鹿笛:悲惨な虐待事件が止まらない… /奈良

 悲惨な虐待事件が止まらない。大阪市のマンションでは、母親の育児放棄で幼児2人が命を落とす事件が起きた。通報を受けながら救えなかった児童相談所の対応はもちろんだが、母親が離婚の際にどんな経緯で子供を引き取ったのかが気になる。

 新米記者のころ、育児放棄で3歳児が死亡した事件を取材した。逮捕された母親は、「(わが子が)可愛くなかった」と供述した。離婚後に育児放棄が始まった点など、今回の事件と共通点があった。

 離婚の際に親権を主張したという父親は当時、私にこう問いかけた。「自ら望んで引き取ったのにどうして虐待するのか」。私の中で答えは今も見つかっていない。(大久保)

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毎日新聞 2010年8月19日 地方版


記者の目
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記者の目:離婚と親子のかかわり=反橋希美(大阪学芸部)

 ◇別居親との面会は子の権利--反橋希美(そりはし・きみ)
 離婚すると夫婦は他人。では親子は--。離婚後に離れて住む親と子のかかわりを考える企画「親子が別れる時~離婚を考える」を5月、本紙くらしナビ面に連載し「離婚しても親子は親子」と必ずしも言えない現状を報告した。離婚後の子どもの心と体を育てるのは養育費と、離れて住む親と会う面会交流。親権者さえ決めれば離婚できる現在の協議離婚制度から、この二つを取り決めてから離婚する仕組みに改めるべきだ。

 この問題に関心を持ったきっかけは自分の離婚だった。当時、私が親権を持った長男は3歳、長女は8カ月。子を元夫に会わせるには私が連れて行かねばならない。元夫と顔を合わせるのは気まずいが「親子の交流は必要」と考え、離婚時に養育費と併せ面会についても話し合った。だが周囲は、上の世代ほど「なぜ会わせるの」と困惑した。

 国が5年ごとに実施するひとり親世帯の調査で、養育費の支払率は約2割(06年)。極めて厳しい数字だが、同調査で面会交流は実施状況すら把握されていない。「離婚=縁切り」というイエ制度からの離婚観がいまだに根強いことを肌で感じた。

 ◇違う価値観知り、たくましく育つ
 父母の一方から分離されている児童が定期的に父母のいずれとも人的な関係および直接の接触を維持する権利を尊重する--。日本が94年に批准した子どもの権利条約の文言だ。欧米では80年代ごろから離婚の増加とともに子どもの福祉を重視する潮流が生じ、離婚後も両親が子の養育にかかわる「共同親権」が広がった。子どもは普段は一方の親と暮らすが、隔週2泊3日程度、別居親と過ごす。

 日本は一方しか親権を持てない単独親権制だ。面会交流は近年、裁判や調停で広く認められるようになってきたが「子が嫌がっている」と親権者が強く拒否すれば、却下されることも少なくない。書類の親権者欄にチェックを入れるだけで協議離婚が成立する現行制度で、面会交流を取り決めている人は少ない。

 面会交流が広がらない一番の要因は、子が別れた親に会う意義を見いだせないと考える人が多いからではないか。

 私は、多くの場合、親子の交流は意味があると思う。幼いころに親の離婚を経験した男性(39)は祖母に「母は死んだ」と育てられた。成長し祖母との閉鎖的な関係に悩んでいた時、母の生存が分かり、離婚理由を聞いたことが生きる力を取り戻すきっかけになった。「テレビの再会番組みたいな劇的な感動はない。でも何かふに落ちた」という男性の言葉が印象的だった。

 離婚家庭の子どもたちが交流し助け合うグループの運営にかかわる東京国際大の小田切紀子教授(臨床心理学)は「一概には言えない」としつつ「別居親と交流がある子は同居親といい関係が築ける傾向がある」と話す。両方の親の価値観に接すると、同居親と過度に依存し合ったり、逆に反発が集中しにくくなる。

 親子の面会を援助する家庭問題情報センター(東京)の山口恵美子さんは「あんな父親でも会わせる意味はあるの」と相談してくる母親に「あなたは完ぺきな親?」と問う。山あり谷ありの面会を経て、たくましく育つ子たちを見てきた経験から「反面教師でも、親を知ることが自我形成につながる」と確信しているという。私も同意見だ。

 ◇「共同親権」の原則化は疑問
 では共同親権を導入すべきか。私は選択肢としてならよいが、原則化には賛成できない。理由は「会わせられない」人の存在だ。離婚原因に家庭内暴力(ドメスティックバイオレンス=DV)や精神的虐待を挙げる人は少なくない。今でも調停や裁判で面会を命じられてもうまくいかないケースが多々ある。欧米のように、安全な面会援助施設や、離婚前後の両親の相談に乗る機関の整備が先決だ。

 当面の手立てとして参考になるのが、離婚観が近い韓国だ。養育費支払いと面会の方法を取り決めた計画書を裁判所に提出しなければ離婚できない。離婚時に作成した書類で養育費取り立ての強制執行もできる。08年以降に法が改正された結果だが、現地の専門家は「親たちの意識が変わってきた」という。

 韓国方式の導入にはそれなりの公費投入が必要だが、効果はある。離婚後、何年も紛争が続くほど対立が激しい夫婦は全体から見れば少数で、一時の感情で交流のきっかけを失っている人たちも相当数いる。前述した施設や機関の整備を進め、「養育費と面会交流は子の当然の権利」との認識が広まれば、スムーズに交流できる人も多いはずだ。親が離婚する子どもは年間24万人。本気で取り組むときだ。

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 ご意見をお寄せください。〒100-8051毎日新聞「記者の目」係/kishanome@mainichi.co.jp
毎日新聞 2010年8月31日 東京朝刊


 ◇一人親、手を上げる前に
 「息子さんの体にあざがあったという情報があります」。今年2月、京都市の主婦(38)は電話で告げられた。前夫(48)が引き取った長男(10)と長女(7)が通う静岡県内の小学校の教諭からだった。

 前夫は結婚当初から家庭で敬語を使うよう強制し、ささいな失敗に激しく怒った。しつけにも厳しく、子どもにも手を上げた。精神的に耐えられず離婚を決意。子どもは引き取るつもりだったが、長男が転校を嫌がった。前夫は子どもと暮らしたいと懇願し「しかり方を改める。子どもに月1回会わせる」と約束したため、まかせることにした。

 ところが前夫が約束を守ったのは最初の半年だけ。次第に面会に難色を示し、学校が長期休みの時しか会わせなくなった。この夏休み、1日だけ会えた長男は「お父さんにはよく怒られるけど、謝っておけば大丈夫だから。まだ我慢できる」と話した。前夫に「虐待」を問いただしたり、親権者変更を求めれば、逆上して子どもが更に危険になる気がする。「次に会えるのは冬休み」と涙をぬぐった。

   ■   ■

 7月初め、東京都内の公園で、幼い兄弟が小川の水を浴びて遊んでいた。2人を見守る両親のそばには、離婚後の親子の面会を仲介する「NPOびじっと」(横浜市中区)の古市理奈理事長(39)がいた。離婚した夫婦の対立が激しいと、子どもの面会で協力できない。間に立って調整するという。

 虐待防止が活動目的の一つで、「一人親はストレスがたまりやすい。手を上げてしまう前に、もう一人の親にSOSを発信して」と呼び掛ける。面会では親子でプールに入るなど、できるだけ子どもの体をチェックする機会を設けるという。「離婚しても父と母が子どもの養育にかかわり、成長を見守ることが大切」と訴える。

   ■   ■

 「お母さんにはいつでも会っていいよ」。奈良県の会社員男性(39)は長女(10)と長男(5)にこう話している。離婚して子どもと暮らす父子家庭だ。

 元妻(37)は子どもに厳しくあたった。甘えてまとわりつくとたたいたり、怒鳴ることも日常茶飯事。精神的に不安定で、約4年前、子どもを連れて家出した時、男性から離婚を申し入れた。親権を求めたが、家裁の審判で「子どもが幼い」と親権は元妻に。それから2年後、大阪高裁の判決で元妻の体罰などが問題視され、ようやく子どもを引き取れた。

 親権は得たが「子どもには母親の姿を知って育ってほしい」と、月1回以上、泊まり掛けで元妻に会わせている。「今度、お母さんと会う時に着て行く服を買おう」などと、元妻との面会を嫌がっていないと態度で示すようにしている。

 「行ってきまーす」。元気よく母親の元に向かう子どもたち。近所からも「今どき、近所のおっちゃん、おばちゃんとこんなにしゃべってくれる子はおらん」と可愛がられている。【児童虐待取材班】=つづく

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 児童虐待に関する皆さんの意見をお聞かせください。この連載に対する感想もお寄せください。メールo.shakaibu@mainichi.co.jp、ファクス06・6346・8187か、〒530-8251 毎日新聞社会部「児童虐待取材班」(住所不要)まで。

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毎日新聞 2010年9月6日 大阪朝刊

どうせなら、コテンパンに殴られた方が良かった。
失敗したら、どうせまた、自問自答するしかないのだ。
誰かが殴ったその相手は、もう僕でなかった。
誰かが殴ったその相手は、僕のことを嫌ってさえいた。
笑ったことは迂闊だった。

全然、これで良かったことなんかひとつだってありはしなかった。
血を吐くべきだった。いや、吐こうとしたところで、一体、何と出会う可能性があるのか。
これで良かったのだ。

総括したいのでない。僕は決して、希望を得たことなどない。

二度と、立ち上がることはできないかに思えた。
ミミズのように緑の地中を這い回って
犬のように誰かのそばに尻尾を振った
猫のようにじぶん自身の体を舐め回して
そして時々羽をのばして
白イルカのように海面近くを休みたい
蜘蛛のように巣網の近く獲物を待っていたい
啄木鳥のように常に何かへ心奪われたい
彼らが日本の政治の現在こうなっていることを
知る余地はあるか
海のように漂いたい
大木がこれまで何事もなかったかのように(成長したい。それほど多数の雨風の過ぎ去った後でなかった)
彼らは、知っているだろうか
彼らでさえ、決して全部は

いつか僕が彼らのことを知る日は来なかった
きっと明日さえ
沖縄返還文書 日米密約の存在認め開示命令 東京地裁

2010年4月9日21時27分
 1972年の沖縄返還の際に日米両政府が交わしたとされる「密約文書」をめぐる情報公開訴訟で、東京地裁は9日、密約の存在を認めたうえで、国が文書の不存在を理由に開示しなかった処分を取り消し、開示を命じる判決を言い渡した。原告1人当たり10万円の国家賠償も命じた。杉原則彦裁判長は、文書を破棄したことの立証を国に求め、「国民の知る権利をないがしろにする国の対応は不誠実だ」と述べた。

 問題となったのは、沖縄返還にからみ、日米の高官が合意して(1)米軍基地の移転費用などを日本側が財政負担する(2)米軍用地の原状回復費400万ドルと沖縄にあったラジオ放送「アメリカの声(VOA)」の国外移転費用1600万ドルを、それぞれ日本側が肩代わりする――ことを示す一連の密約文書(7種類)。元毎日新聞記者の西山太吉さん(78)らが08年9月に情報公開請求したのに対して、外務省と財務省は「存在しない」ことを理由に開示しなかったため、09年3月に西山さんら25人が提訴していた。

 判決は、密約文書に「署名した」とする吉野文六・元外務省アメリカ局長の法廷証言や、米公文書館で開示された文書などを根拠に、日米両政府間の密約と、これを裏付ける一連の文書があったと認定。「沖縄返還交渉における難局を打開した経緯を示す外交文書として、第一級の歴史的価値があり、極めて重要性が高い文書だ」と評価した。

 そして「機械的または事務的方法では見つからず、歴代の事務次官ら文書に関与した可能性のある者への調査が重要」と指摘。密約に関する外務省有識者委員会の調査より前の、同省の調査を基に「探したがなかった」とした国の主張については「十分な探索を行ったとは言えない」と批判した。文書が破棄されていたとしたら「相当高位の立場の者が関与したと解するほかない」と、組織的な廃棄の疑いにも言及した。

 判決は今回の訴訟の意義についても言及。原告らが求めていたのは「密約の存在を否定し続けた国の姿勢の変更であり、民主主義国家における国民の知る権利の実現だった」と指摘。そのうえで、密約文書の存在を否定し続けた国の姿勢について「通常求められる作業をしないまま不開示にされ、原告らが感じた失意、落胆、怒りの激しさは想像に難くない」と非難し、慰謝料の支払いも認めた。

 この裁判では、情報公開制度で文書がないことを理由に開示されなかった文書が、本当に存在しないのかについて、原告側がどこまで立証責任を負うかも争点になった。判決は「原告側が過去のある時点に文書が作成されたことを示せば、文書が破棄されたことなどを被告側が立証しない限り、その後も保管された状態が続いていると推認できる」との判断を示した。

 有識者委員会は3月に米側の文書などから「広義の密約はあった」とする報告書をまとめたが、今回の裁判の結審後で、証拠としては提出されていない。(浦野直樹)
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今、平和を語る:小説家、劇作家 井上ひさしさん(2008年2月4日夕刊)

 ◇「9条を守れ」から「半歩でも前に」へ
 ご存じの井上ひさしさん(73)は、言葉にこだわり、庶民の視点から戦争と原爆を厳しく問うてきた。「九条の会」の呼びかけ人でもある井上さんに、平成の世も20年を迎えた今、私たちへのメッセージをお願いした。<聞き手・広岩近広>

 ◇「無防備地域宣言」の条例制定運動を言葉の意味や表現が擦り切れている、ヒロシマ、ナガサキを伝えなければ
 ◇ソフトで日本は世界の役に立てる
 --まずは、今年の課題ないし目標から。

 井上 これまで「9条を守れ、憲法を守れ」と声をあげ、「戦争をしない、交戦権は使わない」といった否定路線を守ってきた。そこで痛感したのは、100%守っても現状維持なのですね。守れ、守れというだけでは先に進まない。だから今年は「する」に重きを置きたい。一歩でも半歩でも前に進む、そのように我々の意識を変えていきたい。

 --「守れ」から「する」への転換ですね。具体的には。

 井上 たとえば、ジュネーブ諸条約に基づく「無防備地域宣言」の条例制定運動です。無防備地域の考え方は憲法9条の非武装平和主義にうながされてできました。動く武器、つまり兵隊がいない、固定された軍事基地は封印する、市民に戦う意思がないなどの条件を満たす「無防備地域」であることを宣言した場合、国際条約によって攻撃を禁止しています。こうした平和地域を日本全国のあちこちに誕生させたいのです。

 --「無防備地域宣言」は有権者の50分の1の署名を集めて自治体に条例の制定を直接請求すればよく、これまでに大阪市など全国で約20の市町村で直接請求が行われました。しかし、すべての議会で否決されています。

 井上 強調したいのは、これは国際条約で、日本政府も2005年3月に批准している。憲法98条の2項には、こう明記されています。「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守(じゅんしゅ)することを必要とする」。だから、国際条約は国民の名誉にかけて守るといった気概を見せて、国際的に認められた特別の平和地域をつくれるように、そのことに理解と共感を示す議員や市長を選んでいきたい。

 --政府と自治体は一線を画す、ということですか。

 井上 そうです。権力と我々の主権とを分けることが実は大事なのです。戦争を起こす主体は常に政府で、決して国民ではありません。そんな政府に、主権者の国民が絶えず批判を加えていくのが国民主権の基本的枠組みです。ところが国家と国民は一体という幻想があって、国が何かやるとき国民は協力しなければならないんだと考えてしまう。しかし、昨年夏の参院選では、時の政府・為政者と国民は別なのだと示したと思います。「美しい国」はうさん臭いと分かった。

 --言葉の偽装をはぎ取らなければいけません。

 井上 言葉が本来もっているいろいろな意味や豊かな表現が擦り切れて、使っているうちに<つるつる言葉>になっているんですね。あるいはもともとないのに誰かが<つるつる言葉>をつくり出して、人を動かす。民営化とか経済成長とか国際貢献とかは<つるつる言葉>です。こうした<つるつる言葉>を政府が持ち出してきたり、力のある人が言い出したときは、その下にどんな意味がぶら下がっているか、よく検討しなければいけません。

 --戦争や平和も<つるつる言葉>でしょうか。

 井上 残念ながら、そうなってしまいました。戦争には正しい戦争はない、戦争を言い出した人は生き残るけど、それに動員された国民は命と財産を投げ出さねばならない。それが戦争なのですが、戦争という言葉もつるつるになったので、戦争反対といっても<つるつる言葉>に反対しているだけで、気合が入らない。平和だって同じです。昨日の生活が今日そして明日へと少しずつ良くなりながら続いていくという保証が、平和の本来の意味だと思います。自分たちが生きるための最重要な道具である言葉の手入れをすべきときですね。言葉に力を宿らせ、言葉を鍛え直したい。

 --さて原爆ですが、被爆した父娘が主人公の「父と暮せば」の舞台の前口上で、井上さんは「おそらく私の一生は、ヒロシマとナガサキを書きおえたときに終わるだろう」とおっしゃっています。新たな作品は。

 井上 ナガサキを書こうと思って、長崎言葉の辞書を作っているところです。標準語でひくと、長崎弁の出てくる辞書がないのでね。長崎に1カ月くらい住んで、喫茶店や大勢の人が出入りしている所で、じっと音を聞いていると、自然にお話が生まれます。

 --最大のテーマですね。

 井上 被爆体験は日本人の体験から人類の体験になってきています。広島と長崎の被爆者の貴重な証言活動の成果です。核兵器を使ったら人類は生き延びることができないのだと、あの2個の原子爆弾は警告した。だから人間の存在全体に落とされたのだと思います。私たち日本人は、あのとんでもない爆弾の正体を世界に伝えていく使命があります。核保有国で「父と暮せば」を上演しようと思っています。ロシアとフランスとイギリスではすでに上演していますが。

 --日本らしい国際貢献とは。

 井上 アメリカの尻について、アメリカの加勢をするのが国際貢献ではありません。自分たちが持っている一番得意なもの、つまり日本の場合はソフトで、すでに多くの分野で世界に貢献しています。例えば医学で世界の人たちのお役に立ったらどうでしょうか。

 世界最良の日本の病院で診てもらったらあきらめがつく。ノーベル医学賞は1年おきに日本人がもらう。がんの特効薬を日本が考える。などなどによって、世界中の医師が日本語でカルテを書くようになる。そうするとプーチンさんやブッシュさんから世界の金持ちまでが日本で治してもらいたいと、こぞってやって来る。こうなると自動的に「人質」となる。国際機関だって、みんな日本に集まる。そんな日本を攻撃できない、したらいけない、ということになる。

 ね、日本は生きる道があるでしょう。(専門編集委員)



現代を映す劇場:「東京裁判3部作」一挙上演、「化粧 二幕」ファイナル=高橋豊

 ◇井上ひさし戯曲の魅力たっぷり--重喜劇から一人芝居まで上演続く
 小説家で劇作家の井上ひさしのよく知られた「標語」に次の言葉がある。

 「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」

 井上芝居の魅力の奥義を簡潔に語っている感じがする。難しい問題や人物を取り上げるとき、膨大な資料に当たり、その本質を抽出し、笑いと共にやさしく観客に提示してくれる。

 今年は井上戯曲の上演が続く。3月7日まで東京公演があり、現在は地方公演中なのが、こまつ座「シャンハイムーン」だ。中国の文豪、魯迅の晩年を描き、人間同士がどう生きればいいのか考えさせる。丹野郁弓の演出による17年ぶりの再演だ。

 4月はまず、東京・新国立劇場で「東京裁判3部作」の一挙上演が始まる。

 東京裁判(極東国際軍事裁判)は、ポツダム宣言に基づいて第二次世界大戦後、いわゆるA級戦犯の審理・処罰を目的として、連合国により東京で行われた。

 井上はこの裁判を題材にして、2001年に第1部「夢の裂け目」、03年に第2部「夢の泪(なみだ)」を発表。06年、第3部「夢の痂(かさぶた)」で完結させた。

 「夢の裂け目」の主人公は紙芝居屋の親方、「夢の泪」は補佐弁護人、「夢の痂」は投身自殺に失敗した元陸軍大佐だ。彼らの視点から「東京裁判」とは何か、あの「戦争」は何だったのか、と問いかける。国家と国民の「戦争責任」など硬質なテーマを扱いながら、井上は笑いと音楽をふんだんに盛り込んだ。まさしく「重喜劇」。当時、新国立劇場の芸術監督だった栗山民也が演出を手掛けた。

 栗山が振り返る。

 「井上さんは、東京裁判の検事が持っていた記録を古書店で段ボール10箱分、購入して、読み込むことから始めました。井上さんは『隠されていた国家機密が僕たちの前に提示された』と東京裁判を評価しています。著名な人物を登場させず、庶民の目線で切り込んでいるのが素晴らしい。全身を使って書いていて、場面設定のすごさ、抜群の言葉の強さがあります。一挙上演する機会を得てうれしい」

 「夢の裂け目」は4月8~28日、「夢の泪」は5月6~23日、「夢の痂」は6月3~20日。角野卓造、三田和代ら初演メンバーに辻萬長、木場勝己、土居裕子らが新たに参加する。問い合わせは03・5352・9999へ。

 ◇渡辺美佐子が演じ続け上演600回以上に
 4月30日から5月9日まで東京の座・高円寺で、井上作の一人芝居「化粧 二幕」が上演される。1982年、木村光一演出で初演。以後28年間、渡辺美佐子が演じ続け、上演回数は600回を超える。渡辺は「にぎやかな舞台をつとめられるうちに『化粧』の幕を下ろしたい」と、今回をラスト公演とする。

 さびれた芝居小屋の楽屋で座長の五月洋子(渡辺)は、男役の化粧をしている。幼くして別れた息子が芸能界でスターとなり、20年ぶりに会いに来た、とテレビ局のスタッフに告げられたが……。

 渡辺が語る。

 「初演の時は1幕物だったのですが、井上さんが2日目に『僕、2幕目を書きます』と約束してくれて、今の形になりました。当時は大衆演劇の化粧や着付けなど全く分からず、いろいろな劇場や劇団に通い、勉強しました。戯曲がよくできていて、リピーターの観客がとても多い。ただ、とても忙しい芝居。今回が卒業公演です」

 問い合わせは03・3223・7500へ。

 井上は現在、肺がんの抗がん剤治療を受け、療養中である。7月に沖縄を題材とした新作「木の上の軍隊」の上演が予定され、病床わきに資料が山積みされているという。(専門編集委員)=毎月最終火曜日に掲載。次回から模様替えします。



井上ひさしさん:9日に死去、75歳…小説家・劇作家


作家の井上ひさしさん=東京都台東区で2008年4月、長谷川直亮撮影
 人間や社会のあり方を笑いの衣に包んで問いかける作品を多数執筆して「現代の戯作者」と呼ばれ、一貫して反戦を訴えた小説家・劇作家の井上ひさし(いのうえ・ひさし、本名・廈=ひさし)さんが9日午後10時22分、肺がんのため神奈川県鎌倉市の自宅で死去した。75歳。葬儀は12日、近親者だけで行う。喪主は妻ユリさん。

 山形県生まれ。上智大在学中から東京・浅草の「フランス座」で演じられる喜劇の台本を書いた。卒業後、放送作家になり、山元護久さんと共作したNHK人形劇「ひょっこりひょうたん島」(64~69年)が好評を博した。

 戯曲「日本人のへそ」(69年)から活躍の場を舞台へ広げ、喜劇、評伝劇、昭和史ものなどを手掛けた。72年、「道元の冒険」で岸田国士戯曲賞を受賞。84年には劇団「こまつ座」を旗揚げした。「薮原検校」「父と暮せば」「ムサシ」など、社会風刺を込めながら温かい目で人間を見つめた作品で観客を魅了した。

 小説でも才能を発揮し、72年に「手鎖心中」で直木賞。東北を舞台に国家とは何かを問いかけた「吉里吉里人」(81年)はベストセラーになり、日本SF大賞などを受賞。86年「腹鼓記」「不忠臣蔵」で吉川英治文学賞。

 03~07年、日本ペンクラブ会長。04年に大江健三郎さんらと「九条の会」を結成し、護憲活動にも取り組んだ。

 83年から直木賞選考委員を務めた。99年、「東京セブンローズ」などで菊池寛賞。03年、「太鼓たたいて笛ふいて」などで毎日芸術賞。04年、文化功労者。09年、日本芸術院会員。

 09年10月末に肺がんと診断され、入退院を繰り返していた。同年上演の「組曲虐殺」が最後に発表された戯曲となった。

 ◇井上さんの主な作品◇
《戯曲》(年は初演年)

69年「日本人のへそ」

70年「表裏源内蛙合戦」

71年「道元の冒険」

73年「藪原検校」

82年「化粧」

84年「頭痛肩こり樋口一葉」

85年「きらめく星座」

86年「國語元年」

91年「シャンハイムーン」

94年「父と暮せば」

97年「紙屋町さくらホテル」=新国立劇場のこけら落とし

01年「夢の裂け目」=東京裁判3部作の第1部

02年「太鼓たたいて笛ふいて」

03年「夢の泪(なみだ)」=東京裁判3部作の第2部

06年「夢の痂(かさぶた)」=東京裁判3部作の第3部

09年「ムサシ」「組曲虐殺」

《小説》(年は単行本刊行年)

70年「ブンとフン」

72年「手鎖心中」

72年「モッキンポット師の後始末」73年「青葉繁れる」

75年「ドン松五郎の生活」

81年「吉里吉里人」

85年「腹鼓記」「不忠臣蔵」

90年「四千万歩の男」

99年「東京セブンローズ

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ひと:井上ひさしさん=日本ペンクラブ会長に就任(2003年4月27日朝刊)
毎日新聞 2010年4月11日 9時33分(最終更新 4月12日 17時16分)