友人から大切なご家族のことで連絡が来ました。

近況報告と情報を探されている相談でした。


頭の中に言葉は出てくるのですが、目に見えない方のことなので困っていました。

その友人もまだ気付く事が出来ていないで誤解して、どうにかしなくちゃという焦りから見落としていることや不調のご家族の気持ちまで伝わってきて、

言わずにはいられない自分と、それに反して言う事にものすごく抵抗している自分、、、(走馬灯のように言うことがつらつら浮かぶのでそのまま口にすることを言わないように頑張って躊躇っていました)


「人からの相談が増えてきた」という状況。過去の霊現象の酷かった時期を思い出します。


念押しで。私は決して、ものすごく視えるタイプではありませんアセアセ


ただ、共鳴しやすくて嬉しい悲しいなどの感情をコピーして自分の感情として感じてしまうタイプだという自覚は以前からあります。 アロマで相手の体に触る時は強い思いの部分は比較的詳細に近いところまでわかることもありました。


そういう時は「根拠のない絶対的な確信」になるので、今回もそうだと思いました。誰がなんと言おうと「絶対」という感覚なのです。


過去の話でうまく言えないですが、生きている人亡くなっている人との境界線も曖昧で。

わかると皆、自分の家族みたいに思えて愛おしいという感情も湧くし、辛さが伝わるので本当に辛いな、可哀想だな、と自分のことのように同情もしてしまう。


生きている世界の感覚よりも、見えない世界の感覚のほうが研ぎ澄まされて敏感のようです。


亡くなった人のことでいうと、殆どは人から見たその人と本性のその人とには大きなギャップがあって本性のほうはそんなに悪い人でないことが多いのですが、やはり「本当の自分をわかってもらえない」ということが生きている人も亡くなっている人も一番の悲しみだと感じます。「孤独」と同じことなのですが「孤独」が一番の苦しみです。


でも、感覚的には例え犯罪のような大きな罪を犯した人でも、この世では他人はそこしか注目しなくなってしまうじゃないですか。亡くなると忘れてしまっていた善い行いも同じくらい平等にちゃんと扱ってもらえる、という感覚です。


だから「いい人」「悪い人」と分ける事は本当は出来ないです。

「悪い人」と私も思いたい人、今でも複数人います。が、それは自分がされた事を基準にしているからどうしてもそうなってしまいます。


中学の後輩の子は、大人になるにつれてだんだん常にイライラするようになって当たりまくり、最後のほうは私のほうが先輩なのに召使いのようになり依存と拒絶を繰り返すようになりました。


ある時、その子と会った翌日から私自身がその子そのものになり当時お付き合いしていた彼にその子の態度と同じ態度を取るようになりとうとう別れてしまったことがあります。


私の意思とは違うところでのことだったので、別れて元の自分に戻った後唖然としてしまっていました。(自分の人格が変わった時はもう一人の自分は隅っこでちゃんと見ていました。)


その後、私の結婚が決まった報告をした時にもその後輩に何もしていないのにものすごく酷いことを言われたので人に対して妬みや黒い感情しか持てなくなってしまっていたのだと思います。


私がそういう色々な念に持っていかれて支配されなくなった一番のきっかけは第一子の死産です。

死産をしてから自分の人格が別人のように変わったと思います。


私が目に見えないものに真剣に目を向けるようになったのもそれからで、亡くなった子の魂はどこかに必ずある、もし消えてなくなっていたとしたらその後生きていく意味も気力も持てないと思ったからです。みなさんと同じように亡くなった子はちゃんとどこかにいると思いたかったのですよね。


その子の魂が今一体どこにあるのか知りたくて、ずっと探していろんな本を読み始めました。

結論は漠然としてまだ未だにはっきりとはしていないですが。

そこが糸口でそれまで訳わからないがために怖いだけのそれまでの霊現象の見方も変わってきました。


私の家系にまつわる憑依現象の女を子供の頃から目の当たりに見てきたこともありました。

人間ではない腕力、人間では飲みけれないほどのお酒を一度に飲み尽くし、食べ尽くし、、、誰にも居場所を伝えていなくても千眼力でなぜかバレてどこまでも追いかけてくる、そんな女です(私に対してではないですが)。


わかってきたからだんだん霊現象がエスカレートしていったのかもしれません。


今振り返れば、その時の事は全部リアル体験としての教訓になっていると思えるような事も時々あります。


ここ数年はどっぷりフルタイムで神棚に向き合う時間もないくらいヘトヘトでしたが、今年になって家族の不調で外にあまり出れなくなり神棚と仏様に向かう時間が出来てきたので、これも過去そうやっていた時のことを思い出しました。 


それで、あらためて家の中に神様をお祀りすることの大切さを感じています。

立派にするかどうかではなく、1日のうちに一度でも良いから手を合わせる習慣を持つことによって「神様」という存在を思い出せる事に意味があると思っています。忙しいとどうしても神様がいるもいないも考えている暇はありませんので。


話は昨日の友人の相談に戻しますが「霊」の話がどうしても不可欠で自分の中の言いたい確信を「待て待て」と留めることがやっと。


言葉を選びながら、まずは自分で相手に分からないように試す方法から伝えました。


「霊」の事を家族に伝えたりするのは下手するとその人が家族の信頼関係を壊してしまうことになってしまうかもしれないので、その人だけで出来ることをまずは伝えました。


私はお祓いとかは出来ないのでチェックだけです。


チェックしてもらえば、その人は自分の目でその状態を見ることが出来てその人自身が「霊」の存在を認めることが出来て納得できる一番の方法だと思ったからです。


私の過去の教訓で「他人任せ、依存」ではなく「自分で行動を起こす」ことが一番説得力があって、他人から指摘されても実証がなければどこか目に見えないものは半信半疑になってしまいます。


だからそれを実際に相談した人に見せるためのチェック方法です。それでその人自身でわかることがあったら行くべきところに行かなくちゃと考えてくれると思います。(私は具体的な場所は知りません)


そういうのが、頭の中に次から次へと出てきて言わないと我慢できないというか、そう思った時には言っちゃっている、みたいな感じで、後からくよくよと「あんなこと言っちゃって大丈夫だったかな」とちょっと気にしている自分と変な人と思われて友人が離れていくかもしれないなと諦めているもいたりして。


その友人の連絡が来る直前まで実は、そういう本棚の奥から引っ張り出して関連の本を読んでいたので、ああ、この連絡が来ることを全くの無意識の自分は知っていたのだな、と思いました。


もし、見えないことのほうの原因を感じたら、というかその前から本当はお家にその土地の神社の御札は必ず家の中にお祀りして神様に家を守ってもらうことで色んな事から実は守って頂いている事になります。


「お祓い」はちゃんとした人を見つける事のほうが今の時代?(なのかな?)は特に難しい、、、と過去の苦い経験からどうしても私は思ってしまうのです。あとは神様のいないのお祓いは有り得ないというところです。(自分の力で、という人はまず信用できません)


どうしてそうなったかという糸を辿ると、自分や自分ではなくても血筋の中で原因が見付かる事が多いので他人のせいというのはないのかな、、、思えてしまうし、自分で撒いたものは自分で摘み取らなければ同じことがずっと繰り返されてしまうというのも本当のことだと認めざるを得ない感じです。

だから神社参拝の時は結局は神様にお詫びするというところからお参りするようになりました。


本当は「孤独」じゃないのに「孤独」な人が沢山います。


宗教に入る、ということではなく生活の中に神様を感じていれば孤独なんて有り得ないです。

生活の中の神様は普段見逃してしまうような当たり前の事に感謝したり、実はこれってありがたいなぁとしみじみ感じる感性ではないかと思っています。

無い無い、と思っていると孤独になってしまうのであるあるって思っていると虫も草花も良き友です。


生かされているありがたみ、を心から感じることができるのは辛いことを経験した人なのではないかと思っています。人は調子が良い時はありがたみを忘れてしまうことが多いからです。

だから辛いこともありがたいこと、と思うようにしています。


理趣経を読んで思いました。

今私の家族も不調ではじめは私もどうにかしたい、助けたい、と思いました。

しかし、理趣経の解釈があっているかわかりませんがその不調の状態こそがバランスを取るための現象にすぎないのでそれでバランスが取れているかもしれないのです。

そう思うとあるがままでいるしかないなと思い、自分もその出来事に左右される事はないと思えるようになりました。


健康な娘だけが「正常」なのではなく不調であっても生かされている、ということはそれですでに「正常」に生を全うしているということで、周りの変化やプラスマイナスの振り幅の大きさに適応する手段なのだと思いました。


「霊」の問題は本当に難しくて、その裏に「気付き」が隠されている事が多いというか気付かせるために起きている事が殆どだと思うのです。

それは、自分にしか感じることができない事なので他人に依頼することの出来ない、誰にも立ち入れない領域なのでそういう方向に誘導したかったのでした。