ターくんです👋

六老僧一人ひとりの人生

日昭〜日持まで五老僧を一人ずつみてきましたが、
今回はその纏めとして日興上人にご登場いただきまして、このテーマの終わりとしたいと思います。

日興上人についてはご存知の方々がたくさんいるかと思うので細かい説明は割愛したいところなんですが、
「他の老僧のことばかりタラタラと説明しおってからに、ワシのことは無視するのかこの戯けが💢💢💢」なんて、
僕自身が亡くなった後に日興上人からお叱りを受けるのは勘弁していただきたいので(笑)
しっかりとやらせていただきたいと思います(^_^;)

日興上人は寛元4年3月8日(1246)
に甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(現在の山梨県南巨摩郡富士川町)で父の大井橘六と母である富士上方河合(静岡県富士宮市)の由井家の娘であった女性との間に誕生されました。

幼い時に実父の橘六が亡くなり母が武蔵国の綱島九郎太郎と再婚したため、日興上人は母方の祖父である河合入道蓮光の養子となっています。
そして初等教育を受けられるために天台寺院であった四十九院に登られますが、その他に良覚美作(りょうがくみまさか)阿闍梨の下で漢学を、また同地の地頭である冷泉中将隆茂から歌道・書道を学ばれました。

その後に同じく天台寺院であった岩本実相寺に入られて修学に励まれていましたが、その時に、立正安国論御執筆のために実相寺の経蔵で一切経を閲読されていた大聖人と出会われてとても感銘を受け、即弟子入りを願い出たといわれています。

大聖人の弟子となってからも暫くは実相寺に身を置かれて修学を継続されていましたが、
これは大聖人のご指示があってそうされていたのではないか❓
という説があります。ですが定かではありません。

その日興上人が正式に大聖人のもとへ参じたのは弘長元年の伊豆法難のときで、日興上人もお供をして大聖人の身の回りのお世話をされ、その間にも熱海の真言僧を折伏して大聖人の門下とするなど活発に動かれていました。

弘長3年に大聖人が御赦免となってからは鎌倉の松葉ヶ谷の草庵で兄弟子の日昭・日朗とともに大聖人から様々に教えを学ぶ日々を過ごされていましたが、縁故の多い富士方面での折伏弘教の活動も精力的におこない、祖父・河合入道蓮光、叔父の河合四郎光家、叔母の持妙尼とその夫・高橋六郎兵衛などが次々と大聖人の門下になります。

文永2年には、前年に亡くなった大聖人門下の南条兵衛七郎の墓参のために大聖人が駿河国上野郷を訪れるのですが、その際に富士方面に詳しい日興上人が随行され案内をされたともいわれています。

この頃に、あの身延の地頭・波木井実長を日興上人が折伏をして大聖人門下にさせたと伝えられているのですが、
宗門の碩学といわれた堀日亨上人の説では文永6年とされています。

そして文永7年には、前回ご紹介した日持を大聖人門下に加え、翌年文永8年に大聖人が佐渡配流となったときには何人かの弟子を連れて佐渡へと赴き、
文永11年のご赦免まで大聖人に給仕しました。
佐渡の中心門下であった阿仏房とその一族は大聖人滅後も日興上人に従ってますし、他の佐渡の門下の殆ども日興上人に付き従ってますね。

大聖人は厳寒の佐渡で人本尊開顕の書『開目抄』と、法本尊開顕の書『観心本尊抄』を著されているわけですが、日興上人はお側で大聖人の新たな教えを吸収し、末法の御本仏としての大聖人のそのお姿にきっと胸を打たれたことでしょう。

弘安元年には『御義口伝』を執筆されて大聖人から御印可をいただきました。
ところで、
この御義口伝の正式名は就註法華経御義口伝 (しゅうちゅうほけきょうおんぎくでん)というんだそうです😳

また別名として御義口伝抄(おんぎくでんしょう)註経御義口伝抄 (ちゅうきょうおんぎくでんしょう)ともいうのだそうで、
ずっと御義口伝で認識してましたから今回勉強するまで僕なんかは知りませんでした😂

まあ、僕の素養の無さはどうでも良いことなので先に進みましょう(笑)

御義口伝を執筆された頃には、熱原の法難が段々と熾烈を極めていきます。
四十九院や実相寺、そして竜泉寺に対して勢いよく弘教を展開されていた日興上人の影響によりその寺々の僧侶たちやまわりの住民たちも次々に大聖人門下となっていきますが、
やがて寺々の院主やら坊さんらが結託して大聖人門下となった人々の追放を開始していく。
日興上人一同はそれに臆することなく連名で『四十九院申状』を幕府に提出して敢然と戦われていきます。

農民である門下にも「日蓮の教えを捨てよ❗❗」と侍所の平頼綱が脅迫をしますが、
熱原の神四郎、弥五郎、弥六郎の兄弟らは
最後まで屈しなかったために頼綱は尋問をとりやめてこの三兄弟を斬首に、、、

この法難は一応は熱原三兄弟の殉教をもって落ち着くわけですが、天台宗からの迫害が執拗に続いたようで、とうとう日興上人も富士方面に留まることが難しくなり、身延や遠州袋田の新池家に避難することになってしまいます。

弘安5年9月8日、体調を崩されていた大聖人は療養のために身延を出発されて常陸国(茨城県)の温泉へと向かわれます。
日興上人も随行しますが、17日頃には大聖人のお体の具合が常陸国へ行くのを許さない状況となり、18日に武蔵国荏原郡(現在の大田区)の池上宗仲邸に入られます。

波木井実長に大聖人はお手紙を書こうとされますがあまりの衰弱で書けず、日興上人に筆録を頼まれます(波木井殿御報)。
10月8日に日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の6人を本弟子と定め、13日に大聖人は御入滅をされました。

14日の御葬送では日興上人は前陣を歩かれ、16日にはその御葬儀の内容を詳細に記した『宗祖御遷化記録』(国重要文化財)を書かれています。

身延での輪番守護と波木井実長の謗法行為、そして身延離山と、その後は皆さんがご承知の通りですので敢えて書きませんが、
やはりその後の一番の問題は、どうして日興上人と五老僧の教義理解が大きく相違しているのか🤔
このことに尽きるのではないでしょうか。

大聖人は御入滅に先立って二箇の相承書といわれる『身延相承書』と『池上相承書』を日興上人に与えたとされていますが、
この二箇相承は日興上人の門流以外では偽書扱いされているんですね。
その理由は、本弟子不次第のことと矛盾するだとか、「此状六人面々可帯云云」といって六老僧一人ひとりに携帯させたのがおかしかろうとか、とにかく御遷化記録と比べてみておかしいと否定派の人達は言っているわけですね。

ですが、否定派も肯定派も共に考えなければならないことは、どうして日興上人と五老僧の教義理解が大きく相違しているのか❓ということでしょう。

御本尊書写にしても日興上人と五老僧ではとんでもなく相違しています。
日昭や日朗は首題の下に「日昭」「日朗」と自身の名前を記している、、、

日興上人は遷化されるまでに300体ほどの御本尊を書写されているわけですが、その御本尊の中に「南無妙法蓮華経 日興」などと記された御本尊は一体もありません。
日興上人はそれほどまでに厳格なお方だったんですね。

仮に否定派の人達が主張するように二箇の相承書が偽書であったとしても、何らかの相伝が大聖人から日興上人へあったのではないかということを否定派の人達も考えるべきではないかと思います。

また肯定派も偽書だの何だのと言われたところで狼狽える必要などないんです。
二箇の相承書と血脈は厳密には別ものなのですから。

さて、身延離山後、日興上人は暫く幼少の頃に過ごされた河合家に滞在されていましたが、上野郷の地頭・南条時光の要請を受けられて南条家に入られます。そして時光の姉が嫁いでいた伊豆の新田家などからの援助もあって富士の地に大石寺を建立し、ここを新たな拠点とされて門下の育成と弘教に務めていかれます。

日興上人は師匠・日蓮大聖人に倣われて、日目・日華・日秀・日禅・日仙・日乗という方々を本弟子6人として定められ、
永仁6年53歳の時に法を日目上人に付属して大石寺を日目上人に任せられました。

ご自身は重須に移動されて御影堂と垂迹堂を建立し、大聖人著述の講義をされながら過ごされ、文保元年には叡山から戻った日順を学頭に任命して、さらなる門下の育成に全力を注がれていきます。

元弘2年には大石寺を正式に日目上人に譲られ『日興跡条条事』を日目上人に授与。元弘3年『日興遺誡置文』を著して門下一同に与えられて未来の指針を示され、正慶2年1月23日88歳で遷化されました。

翌日に葬儀が執り行われ、
弟子の日郷が『日興上人御遷化次第』として記録し、こんにちまで伝えられています。

日興上人と五老僧との違いは、どこまでも妥協を許さず、厳格に師匠・日蓮大聖人の教えを守り、そして弟子にも伝えていったというところでしょう。

そして日興上人のその厳格な姿勢は書写された御本尊に全て現れているのではないかと思います。

御筆止めの御本尊というのが残されていますが、御本尊のお文字が痩せて弱くなられるまで御本尊書写に生涯を捧げられた日興上人です。

大聖人から仏法の全てを託されたという証がこういうお姿の中に秘められているのではないかと僕はあらためて確信するのですが、皆さんはどうお考えになられるでしょうか😌

長くなりましたが、
最後までご覧いただきありがとうございました☺️

それではまた👋