病院に向かいながらも

「まだつかないの」

という母のメールを横目で見ながら閉じていた。

そして、また来たメール。


「先生が説明があるから、お嬢さんがついたら教えてっていってるので

なるべく早くね」


これを見て私は新幹線のデッキに出た。


「私は電話で聞いてるから、母と兄で聞いていいよ。そう話してあるし」


「でも、先生はお嬢さんが来てから話したほうがいいですか?っていうから、はいっていったの」


「先に聞いててよ」


「聞いたってわからないもん」


「わかりました」ため息・・・。


座席に戻り、新幹線に乗り込むまえに駅の書店で購入した

医学系の本を斜め読みしながら今後のことを考えていた。

リハビリになるまでは転院できないらしいので、

医師には検査結果の全てをCDRに落としてもらうようにお願いし、その状態で

受け入れてくれてなおかつ充分ケアの

受けられる

病院はどこだろう、と。



と、もう一度会話を振り返り気になって

デッキに出た。


「兄が聞けばわかると思うから先にきいちゃいなよ。待たせてもなんだし」

(ドクターは勤務時間外でした)


「それがいないの。」


「何で?」


「KY子に詳しい運ばれるまでの経緯を聞こうとした途端、KY子がいなくなって

しまって。

それに憤慨して、どっかいっちゃった」


もう、何も言えない。

運ばれるまでの経緯を話せない?


限りなく


あ  や   し  い   。



とはいえ、叔母は叔母である以上

その時は信じたいという気持ちが上をいっていた。


那須塩原からタクシーに乗り、タクシーの運転手さんに

「顔色悪いけど、こんな時間に病院かい?どっか辛いんかい?」


「いえ、私じゃないんです。父が倒れまして。」


「そうかい。大変だね。どこが悪いって?あ、これ食べないかい?」


コアラのマーチ・・(笑)差し出されたので素直に頂いた。

なぜか地元の言葉を聞くと安心してしまうものだ。


「脳・・らしいです。朝連絡が来たばかりで私もあまりわからなくて」


「のういっけつ?だとしたら、いい病院はこっちじゃなくてあっちにあるのになー。

何であの病院?」


「いや、受け入れてくれたのがそこしかなかったみたいです。」


「今、多いもんなー。救急も受け入れできるにも数が限られてるらしいじゃないの」


「そうらしいですね。」


「どっから来たの?」


「実家は宇都宮市内ですが、今は東京に住んでいるので・・」


「そっかー。大したことないといいなー。」


約30分。タクシーでひたすら栃木なまりを聞きながら気持ちが落ち着いていた。


降りるときに大量の「飴玉」を渡してくれた。タクシーのおじちゃん、有難う。



ついてみるとICUとは名ばかり、に見えた。

野戦病院のごとくベッドがひしめきあっていた。

眠っていながらも動いている父を見て一安心した。


叔母は私をみて抱きついてきた。

私も悪意など持っているわけはないと思っていたので

「ありがとうね」と声をかけた。

しかし、それ以上は聞かなかった。


ドクターの話も聞き3日くらいでリハビリを開始するという

話だったので、命は大丈夫だと心から安心した。



しかし、ドクターのカルテに搬送時のメモが挟まっていた(いや、貼ってあった)。

そこに

「ホテルで気分が悪くなり」の字が見えた・・・。


それを誰に聞くことも、誰に伝えることもできなかった。