空に浮きたい海月

空に浮きたい海月

クラゲだってきっと空をふわりふわりと浮かんで漂うことを夢見てます。

ふわふわした日記や小説のようなものなどを投稿していこうと考えております。

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ウ~ウ~ウ~
 何処からともなく消防車のサイレンが聞こえてきた。その音は次第に増していく。どうやら近所で火事があったようだ。
「火事? サイレンが大きい……もしかして近い!?」まだ小学校五年生の私は胸を躍らせた。居ても立ってもいられず、直ぐに部屋を飛び出し、玄関の扉を開いた瞬間であった。数百メートル先、そこには龍がいた。赤く真っ赤に燃え上がる龍。黒煙を纏い、天まで昇る勢いで身体をうねらせる。
 私は暫くの間、玄関の前でその龍に魅入ってしまっていた。そして、知らぬ間に自分の意思とは関係なく、現場の近くの野次馬に紛れ、火が完全に鎮火するまでずっと見ていた。
 初めての経験であった。なんて格好良いのだろう。何だか見ているだけで自分に特別な力が身に付いたような感覚に陥っていた。いつまでも見ていられた。私はこの時に炎の美しさに魅せられてしまった。それから程無くして、きっと誰もが予想し得る事件が起きた。
 家族みんなが寝静まった午前一時、私は一人むくりと、まだ眠い体を起き上がらせた。この時をどれ程待っていたことか。あの日から密かに手に入れようと必死になっていたライターを一昨日、道で拾ったのだ。本当なら昨日、一昨日と実行する予定であったけれど、私の興味心は眠気に勝てなかった。しかし、今日は違う。このときのために学校で散々寝てきたのだ。授業で何をやったのかなんて全く分からない。もしかしたら明日はテストがあるかも知れない。それでも構わなかった。そして今日は布団の中でずっとあの日のことを思い出していた。十分に睡眠は取ったが、ここで寝てしまったら多分起きることはない。家の中から物音が消えてから、数十分経っただろうか。ゆっくりと静かに身体を起こし、準備を始める。
 私の作戦は見事に成功し、今こうして、ライターを手に喜びに浸っているのだ。しかし、あまりゆっくりとはしていられない。父は割と早く起きて来る。また、妹がいるのだが、変な時間に目を覚ますことがある。私は急ぎ準備に取り掛かる。みんなが寝ているのは二階、この一階のリビングでなら多少の物音を立てても誰も気付かない。もし、私の家が一階建てであったのならば、あんなことにはならなかったかも知れない……。リビングの中央にあるテーブルの上に拾ってきた木を置いた。勿論、ここであの時の規模の龍を創る訳にはいかない。そう、兎に角、何でもいいので燃やしたかっただけなのだ。
 早速、木を燃やし始めた。……あまり火が出ない。出ても直ぐに消えてしまう。何故だろう。ただただ、時間だけが過ぎて行く。仕方がない、今度はオイルでも使って燃やしてみよう。そう思ったとき、どっと疲れが出てきた。そう言えば、ずっと起きていたんだ。「よし、今日はこれ位にして寝よう……」私は階段近くにあるごみ箱の中に何も考えずに木を捨てた。木は微かに赤く、静かに目覚めの時を待っていた。私はそうとは露知らず、疲れた体で二階に上がる気力も無く、窓辺のソファーに倒れ込むように寝転んだ。

「んっ……眩し……もう朝?」私はいつの間にか眠ってしまっていた。閉じた瞼の上から容赦なく陽の光が降り注いで……

「駄目だ! 火が強すぎる!」「中には何人いるんだ!?」

 周りがやけに騒がしい。知らないおじさん達の声が飛び交う。どこかでこのやり取りを耳にした覚えがある。そう、忘れるはずもない。私がずっと思い続けてきたあの日の……

 私ははっとして目を開けた。知らないおじさんが私を抱き抱えていた。覚えている。この服は消防隊員の制服だ。何故? という疑問も直ぐに解けた。腕の隙間から見えたのは私が望んでいた筈のものであった。私の家は巨大な龍に呑み込まれていた。あの日は格好いいと感じた。でも、この時は、恐怖の感情だけであった。
「おいっ、目を開けているぞ! 意識があるみたいだ。直ぐに担ぎ込め!!」意識が遠退いていくとき、懸命の消火活動をしているのが目に映った。

 その後、病院で目を覚ました。話を聞くと生き残ったのは私だけだった。ソファーにうつ伏せで寝ていたため、煙をあまり吸わないで済んだのだ。それに近所の方が直ぐに気付き助けてくれたらしい。発火場所は階段の近くのごみ箱。木は火が燻った状態で他の燃えやすい物に引火したのだと考えられるということであった。私が助けられた時には階段は火の手が上がっていて、とても人が入れるような状況ではなかった。調査の結果、二階の階段近くに使われていた壁は非常に燃えやすい材質で出来ており、建築基準法に反するものであった。その為、二階はあっという間に火が燃え広がってしまい、両親と妹は命を落とすことになった。
 しかし、その原因となる火種を作ったのは紛れもなく私である。取り返しの付かないことをしてしまった。私は火の恐怖を知った。それから暫く、火を見ることが出来なかった。私の夢見ていたものは、自らの幸せを壊すものであった。
 しかし、いつまでも立ち止まっている訳にはいかない。私にはできることがある。やらなければならないことがある。私は償わなければならない。
 中学生になると猛勉強をした。消防隊員になる為に。私が落としてしまった命をただ無駄にする訳にはいかなかった。高校生になっても必死に勉強を続けた。奨学金で大学に行き、二十二歳の時に公務員試験に合格。

 そして今、私は火災現場を前に助ける側として立っている。もう二十五年目になるが、まだ罪滅ぼしはできていない。そして今、目の前で起きている火災は今までの比にならないものであった。私はあの日のことを思い出していた。中には、まだ人が残っているという。しかし、火の勢いが強すぎて、中に人が入れるような状況ではない。火の怖さを知っていれば尚のことだ。幾度となく体験して来た火災現場。しかし、その恐怖は必ず訪れる。
 私は考えた。今まで、何のために頑張って来たのか。もう、随分長いこと生きてきた。これ以上、この仕事を続けて行くにも限界を感じていた頃だ。私は使命はただ一つ。こういった時の為にここに居るのだ。その天まで昇る勢いの火の柱……火の龍の中へと飛び込んだ。
「何をしているんですか!? 戻って来て下さい!」後ろから呼び止める声が聞こえたが、無視をした。

 分かっている。今、私がしていることは業務命令違反であり、この行為が自殺行為であるということを……。しかし、このまま放って置いたら、確実に命を落としてしまう。英雄になりたい訳ではない。ただ、私のこの手で救える命が目の前にあるのなら……。
 龍は思ったよりも激しく憤怒している。私は急いで二階へと駆け上がる。上がって直ぐ右の部屋から微かに声がした。家全体が熱で歪み、ドアは蹴り破ってこじ開けた。部屋の中には母親らしき人物が子供を抱えたまま倒れていた。抱き抱えられていたのは、まだ小学校に入学したばかりの女の子だろうか。
「大丈夫か!?」「ママが、ママが……」見たところ煙を吸って倒れたのだろう。母親の方はもう助からないかも知れない。それに私の体力では、この二人を助けるのは難しい。せめて子供だけでも……。
「よしっ、こっちへ来るんだ」子供を無理に母親から引き剥がそうとした。「ごほっごほっ、ミキ……」彼女の手は、我が娘を守ろうという力強い意志を持っていた。私は何を考えていたのか。二つの命が目の前にあるにも関わらず、片方の命を見捨てようとしていた。私は二人とも救わないと意味がないのだ。それが私の罪滅ぼしだ。絶対にこの二人の命を救う。
 私は母親をおんぶして、子供を抱えた。既に龍は階段を消化してしまっていた。二階の窓に目をやる。下にはきっと他の隊員が救助マットを準備していてくれるだろう。私は子供を毛布で包み、母親をおぶり直し、窓を開き、下に用意してあった救助マットへと飛び下りた。

 大分、煙を吸い込んでしまったようだ。意識が朦朧としている。何とか無事に救助できた……いや、本当にできたのだろうか? 意識が遠退いていく中、子供の泣き声が耳に入った。その泣き声を聞いて、私は目を閉じた。

 その後、病院で目を覚ました。あの時と一緒だ。同じ病院。同じ病室。偶然とは怖いものだ。仲間から話を聞くと、一晩かけて消火活動をしてやっと鎮火したらしい。そして、結局、母親は助からなかった。子供は一命を取り留め、命に別状はないそうだ。私は業務命令違反として、責任を負うこととなった。私はいつでも出せるように準備をしていた退職届けを上司に渡し、職を離れた。

 あれからまだ三年しか経っていない。私は入院をしている状態だ。怪我はもう治ったのだが、肺に癌が見つかった。残された猶予は三カ月である。
「おじさん、見て。朝顔。えへへ、学校で育てたの。でもこのままじゃ直ぐに駄目になっちゃうから押し花にしようかなって……私って酷い子かな?」
 一年前から私のお見舞いに来てくれている。この子は、あの最後の火災現場で私が救った子供だ。小学校五年生になったそうだ。彼女は私の生きる希望であり、絶望でもある。あの時、何故母親を救えなかったのか。この子の笑顔を見る度に、母親を救えなかったという事実を突きつけられる。私はとても申し訳なかった。お見舞いに来て貰えるような立場にはないのだ。
「お見舞いに来られるの迷惑? 私の命、おじさんの手によって救われたでしょ? 私ね、すっごく感謝しているんだよ」心が痛い。
「ミキちゃん……おじさんは君のお母さんを……」
「ね? そんなに自分を責めないで。私は嬉しいんだよ。規則を破ってまで、私と母親を救ってくれたこと。偶々、お母さんは居なくなっちゃったけど……。私はおじさんに感謝してる。他の人だってそうだと思うよ? おじさんは今まで沢山の人を救って来たんだからさ、もっとみんなから感謝されるべきだよ!」
 みんなから感謝される? そんなこと一度も考えた事が無かった。今まで罪滅ぼしの為にやってきた仕事であったから。
「ありがとう……ミキちゃん」私は心から感謝した。まだ、こんなに小さな子から教わることがあるとは思っていなかった。もっと早く気付くべきだったのかも知れない。
「どういたしまして。あっ、そうだ今日も聴く? 私が気にいった落語。やっぱり変だよね、小学生が落語なんて」
「そんなこと無いさ。どんなものであったとしても、それはその人にとって大切なものであるなら、否定せずに、一緒に分かち合うものだよ」本当は知っていた。彼女は私が落語に興味があることを知ってから、落語について勉強したという事を……。私はこの子を助けたつもりでいた。しかし、いつの間にか、この子に助けられていた。
 それから一週間が過ぎた頃であった。私は自分で気付いていた。この身体はもう一カ月も持たない。これも運命なのだと受け止めた。彼女がいつものようにお見舞いに来てくれた。彼女は突然、こんなことを言った。
「おじさん……私ね、夢があるの。とっても大きな夢だよ」私の顔を見た彼女は何かを悟ったような顔をしていた。一体、彼女に今の私の姿がどう見えたのかは分からない。それでも、いつもと違う雰囲気を感じ取ったのかも知れない。
「夢? どんな夢なのかな?」
「おじさんの病気を治せる薬を開発するの! だから……それまで待ってて。絶対に死んじゃ駄目だよ」
 私は分かったと返事をすることなく、そのまま黙っていた。あの日のことを思い出していた。彼女はそれから喋ることなく、花瓶の水を交換して、暫く窓の外を眺めていた。そして、また来るね、と一言だけ残し帰って行った。

 それから間もなくして、彼はこの世を去った。あれから彼女がお見舞いに来ることはなく、葬式にもその姿を見せることはなかった。ただ、この先、彼女はもう一度この病院を訪れることになる。一人、約束を果たすため……