なにもされていない、と女は叫んだ。腹部が赤く染まっている。それでも、なにもされていない、と女は叫んだ。
誰にやられた。ともかく救急車を呼ぼう。そう提案した男を拒んで、女は自分でできます、と鞄をまさぐる。
衣服に乱れがある。ゴールデンウィークを迎えようとする金曜日の夜、まだ肌寒いのか女はしっかりとスーツを着ているようだが、ストッキングはところどころ破られ、Yシャツのボタンもいくつかなくなっている。
鞄の中身も散らばってしまったのか、それとも気が動転しているのか、一向に女は目的のものを見つけられないようだ。
思わず男は、自身の携帯電話を手に取り、110を押した。何回かの呼び出し音ののちに相手が答える。
「だめ」
どこにこんな力があるのか。思わず男は一歩のけぞった。自身の携帯電話は女の血で少し濡れる。
通話をさえぎり、女は繰り返した。
「だめ」
青ざめた表情は恐怖のせいばかりではない。なぜこんなにも通報を恐れるのか。
確実に女の腹部からは血が出続けている。早期に通報するべきだ。彼女のためにも。
なにか理由があるのか。通報を恐れるような。犯罪に加担する人物だというのか。男は葛藤した。
それともこのような事件に巻き込まれたことを公にしたくないからか。彼女はどうみても会社員だ。
鞄を一瞥すると社員証らしきものが目に入る。身なりも貧相でない。顔つきは若いが、派手ではない。
自分と同じ会社員がなぜ、ここまで事件に巻き込まれたことを隠したがるのか。
被害者の彼女がなぜここまで。
男はここまで考えをめぐらせ、「この女は自身の清廉潔白さより、だれか知らぬ人物に刺された状態を公にされたくないのだ」という結論に至り、さらに「この女性を救わねばならない」という正義感にかられた。
「大丈夫です。警察と救急車を呼びましょう。あなたにとって今最も大切なのは名誉でなくお体です」
むりやりに男は女の手を振りほどき、再度ダイヤルする。
警察に、そして救急車を呼ぶ。
女はその光景を、震えながら見つめていた。
4月27日金曜日、午前1時14分の出来事である。
