たかが茶碗
今年の4月上旬、桜が散ると共に母が永眠した。パパの時とは違って比較的素直に受け入れることが出来た。人は必ず死ぬ。年老いて、重篤な病に侵された母が亡くなるのは至極自然な人の営みだと感じていた。---はずだったのだが。母の形見は、生前使っていたご飯茶碗1つを譲り受けることにした。家族で唯一私だけが実家を離れ遠方で暮らしている。母は奔放な私にさぞかし手を焼いた事か、今までに2回別れの際に泣かれたことがある。それを振り切って、自分の思う道を選んだ。親不孝の鏡のような人生だ。葬儀も終わり、自宅に戻って何時もの時間が流れて行った。そういえば、母の飯茶碗があったな。 今日はこれでいただこうと、ふっくらとよそったご飯を目前に口に入れようとした時。何故か、涙が後から後から溢れて止まらない。結局、ご飯は食べれなかった。今でも、母の飯茶碗は我が家の普段使いの食器達の一番下に鎮座しているけれどこれでご飯を食べるのは後数年かかるのかも知れない。