二十一世紀旗手
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■001219 虚ろな日々

今日もいつものように昼過ぎに目を覚まし「またか・・」と思う。
昨日読んだはずの本の題名すら思い出せない。
無為な日々だなぁと思うが、家でじっとしていることもできずにとりあえず図書館へ向かう。
周りでは誰もが卒論、卒論言いながら走りまわり、俺の相手をしてくれる暇人は稀である。
全国紙を3時間くらいかけて全部チェックし終わる頃には夕刊が設置される。
たるい。学食に行ってコーヒー啜りながらNumberを読む。好きな女の子が通りかかるのを密かに期待しつつ。
しかしそんなときに限って120%の確率で現れるFC満寿1の芸人。こいつは髪切ったら普通になった。好きな女の子は通りかかったためしはない。
外へ。周りに誰もいないので中尾彬の物真似の練習。「中尾だよ。中尾彬がしゃべってんだよ」
図書館へ。夕刊を読む。。
で、二階へ上がり、周りの人々がレポートやら卒論やらで慌しい中、どかっと座る。
バッグから取り出すは、「政治ジャーナリズムの罪と罰」(田勢康弘著・新潮文庫)。それをひとまず机の上に置き、「燃える!お兄さん⑯~復讐のロボダックの巻」(佐藤正著・集英社)をバッグから取り出して読み出す。
みんなの目が冷たい。「卒論もやんないで・・・」
みんなには、やらなくちゃならないことがある。
それなのに、俺はどうだ。

何かに追われてないと、なんにもやんなくなる。
すべきことがない状況で本を読むモチベーションを維持するのは実は難しい。
だから誰かに指針を示してほしいのだけれど、そんな暇人もおらず、仕方がないから「燃える!お兄さん」を読んだ。
でもがんばって「政治ジャーナリズムの罪と罰」も読んだ。「連立政権」という新書も読んだ。本多勝一の文庫も一冊読んだ。この地道な抵抗が、いつか何かに繋がってほしい。

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■001206 マターリ


何かいろいろあった。
結構ダウナー気味ですな。
ま、別に忙しいというわけではないんだけど。

大学の一個下のサッカーチームであるFCマンジュが引退しましたな。
お疲れさまでした。
われわれ4年生はあんまりがっつしサポートできなかったなぁ。差し入れのビールも発泡酒だったし。その金をまだ俺は払ってないし。みんないろいろあったのですよ、この時期。ホントだよ。ヒマだったのなんて多分俺だけ。

まあ、ここでは軽ぅーくFCマンジュの思い出でも語ってみます。

基本的に俺なんかは後輩とかにちょっかい出すのが好きなので、何かと介入したがるんだけども、どういうわけかFCマンジュの連中と仲良くなったのっていうのが俺が三年生になってからなのである、実際。
それまで一緒に飲んだりとかあんまり無かった。K島とかK口とかはあったっぽいけども。俺とか、飲み会に行って会話に突入するときなんか、ちょっと心の中で「うしっ」って軽く気合を入れていた。
「こいつらとは周波数が10メガヘルツくらい違うのかもしれない」と、俺は思っていた。
よく覚えてないが、昨年の夏合宿くらいから俺はその周波数がチューニングされているのに気付いた。
飲んでて妙に居心地が良かったのである。
以来、われわれモン同とFCマンジュは良きライバルとして切磋琢磨し、俺はモン同とFCマンジュの間をちょこちょこ行ったり来たりしながら、たまにK口をおちょくったりしつつ、無事に引退。俺なんかは引退してからの方が練習出てんじゃん?ってくらいの勢いでプチFCマンジュと化し、たまには意味も無くみんなで飲んだりしてみた。
楽しかったです。非常に。そのノリがうらやましかったです。モン同のメンバーは、俺を含め、一歩引いたところで静観間してる感じだったので。でもまあ、変な言い方をすれば「サカ同は引退してから」ってのもあるし。誰が言ったかといえば、俺なんですが。これからいろいろ楽しいことあるよ、多分。後輩にちょっかい出したり。「伝説のOB」を目指したり。これで終わりじゃないと思う。
という感じで、わたくしの挨拶に代えさせていただきます。三年生お疲れさま。

映画「π」を観た。
宇宙の全ては数字によって表せると信じている天才数学者の物語で、一つの数式によって世界のすべてを解析できると思いこむ彼は、次第に株式市場の動向を予想することに取りつかれるようになっていった。市場にはあるオアターンがあり、それは数字の裏に隠されていると理論づけたのだ。株式市場は究極の数学的チャレンジであり、それは自分ならきっと解ける暗号なのだという思いにとらわれる。
全編モノクロで、かなりテンポ良く、狂ったような描写とかもかっこよくて、すごいなぁという感じはした。
でもさ、宇宙を表すという暗号を解読するスーパーコンピューターがあんなちゃちいのでは、うそ臭い感じもぬぐえません。
もしカラーだったとしたらこの作品の印象はかなり変わっていただろう。うまくモノクロの無機質な感じでごまかした感じ。
でもまぁ、好きかもしれない。脳味噌をグリグリするのとか。蟲がわさわさ発生するのとか。

最近はまたちょこちょこと本を読んでるが、阿部和重の「インディヴィジュアル・プロジェクション」が素晴らしくおもろかった。
舞台は渋谷。もとスパイ養成私塾卒業生である青年映写技師オヌマが圧縮爆破加工を施されたプルトニウムをめぐる抗争に巻き込まれるという筋。
阿部和重はこの作品で「J文学」「渋谷系文学」の旗手として広く知られるようになった(本人はそういうレッテル貼りを非常に嫌がっている)。
何か、そういう「J」シリーズとかって逆にその作家の価値を貶めているような気がしてあんま好きくないので今まで読んでなかったのだけれども、とにかく文庫で安かったので軽ーく買ってみた。
最初の一文に惹きつけられるものがない小説にロクなものはないという気がする。全ては、最初の書き出しで決まる。
この阿部和重という人の文章は書き出しが秀逸である。最初の1ページの時点で非常に良い感じである。
中原昌也という作家がいるが、読まれた方はおられるだろうか。彼の小説は徹底的に無意味である。「マリ&フィフィの虐殺ソングブック」とか。意味のないものを、これでもか!と追求しているのだが、その世界ははっきりいって異常である。意識してるのか無意識なのかは知らないけど。自分だけで閉じてしまっている世界、というか。よくもまあこんなに無意味なものを真面目な顔で書けるなぁ、しかも単行本まで出して、などと、俺などは単純に感動してしまった。
阿部和重には、そんな中原昌也風味が10%ほど入っている。微妙に。中原昌也を読むのはきつかった。が、10%中原昌也は非常に心地よい。でもまあそれは阿部和重にちゃんとしたストーリーがあるからなのかもしれないけれども。
福田和也の本を立ち読みしたら、町田康や阿部和重はデビュー作がピークであとは落ちていくだけだ、というようなことを言っていた。
そうなのだろうか?町田康の小説はほとんど読んだが、正直言ってどれが一番とかいうのはよくわかんない。どれも適当に笑えるなぁという感じで。何か、ホントにわかんない。
この福田和也っつう人はすごいよ。いろんな小説に点数を付けて、本を出しちゃたのである。

「~はおもろい」、「~はそれよりもおもろい」とかいう相対的な評価を経ながら、「~はおもろい」という絶対的な評価に行き着くことはできるのでしょうか?俺が思うに多分無理なんだけど。

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■001129 たるい。の真実

たるい。
と、毎日しつこく言ってるのは実はカモフラージュで、図書館でがっつし本を読んでいる。
「タオは笑っている」という本がおもろかった。

タオイストによれば、われわれが「自由意志」とよんでいるものはタオの一部である。「自然に対抗しようとする行動自体が自然の法則に従っているのだ」とゲーテは言っている。鈴木大拙もまた西洋人は自然を征服し支配していると思いこんでいるがじつはそれによって自然の法則にかなっていることに気付かないと書いている。

人「ではわたしの行動はすべて、自然の法則によって決定づけられているのですか」
神「決定づけられるという言葉が誤解を招いている。自由意志と決定論をめぐる論争がしばしば混乱するのはそのためだ。おまえの行動は自然の法則に従っている。しかし自然の法則に決定づけられると言うと、心理的に受ける印象が違う。つまり、人間の意志は必ずしも自然の法則と一致せず、自然の法則のほうが強力なために好むと好まざるにかかわららず人間の行動は自然の法則に決定づけられるというイメージだ。しかし実際には、人間の意志は自然の法則と対立しえない。人間も自然の法則も同一なのだから。」

神「宇宙の中のどこまでが「自分」で、どこから宇宙が始まるのだろうか。おまえが「自分」と思っているものといわゆる「自然」とは別ものだと考えているようだが、自分と自然をひとつの連続体としてみれば、おまえが自然を支配しているのか、それともおまえが自然に支配されているのかといった問題に頭を悩ますことはなくなる。そして自由意志と決定論の行き詰まった対立も解消されよう。おおざっぱに言えば、自由意志と決定論の関係は、引力で互いに引きつけられているふたつの物体に似ている。もしこれらの物体に感覚があれば、どちらも自分が引っ張っているのか相手に引っ張られているのかはっきりわからないかもしれない。引っ張る力が双方にあるとも言えるし、どちらにないとも言える。むしろ重大なのは双方の総体的な配置(コンフィギュレーション)ではなかろうか。」

老子は無為自然を説いた。
無為自然、すなわち何事にも作為を弄せず自然の道に素直に従って生きること。
しかし同時に、われわれの「作為」すなわち「自由意志」はタオの一部であり、全ては自然の法則に従っているという。
だとすれば、
どんな行為をしてもそれは自然の法則に従っていることになり、われわれは常に無為自然にあるということになるのではないだろうか?
何だか良くわからなくなってきた。

神「もちろん感覚だけではない。それ以上のものだ。でも、五感に感知されるものというよりは真実に近い。わたしは対象(オブジェクト)ではない。おまえと同じく主体(サブジェクト)だ。主体は感知されるのではなく感知するものだ。おまえの考えていることが見えないように、わたしもまた見えない。りんごは見ることができるが、おまえがりんごを目で感知しているという出来事自体は見えない。わたしは、そのりんごより、りんごの感知に近い。」

俺は宗教を信じない。
何と言うか、全然リアルじゃないのである。
非科学的なものが全然信じられなかったからである。
「なかった」と過去形で書くと今は信じていると思われるかもしれないが、今も信じているわけではない。
でもこの「感知」という言い方が非常に気に入った。
例えば、真っ暗闇の中にサッカーボールがあるとする。
当然、俺は真っ暗闇の中、何も見ることができない。
が、どうやら中にはそのボールが見えるという人もいるらしい。
俺にとっては何も見えないが、そこには何も「無い」というわけではない。
俺が見ることができないだけで。そこにはサッカーボールが「ある」し、そもそもそこには闇というものが「ある」。
だけど俺には何も見えず、そこにボールがあることなんて信じられないから、見えると言い張る人を内心馬鹿にする。
「サッカーボールなんてあるわけないじゃん!」
俺は闇の中のサッカーボールを感知することができない。
が、闇の中のサッカーボールを感知することができる人もいる。
宗教というのは感知(に近いもの)のことらしい。
サッカーボールがタオなのではなくて、あくまでも感知すること(に近い真実)がタオなのである。