2016年10月24日の記事、

 

「10式戦車の車長用ハッチは2重構造の可能性あり」

http://ameblo.jp/22-raptor/entry-12212623432.html

 

この記事について、重大な誤りがありましたので、訂正いたします。

 

 

この記事の中で紹介していた10式戦車の車内の画像でありますが、これは映画「シン・ゴジラ」の製作中のワンシーンを紹介した記事からの引用であります。

 

私はこの画像を、本物の10式戦車の車内であるという前提のもと、車長用ハッチのハンドルの形が外部のハッチと違うので、内側にもう一つのハッチがある可能性について論じました。

 

 

しかし、この度、「シン・ゴジラ」のBlu-rayを購入し、そのメイキング映像を観ていましたところ、

映画で登場する10式戦車の車内映像は、すべてセットで撮影されたもので、実際の車内で撮影されたものでは無いという事実が判明しました。

 

これにより、ハッチの細かな形状が本物と違うのは当然であり、その他の車内の構造も、実際とは異なる可能性が高く、あの画像からは実際の10式戦車の車内構造及び、ハッチの2重構造の可能性についても推測することは困難です。

 

よって、2016年10月24日の記事からは、10式戦車について何ら正確な情報は得られないことが判明いたしました。

 

ここで訂正し、お詫び申し上げます。

漠然としつつ、そうとうディープな話題に切り込んだと感じている。

 

 

「合気道」 と聞いて、何を思うだろうか?

 

人それぞれ、いろいろと思い浮かぶものがあるかもしれない。

 

いまでこそ、合気道人口はかなり多くなったが、それでも、空手や柔道、剣道よりも、人々の認知度が低いのも事実だろう。

 

YouTubeなどでは、合気道の動画も多くあり、演武の様子などが誰でも簡単に見ることができる。

 

しかし、合気道は試合を行わないため、世の中にはその実力を疑う人も多く、多くの合気関連の動画には、

 

「合気道はやらせだ」

「なれ合いでやっている」

「総合格闘技にでて、強さを証明しろ」 etc・・

 

といったようなコメントが散見できる。

 

 

確かに、合気道の演武は、取りに対して受けが華麗な受け身を見せているため、

 

それが「やらせ」に見えるのかもしれない。

 

 

 

だが、合気道をやってきた者として言うが、

 

合気道で行う技にはキチンと意味があり、そして、繰り出される技は決してヤラセではない。

 

これは、実際に体験してみないとなかなか理解してもらえないのも事実なので、疑問をお持ちの方は、合気会本部道場にでも体験入部されてみてはいかがだろうか?(笑)

 

 

 

さて

 

実際、合気道について正確に知らない人は多いと思う。

 

合気道には過去に「塩田剛三」のような「格闘技の神様」と言われた人物も存在したため、一部には「合気道最強説」のような話もある。

 

しかしその一方で、「合気道は弱い」「使い物にならない」と豪語するひとも一部にいたりする。(まあ、そういう人に限って、合気道をやったことが無い人だったりするんだけど)

 

また中には、合気道を「格闘技」と理解し、合気道が、K-1や総合格闘技と戦ったらいったいどちらが強いのか?と、比較したがる人も意外と多い。

 

 

 

そこで、合気道の成り立ちを振り返りつつ、現代の格闘技と武道がどう違うのかを考えてみたい。

 

 

より詳細にまとめた記事も書いたので、よかったらこちらも参照していただきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

まず合気道は日本武道の一つである。

 

 

しかし、剣道、柔道、空手などとは性質が異なり、

 

「日本古来の古武術の流れをくむ武道」 といった方が正確であると私は考える。

 

 

実際、合気道は最初から現在の「合気道」の形で存在していたわけではない。

 

 

合気道の源流ともいえる武術に、「大東流合気柔術」というものがある。

 

これは平安時代に生まれた武術であり、この武術の継承者であった「武田惣角」に習い、合気道開祖の「植芝盛平」が、日本古来の剣術、柔術、そして、神道の精神などを加え、相手を傷つけず、捌き制することができる武道として完成させたのが、現在の「合気道」である。

 

合気道という武道が確立したのはここ100年ほどであるが、その大本となる武術までさかのぼれば実に1000年近い歴史を持っているのである。

 

 

私が「日本古来の古武術の流れをくむ」と書いたのには大きな意味がある。

 

 

大東流合気柔術が生まれたのが、平安時代であるということからもわかるように、この時代は武士階級が台頭してきた武家社会である。

そして、この時代における「戦い」は、もっぱら、刀や槍を用いた戦いが前提であったことは少し考えれば誰でも理解できるだろう。

 

それに伴い、大東流合気柔術の体捌きも、日本刀を持った時の体の動かし方、いわゆる剣の理合が基本となっており、合気道の動き方もこれに準じている。

 

 

合気道の稽古の中で、敵からの攻撃の代表的なものとして、「正面打ち」「横面打ち」という攻撃があるが、これはそのまま刀による「唐竹切り」や「けさぎり」を表したものである。

 

同じく代表的なものとして、「片手取り」「諸手取り」などがあるが、これはすなわち、日本刀を腰にさした自分に抜刀させまいと、敵が手を抑えてきた、という状況を表すものである。

 

「四方投げ」「入り身投げ」等の技は、この状態から、抜刀しつつ、敵を制する動きが基になっている。

 

また、合気道の体捌きの大きな特徴として「入り身・転換」がある。

これは円運動を中心とした体捌きであり、合気道独特の動きである

 

知らない人からみれば、この入り身転換の動きはまるでダンスをしているかのようにも見えるかもしれない。

なぜそんな動きをするのかというと、

 

例えば、現代格闘技において、ボクシングのジャブが顔面に飛んできた場合、それを避けるには顔面だけを動かせばそれでよい。

しかし、敵が刀を持っていて、自分に向かって上から下に刀が振り下ろされた場合は、体全体を刀の振り下ろされた軸からそらさない限り回避できない。 

 

入り身、転換はこの 「対刀」 を意識した動きの一つであり、刀を避ける動きは、パンチやキックを避ける動きとは根本的に異なるのである。

 

 

 

このような合気道の代表的な技をみてわかるように、

 

合気道の技とは、

 

「日本古来の、互いに武器を持ったことを前提とした戦いから生まれた体術である」ということである。

 

そして、合気道の体捌きは、現代で主流の徒手格闘で殴り合うことを前提にした戦い方を追求したものではない、と言い換えることができる。

 

よって、そのような時代に生まれた体術と、現代格闘技とを安易に比較することはナンセンスであり、意味をなさないのだ。

 

 

現代人が考える「実戦」とは、十中八九いわゆる「ボクシングスタイルの戦い」であろう。

 

 

だが、時代や環境が違えば、当然想定される「実戦」の概念も違ってくるものである。

 

 

全身に甲冑を身にまとい、刀や槍を用いて実際に殺し合いをすることが「実戦」と言われた時代に、パンチやキックで相手を倒す方法を追求する人はいないだろう。

そもそもよほど急所にでもヒットしない限り、パンチやキックだけで人を殺すことは難しい。

 

 

合気道に蹴り技が無いのも、このためである。

 

 

全身に甲冑をつけた状態で素早い上段蹴りなど到底できないし、間合いがある状態では、ジャブや前蹴りも当然届かないため、現代に見られるようなボクシングスタイルの戦闘体系は、当時主流になることはなかったのである。

 

 

そのような環境からうまれた体術を源流とするのが「合気道」であるのだから、

 

 

「合気道が強いというのなら、K‐1や総合格闘技で戦ってみろ」

 

という主張は、全くの的外れであり、筋違いも甚だしい。

 

 

そういった考えが頭に浮かんでしまう時点で、それぞれの武道の持つバックグラウンドを理解せず、小手先の強さだけを要求してしまっている証拠だろう。

 

 

勿論、合気道の技をしっかりと訓練することによって、現代においても、攻撃してきた相手を制圧することは十分に可能である。

 

しかし、合気道に限らず、武道とはそういうことを真の目的としたモノではない。

 

 

そして、状況によっては、合気道の技だけでは不利になるようなことも当然考えられよう。

 

現代スタイルの格闘技で勝って結果を出したいのであれば、それ用の訓練を積めばいいのであって、好き好んで武道や合気道をやる必要などないのである。

 

 

 

「総合格闘技で活躍できる=強い」という理念は、現代においては確かに主流である。

 

だが、武道の歩んできた道のりを鑑みれば浅すぎる理念と言わざるを得ないし、いったい何をもって強いとか弱いとかを決めるのだろうか?

 

 

「総合格闘技で活躍できるから強い」という考え方は、あくまでも

「ルールが決められた、リング上での、グローブをつけた、審判のいる、1対1での戦い」という、極めて限定された条件での戦い方にのみ通用するものあって、真に人間の強さを測る指標になりうるものではないのだ。

 

もし、手っ取り早く人体を破壊しようとするなら、目つぶしや、関節を破壊するなどして相手の自由を奪い、地面の岩や石にでも頭からたたきつけてしまったほうがよっぽど効率が良いだろう。

 

だが当然ながら、現代格闘技においては、そういった危険な技は禁止されているし、寝技といっても、寝転んでも安全な床のあるリングで戦うことになっている。

 

 

そう考えると、現代の総合格闘技とは、言ってしまえば「試合という限られた舞台で戦い、勝つことで自己を表現することを目的としたパフォーマンスの場」といえよう。

 

一方で武道は、実戦から派生した体術が元になったものが多いが、日々の稽古の中で技を磨くことで効率の良い体の使い方を知り、勝ち負けだけにこだわるのではなく、お互いを尊重する精神や人としてのありようといった心を磨くことに重点を置き、そこから日頃の生活にも役立てることができるものであると言えよう。

 

 

このように目的が違っているため比べようがないし、仮に両者を無理やり戦わせたところで意味はない。

なぜなら、ルールや勝ち負けの判定の基準をどう設けるのかによって考え方が全く違ってくるからである。

 

「相撲」と「レスリング」を例にとってみれば、両者はともに似たような格闘技といえるかもしれないが、試合における勝ち負けの判定基準はまったく違う。

 

もし、力士と吉田沙保里を戦わせるとしても、どういうルールで勝ち負けを決めるのか?体重の問題はどうするのか?

レスリングのルールに乗っ取れば、力士が不利になることもあるだろうし、逆に相撲のルールに乗っ取れば、吉田沙保里と言えども簡単に負けという判定になるかもしれない。

 

以前に、元横綱の曙がK-1に転身して話題になったが、ほとんど結果を残すことはできなかった。

だが、それは相撲という競技で戦っていた人が、K-1という競技のルールで戦ったら勝てなかったというだけの話であり、これをもって「相撲が弱い」ということにはならないのである。

 

このように色々な切り口から考えてみると、武道、格闘技、それぞれ目指す方向も、試合におけるルールも判定も全く違う者を競わせても意味は無いし、何が一番強いのかは決められないし、そもそも何が一番強いのかを考えること自体、ばかばかしく思えてくるのは私だけだろうか?

 

 

合気道開祖、植芝盛平は、「武産(たけむす)合気」のなかで、合気道について次のように述べている。

 

 

「合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。合気道の極意は、己を宇宙の働きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」なのである。私はそのことを、武を通じて悟った。

 いかなる速技で、敵がおそいかかっても、私は敗れない。それは私の技が、敵の技より速いからではない。これは、速い、おそいの問題ではない。はじめから勝負がついているのだ。

 敵が、「宇宙そのものである私」とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。すなわち、私と争おうという気持ちをおこした瞬間に、敵は既に破れているのだ。そこには、速いとか、おそいとかいう、時の長さが全然存在しないのだ。

 合気道は、無抵抗主義である。無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ。邪気ある人間、争う心のある人間は、はじめから負けているのである。

 ではいかにしたら、己の邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるか?

 それには、まず神の心を己の心とすることだ。それは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみにまでにおよぶ、偉大なる「愛」である。「愛は争わない。」「愛には敵がない。」何ものかを敵とし、何ものかと争う心は、すでに神の心ではないのだ。これと一致しない人間は、宇宙と調和できない。宇宙と調和できない人間の武は、破壊の武であって、真の武産(たけむす:神道の真理の言葉)ではない。

 だから武技を争って、勝ったり負けたりするのは真の武ではない。真の武はいかなる場合にも絶対不敗である。即ち絶対不敗とは絶対に何ものとも争わぬことである。勝つとは己の心の中の「争う心」にうちかつことである。あたえられた自己の使命をなしとげることである。しかし、いかにその理論をむずかしく説いても、それを実行しなければ、その人はただの人間にすぎない。合気道は、これを実行してはじめて偉大な力が加わり、大自然そのものに一致することができるのである。」

 

 

 

 

開祖の理念はあまりに壮大で、凡人の我々は、そのあまりに大きな理念に面食らってしまう部分もあるかもしれないが、このような大きな理念のもとに創造され、単なる格闘技、格闘術とは大きく異なるのが、合気道なのである。

 

そして、合気道は見ての通り、だれが一番強いかを争うものではなく、自身が自然と一体となって、最終的に自分の中の争うという心を克服することを目指しているような気がする。

 

合気道を修練する者は、この理念に一歩でも近づくことを目標としていくべきだろう。

恐らく、この理念に行きつくことは到底かなわぬとしても、この考えが根底にある以上、自身の中で、不用意な争いを起こそうとする邪気が生まれることは限りなく少なくなるはずである。

 

相手と争わない、ぶつからない、これが「合気」の根本であり、こちらが争おうという気を持たなければ、そもそも争いは起きないので、そいうった心の形成を稽古を通じて学ぶことが重要だと私は考えている。

 

だが、多かれ少なかれ、合気道に限らず、日本武道はこれに近い理念を持っているものであると私は考える。

 

 

 

 

ここまで書いてみて、自分自身でも今気が付いたのが、

 

「合気道とはなんですか?」

 

と人に問われたら、一言で表現することは極めて難しい。

 

 

 

 

 

それほどに、「合気道」とは、単なる武道や格闘術とはことなる、真に精神性を重視し、強いとか弱いとかいう次元を超越した、ある意味で究極の武道といえるのではなかろうか。

 

久々の更新となりました。

 

今回はかねてより気になっていた10式戦車のハッチについて考えたいと思います。

 

 

以前より、10式戦車については、

 

「ハッチが薄いのではないか?」

 

「上面装甲の防御力が心配だ」 etc・・

 

などの懸念が騒がれていました。

 

 

 

 

10式戦車のコンセプトは「市街地におけるゲリラコマンドにも対応できる戦車」とのことなので、その点では、あのハッチの厚みを見た人が、武装ゲリラによるビルの上部から戦車上面に対しての攻撃に対応できるのか心配になるのは必然といえる。

 

 

正直、私自身も、あのハッチの厚みには不安を抱えている一人である。

 

いくら日本のセラミック技術や装甲技術が優れているとはいえ、あの数センチ程度の厚みのハッチでは、成型炸薬弾の直撃には無力であることは言うまでもない。

 

シリアにおける戦車(T72)での市街地戦闘の映像を見ても、戦車は主に上から狙われていることが見て取れるため、ゲリコマ対応の戦車は上面装甲も重要であることを再認識させられる。

 

 

さて、いままで10式戦車の内部がどうなっているかという具体的な情報や映像は皆無に等しい。

 

 

 

10式戦車の試作車両公開時に、内部のディスプレイの一部が写った写真が公開された程度で、今に至るもそれ以外の画像、映像はほぼ出てこない。

 

 

 

ところが、映画「シン・ゴジラ」に関するネットニュース記事の中で、10式戦車の内部が少し写っている貴重な写真が公開されていた。

 

 

記事はもちろん「シン・ゴジラ」に関してであり、

 

面白いことに恐らく本邦初公開であろう10式戦車の内部については一切触れられていなかった(笑)

 

 

 

ちなみに私はシン・ゴジラを観て、最高に面白い映画だと思った一人であるが、この写真を見てしまうと、10式の内部にしか目がいかなくなったw

 

 

 

さて、この写真は場所からして、車長席を下から写したものであろう。

 

 

この画像には、10式ファンにとってはたまらない、様々な情報が見え隠れしている。

 

内部って、下に向かって広くなってるのか!!

消火器ってそこにあるんかーい!

フムフム、車長用潜望鏡の構造ってこうなってるのね・・

 

 

・・・ということは置いといて、

 

 

 

もっとも注目すべきは、車長用ハッチの部分である。

 

 

 

 

一般的に我々が普段目にすることができる車長用ハッチの構造を思い出してほしい。

 

 

 

 

 

参考までにこれがそのハッチだ。

 

 

 

 

 

お分かりいただけただろうか?

 

 

ハッチのロックハンドルの形状に注意してほしい。

 

 

上の画像でのロックハンドルレバーは明らかに断面が円の形をした棒状構造であるのに対し、

 

下の画像でのロックハンドルレバーは薄く平べったい構造である。

 

 

 

この両者の違いが意味するものとは何であろうか?

 

 

 

1枚目の画像の太いロックハンドルレバーは、量産車と試作車両の違いかとも考えたが、公開されているいかなる試作車両のハッチの構造にも当てはまらなかった。

 

 

 

すなわち、こんなに太い形状のロック機構が内側に見て取れるハッチは無かったのである。

 

 

 

そこで私が行きついた一つの結論は、

 

 

 

「10式戦車の車長用ハッチは二重構造の可能性が高い」

 

 

 ということだ。

 

 

 

レオパルド2のハッチと同様に、内側に1枚、外側に1枚の独立したハッチ構造が存在するということである。

 

 

黒いラバーパッキンと思しき構造もみえるので、NBC対策の密閉はこのハッチがメインに担っている可能性もある。

 

 

もし10式がこういったハッチの二重構造をとっているとすれば、仮に成形炸薬弾による攻撃を受けても、これが中空装甲と同様に働くため、被害の軽減に寄与するものと考えられる。

 

 

あと、もう一つ気になるのは、もしこれが内側にあるもう一枚のハッチだとすれば、

これは内側に開くのだろうか?

 

 

 

レバーハンドルの構造からみても、レオパルド2のようにスライド式に収納することはできなさそうだ。

 

 

10式戦車の内部構造については、正式化から6年以上たっても秘密のベールに包まれ、装甲配置や増加装甲の存在、その真の防御力に関しても憶測の域を出ないのが現状だ。

 

 

いち軍事マニアとしては、モジュール装甲の構造や車内内部の写真や映像が公開される日を待ち望んでるが、機密上難しいことも理解はしている。

 

 

今回の記事も、写真から推測した私の独論だが、これが映画のセットで無ければ、あながち間違いでもないと思っている。

 

10式戦車の乗車体験とかで、車長席にのせてもらえることがあれば一発でわかると思うんだけど、たぶんそんな日は絶対来ないよな~(笑)

 

 

 

 

 

日米同盟は世界最高レベルの安全を日本に提供しているが、その意味でいえば、抑止力としてこれに勝るものはない。


沖縄のアメリカ海兵隊もその一つである。


尖閣諸島あるいは台湾海峡有事において、現実に起こりうる最も可能性の高い事象の一つは、中国からの弾道ミサイルないしは武装ゲリラによる攻撃により台湾の政治、経済、軍事の中枢を叩き、その混乱に乗じてきわめて短期間のうちに傀儡政権を樹立させ、中国がそれを支持するというものである。


国連は常任理事国中国の拒否権発動により手出しできない中で、台湾国内で内戦状態が生まれ、既成事実化していくというシナリオだ。


現在、これに対する唯一の抑止力は沖縄海兵隊である。


沖縄海兵隊が一度に投入できる部隊はせいぜい1,000人ほどだが、これは上記の事態が起きた場合、早くて2時間で中国軍とぶつかることになる。沖縄海兵隊と衝突することは、すなわちアメリカ合衆国との全面戦争を意味するため中国はためらわざるを得ないのだ。


繰り返すが、この「ためらわせる」ことが「抑止力」なのである。



「沖縄に米軍基地はいらない」とする無責任な論調があるが、もし沖縄から米軍が撤退しようものなら、沖縄本島において、台湾有事と同一の事象が起きる可能性は十分にあり得る。



沖縄市庁等をあらかじめ上陸していた武装工作員等で乗っ取ったうえで、沖縄の独立を宣言させ、沖縄の独立を中国が支持するというものだ。


中国の拒否権発動で国連は手出しできない。中国政府は独立国沖縄の同胞を守る権利があるという名目で人民解放軍が次々と沖縄に展開を始める。


日本は専守防衛のために上陸を阻止しようにも手出しができない。


混乱のなかで既成事実化し、ついに沖縄は中国の自治区となる。


「いやいや、考えすぎだ。そんなことが起きるはずがない」と思っているのは、隣国から攻め込まれる心配がないと思い込んでいる日本特有の島国根性のせいかもしれない。


一度、日本周辺の国が載っている地図を180°ひっくり返して見てみるとよい。



中国が太平洋に進出するためには沖縄を含む日本列島の島々の間を通過しなくてならないが、中国にとってこの第一列島線と呼ばれる境界が、いかに邪魔かがよくわかる。


中国は第一列島線の突破を国策として進めており、尖閣・沖縄の奪取はまさにその第一歩なのである。


もし沖縄が中国の手に落ちれば、中国にとって第一列島線突破はもはや何の躊躇もいらないであろう。


日本海・東シナ海・南シナ海はすべて中国の領海と化し、アジアのパワーバランスは一変することになる。


尖閣諸島沖での海保巡視船との中国漁船衝突事件が起きたときも、ちょうど民主党政権下での失策につぐ失策で日米同盟が極めて危うくなっていた時であり、加えて鳩山由紀夫首相退任後の国のリーダを菅直人か小沢一郎かどちらにするかと話し合っていた、まさに政治の空白の最中だった。


日本は完全に足をすくわれたのである。よもやあの漁船の乗組員が本当に「ただの漁民」だったと思っている人はいないと思うのでそれについては言及しないが、日本の政治と防衛の隙を突く形で領土・領海が狙われたことは紛れもない事実であることを認識しなくてはならない。


隣国に対しむやみに敵愾心を煽る必要はないが、領土・領海という国家の主権を奪うため虎視眈々と機会を窺がっている相手への備えが平時からいかに大切かという事を強く思い知らされる事件であった。


日米同盟とはそのような脅威に対するこの上ない抑止力であると同時に、我が国の防衛力の一端を担う存在として欠かすことのできないものなのである。
現在、日米同盟は5兆円未満の防衛費の枠内で維持されている。


米国は現在世界最高の能力を持っている国であり、その国との同盟関係というのは、やはり世界最高レベルの安全をもたらしてくれているわけであるから、費用対効果にも優れているといえる。


米国から見て、最も対等に近い唯一の同盟国は実は日本である。


ところが日本における議論が、国会にしろマスコミにしろ「日本は金だけ出して行動はしないと米国に思われている」というレベルの一般論に終始している結果、米国に負い目を感じるような格好になっているため「日本はアメリカの属国だ」という考え方が持ち上がってくるのだ。


属国のように見られることなく、米国からも一目置かれる格好で日本の安全を確保し、さらに平和主義を追求していくという上でも日米同盟というのは良い選択肢であると考えられる。


言うまでもなく同盟関係というのは「お互いさま」の関係であって、相互防衛が前提である。

この相互防衛は当然、集団的自衛権の行使が前提条件になる。


集団的自衛権はあくまで「自衛権」であるという事をまず理解しなくてはならない。



個別的自衛権というのは自分の国の安全を自分の国の軍隊で守る権利。
集団自衛権というのは自分の国の安全を同盟国などの軍事力で守る権利であり、これらはいずれも自分の国の安全が最優先である。


自分の国の安全無しに、他国の戦闘に加担するという事はありえない。



さらに日本の議論が一般論に終始している悪い例として、「日本は戦争できる国になる」「軍事国家の再来」「戦争に巻き込まれる」などのことが聞かれるが、誠に身勝手な主義主張である。


日本が米国等と同じようなすがたかたちの軍事力をあたかも持っているかのような錯覚のもとに、戦後日本の歩みを理解せずに発せられた稚拙で浅はかな論理であるとしか言いようがない。


日本の軍事力はドイツと同じく、戦後の再軍備の過程で連合国に規制をされてきたため、あらゆる面で自立できない構造になっている。


日本は世界の歴史上、米国に攻め込んだ唯一の国である。


米国に攻め込まれた国は沢山あっても、攻め込んだ国は日本しかなく、米国の立場からすれば、戦後の日本の軍事力を米国の脅威となることが無いように抑制し縛り付けておこうとするのはある意味当然と言えるだろう。


であるから、現在の日本から国家的戦力投射能力は逆立ちしても出てはこない。


他国を軍事力で席捲することなど全く不可能なのだ。





では、米国との同盟関係の中での日本の立場とはなんだろうか? 



それは、米軍に対し日本列島という戦略的根拠地を提供し、日本周辺が戦争状態で無い場合には日本を自衛隊で守っているという役割分担という形である。



日本にある米軍基地の数は公表されている資料によれば84か所、自衛隊が使用を認められている日米共同施設が50か所、合わせて134か所が日本列島にのっており、これがアフリカ南端の喜望峰までの範囲で活動する米軍を支えている。


これは会社に例えれば本社機能が置かれているに等しい。


米国の他の同盟国は数多くあるが、基地の規模からすればいずれも支店か営業所のレベルである。

米国からみれば日本の代わりを担える国は他に存在しない。


この点だけ見ても、米国にとって日本が最も対等に近い立場の同盟国であるという事が理解できる。



繰り返すが、同盟関係とは「相互防衛」が前提である。

同盟国が攻め込まれていれば、それを守るために助けに行くのは当然の義務となるわけである。

だが、「アメリカが攻め込まれているときに、日本が助けに行ったら、戦争に巻き込まれる」という例はあくまで一般論の話である。


先ほども言ったが、日本国内には本社機能を担うだけの数の米軍基地が存在するため、米国を攻撃しようとする国があった場合、日本だけを攻撃せずに米国だけ攻撃するということはありえない。


米軍の活動を支える重要な拠点である日本を攻めることなしに、米国に戦争を仕掛けようとする国は、現実的に考えて存在しないであろう。

しかし、もし日本を本格的に攻撃すれば、「集団的自衛権の発動」により、日本を攻撃した国は米国によって完膚なきまで叩きのめされるであろうから、ためらわざるを得ないのである


繰り返すが、この「ためらわせる」ことこそが「抑止力」である。







次回は、日米同盟のもたらす抑止力についてお話ししようと思う。