた毎日を送っていた。

 

入学後にバブルが崩壊し、就職氷河期に突入していた。

もともとすっかりやる気を失っていたので、ちょっと就職活動もやってみたものの、

やっぱりしんどいと大学院に進むことにした。

当時、同じ選択をする同級生が結構いたのも後押しになった。

 

しかし、もともと合わない大学に居続けるのが間違っていた。

そもそも行かなくていいのに行ってしまったこともあり

だったら一生懸命やる、という意欲が大学生になってから失せていたので

大学院生活は大学生生活以上に暗澹としていた。

 

結果、修士論文で指導教官ともめて、提出した論文は落とされてしまった。

これは今に至ってもずっと繰り返されている私の基本パターンである。

自分が「こうだ」と思うことがあって、それを表現したいと思っていて、

でもそれを表現するのはその表現したいことで表せばいい(この場合は論文)のであって、それを見ればわかるんだから説明はいらないだろう、という態度だ。

それで指導教官が気分を害し、報復として論文を落とされてしまった。

内容はもちろん、完璧ではない。

「ここがおかしい」と言われると、そうかもしれないところはあるが

重箱の隅をつつくようなことで、大筋には関わらないのだ。

でも、そこをつつく人はいますよね。

 

今ならSNSなどを使ってアカハラとして訴えることもできるだろうが

当時はインターネットも始まったばかりで、どうすればいいのかもわからず

ただ泣き寝入りで終わりました。

 

これはこれだけの経験なのだが、これがずっとその後も尾を引いてしまったことが一番よくないことだった。

この経験を踏まえて、「上の立場の特に男は自分より立場が下の女にやり込められると自分の権力を振りかざして抑え込もうとする」というのはわかったものの

だからといって「それを回避するためにうまく立ち回る」ということがどうしてもできず、かえってこの経験から

「私はそのようなものを引き寄せてしまう人間だ」といった無意識の思い込みを生んでいるのか、このパターンを職場などで何度もその後も繰り返してきた。

とはいえ、職場の上司に軽くそのような圧をかけられたことはあるが

この時の大学の教員からの仕返しほどのインパクトがあることをやらかした人はいない。

 

言いたかったのは、このこと自体というよりも、このことをずっと引きずっていることがヤバい、ということです。

何度も何度もそのことを思い出して味わっているうちに、そのことから逃れられなくなる。

そのこと自体は大したことなくても、味わってるうちに大したことになってしまう。

恐ろしい脳の仕組みだと思います。

もういい歳だから、そういうことにとらわれるのはやめて

もっと適当に流すような人間になりたい。風の時代ってそういうことですよね。