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いつから、こんなことを始めたんだ。


[閑話休題]


さて、では早速本題に入ります。


宗教を例に取って申し訳ないが、わかりやすいので題材にした。


今回は、キリスト教をたとえ話として挙げた。


キリスト教とは、イコ━ル「イエス」だとよく言われる。


一方で、世に「救世主」と言われる多くの人たちがいる。


救世主とは、どんな世界であっても、ピンチになって窮地に陥った時に現れて、その窮状を立て治した人のことを言う。


スポーツの世界でも、政治の世界でも、その他の世間的な日常の世界でも、至るところに救世主は現れる。


但し、その数の数千倍もの偽者も一緒に現れるが…


その人が本当に真に「救世主」たる人かどうか、果たして信じるに値する人かどうか。そのエビデンスはどこにあるのか?


一番いいのは、その人と直接出会って確かめることだ。


しかし、それが出来る人は限られているが、交通機関の発達によって、昔よりは、より多くの人が、直接出会いのチャンスを持つことが出来る世の中になった。


但し、これは本人が生きている間にしか出来ないが。


一方で、本人が生きている間でさえ、虚実様々な噂が飛び交い、デマゴーグもはびこる。


本人が死んだ後なら、なおさらである。


事実を信じるならまだしも、嘘言を真実だと信じたとしたら、目も当てられない。


ここに「知っている」という言葉がある。

同時に「信じている」という言葉もある。


どう違うのだろうか。


イエスをたとえに取って話してみよう。


イエスは、およそ2,000年前にユダヤに生まれて、最後は神を騙(かた)った偽者(悪魔)として、同じユダヤ人の宗教家達(こちらが悪魔)によって死刑にされた。


実際に死刑執行を命じたのは、当時ユダヤを属州にしていたロ━マの総督のポンテオ・ピラトだったが、このロ━マの総督は、イエスに何の罪も認めなかったために放免しようとしたが、イエスによって面子を潰されたユダヤ教指導者達がその正当な行動を許さなかった。


イエスを放免すれば、暴動が起きそうなほどに、ユダヤ教指導者に洗脳された民衆達が荒立っていた状況があったからである。


暴動が起きれば、ロ━マからユダヤ属州の管理を任されていた総督のピラトは、本国のロ━マから責任を取らされることになる。


更迭される可能性は高い。


そこまでして、イエスを助けてやるほど、ピラトはイエスの信奉者ではなかった。


そして、イエスは敢え無く十字架で処刑されてしまった。


しかし、この場で、イエスキリストの十字架の真意を問いただすのは、本意ではないから省く。


但し、イエスが2,000年前に確かにユダヤに存在していたことは、事実のようである。


そして、たくさんの奇跡を実際に行ったことも。


旧約聖書と呼ばれているものは、ユダヤ教徒のバイブルだから、直接キリスト教徒とは関係がないが、つながりはある。


旧約聖書内に、やがて救世主となるイエスと言われる人が、この世に現れるという予言が書いてあるからだ。


それもかなり詳しく、生まれる場所やその容貌まで、また、どんなことを行うか、そして人々にどう扱われるか、はたまた、その最後はどうなるかまで詳細な記述の預言があるからだ。


書かれていないのは、それがいつ起こるかということだけだ。


そのことは、神しか知らず、人には教えないということらしい。


大事なところを出し惜しみをする神だ、まったく!


但し、旧約聖書の成立の時期が、紀元前5世紀頃と言われていることが、キリスト教研究者の中で一般的に認められていることから推測すると、イエスが現れてどんなことをするかの詳細が書かれてある旧約聖書の部分は、まさに予言の書としての価値があるとは言えないだろうか。


しかし、イエスが生まれる前のユダヤの人々は、他国から侵害されていたユダヤの人々を救う救世主が現れることを、旧約聖書によって知っていたし、その中で神を信じる人々は、知っているだけではなく信じてもいた。


おそらく、自分が生きている間に救世主がこの世に現れなかったなら、死後に、救世主に出会えることを心待ちにして死んで行った、多くのユダヤ人がいたことだろう。


しかし、幸運にもイエスと同時代に生まれた人々は、イエスと直接出会う機会があった。


そして、多くの人々がイエスに出会った。


ある弟子が、今そこで神の使いの人(イエス)に出会ったと言っても、信じない敬虔なユダヤ教徒もいた。


しかし、イエスが目の前に現れて直接出会って話した時、彼はイエスをを「救世主」として信じた。


自分で直接その存在に触れて、確信が生まれたからである。


ところが、現在の私達はどうだろうか?


イエスは、現在この世に存在しない。


生前のイエスと出会った人が書いた[と言われている]書物(新約聖書)と、嘘かホントかわからない数多くの伝承があるだけである。


私達は、そのような時代に生きているのである。


それなのに、世界の中で最も信徒の数が多いのは、釈迦でもムハンマドでも、創価学会の池田大作でもない。


紛れもなく、イエスなのである。


もっとも、多数決を持って正しいとするのは、世の中が常に犯してきた過ちであることも事実である。


絶対的な平和を標榜している、キリスト教徒といえど、イエスが死んで以来、今まで犯して来た間違いは数知れない。


そして、今、まさに犯し続けている。


人は、この世にたった一人でも本当に信じられる人がいれば、幸せになれる。


たとえ、その人が死んでしまった人であっても。


ただ、その人を知っている(知人レベル)というだけでは、その人が本当はどんな人かはわからない。


信じられるレベルまでのつき合いに達して、初めて本当のつき合いが始まる。


だが、キリスト教会の指導者達は、私達が一度も会ったことのないイエスを信じろという。


知的レベルでは救われない。信じてこそ救われると。


しかし、一度も会ったことのない人のことをどうやって信じろというのだろうか。


「私がイエスの生まれ変わりだ」と、気違いじみたことを、教祖が真顔で言っていた、最近世間を騒がせて、オウム真理教以来久方振りに社会問題化した、韓国に本拠があるキリスト教会(世界神霊統一教会)があるが、こんなのは問題外である。


だが、正統的なキリスト教会と標榜している教会が現在していることは、一体何だろう。


キリスト教会の指導者達は、会ったこともない人(イエス)を、聖書にこんなことが書いてあるから、あんなことがあったと書いてあるから、それは全て本当のこと(真実)だから信じなさいと言う。


そう言っている本人が本心から信じられる人なら、あるいは聖書を読んで見る気になるかもしれない。


気の遠くなるような2,000ページ以上もある分厚い書物だが。


イエス本人と出会える環境にない私達は、イエスの名を利用して、何某かの利益を得ようとして私達に近づいて来る悪魔を、賢い目でしっかりと見分けなければならない。


なぜなら、後から人が作った教会ではなく、最初のすべての始まりであるイエス自身が、「悪魔は、善良なるあなた達よりも、狡さに掛けては、はるかに秀出た頭の切れる存在なのだから、くれぐれも騙されないように、よくよく気をつけていなさい。」と言い切っているのだから。