Sランク 捕手
国内新人選手Sランク捕手リスト
出身地 中国・四国
成長 普通
持続 普通
初期値評価

捕手能力は高卒でありながら素晴らしいものを持っている。一年目からレギュラーにしてもかまわない。それでも留学込みの方が良いだろうが
全盛期評価

打撃は普通だが選球眼がBなのでHRなどは意外と稼げるだろう。走塁はとても褒められたものではないが守備に関しては完璧の一言。敵チーム補正があれば4年目にでもなればリードと肩両方がSになるというチートぶりで大活躍。捕球力なんて正直どうでもいい。捕手としての完成度もさることながら打撃能力もいいので作中では最高レベルの選手と言える。
成長遍歴【初期値→スタメン定着→全盛期→衰えピーク】

19歳 20歳
31歳 36歳
ゲーム中の成績【特筆すべき成績と通算成績など】

私的評価【野手】
打撃 C 打撃が貧弱なチームなら4番が晴れる程度には
守備 S 捕手に必要なものが全て揃っている
走塁 D かけらも期待できない
コスパ D 攻守のみの選手だが高騰しがち
即戦力 A 守備の完成度はかなり早い。スタメンで育てよう
活躍期間 B 完成が早いので12年くらいは見れるか
総合評価 A
何といっても捕手守備能力の完成が早いのが素晴らしい。それだけでも一定以上評価を上げられる。走塁には期待できないが攻撃能力にも優れているので貢献度はかなり高い。シーズン記録を更新するほどではないが十分優秀と言える選手である。発掘出来たら是非とも逆指名させておきたい選手である。
この選手について
1971年近鉄にドラフト2位で指名される。1973年の8月にはもう正捕手として起用される。1974年も続いて開幕マスクをかぶるが打撃面での不調が続き有田修三に正捕手をいったん譲る。その後代名詞にもなる「コンニャク打法」を開発。打撃の才能が開花し勝負強いを発揮した。この時の有田共にダブルキャッチャーとして併用されたがどちらも捕手としての能力は素晴らしく、どちらも「よそに行けば正捕手」と言われるほどの能力を誇っていた。
梨田は特にその強肩が優秀で当時の球界でも随一だった。しかし当時のパリーグには福本豊がおりそれで各チームは頭を悩ませた。野村克也はクイックモーションの開発などでそれを封じようとしたが、梨田は投げるモーションを可能な限り省略するなど技術面での工夫を行った結果、福本がいたパリーグとしては異常な5割越えの盗塁阻止率を記録した。
1979
Sランク 捕手
国内新人選手Sランク捕手リスト
出身地 中国・四国
成長 普通
持続 普通
初期値評価

捕手能力は高卒でありながら素晴らしいものを持っている。一年目からレギュラーにしてもかまわない。それでも留学込みの方が良いだろうが
全盛期評価

打撃は普通だが選球眼がBなのでHRなどは意外と稼げるだろう。走塁はとても褒められたものではないが守備に関しては完璧の一言。敵チーム補正があれば4年目にでもなればリードと肩両方がSになるというチートぶりで大活躍。捕球力なんて正直どうでもいい。捕手としての完成度もさることながら打撃能力もいいので作中では最高レベルの選手と言える。
成長遍歴【初期値→スタメン定着→全盛期→衰えピーク】

19歳 20歳
31歳 36歳
ゲーム中の成績【特筆すべき成績と通算成績など】

私的評価【野手】
打撃 C 打撃が貧弱なチームなら4番が晴れる程度には
守備 S 捕手に必要なものが全て揃っている
走塁 D かけらも期待できない
コスパ D 攻守のみの選手だが高騰しがち
即戦力 A 守備の完成度はかなり早い。スタメンで育てよう
活躍期間 B 完成が早いので12年くらいは見れるか
総合評価 A
何といっても捕手守備能力の完成が早いのが素晴らしい。それだけでも一定以上評価を上げられる。走塁には期待できないが攻撃能力にも優れているので貢献度はかなり高い。シーズン記録を更新するほどではないが十分優秀と言える選手である。発掘出来たら是非とも逆指名させておきたい選手である。
この選手について
1971年近鉄にドラフト2位で指名される。1973年の8月にはもう正捕手として起用される。1974年も続いて開幕マスクをかぶるが打撃面での不調が続き有田修三に正捕手をいったん譲る。その後代名詞にもなる「コンニャク打法」を開発。打撃の才能が開花し勝負強いを発揮した。この時の有田共にダブルキャッチャーとして併用されたがどちらも捕手としての能力は素晴らしく、どちらも「よそに行けば正捕手」と言われるほどの能力を誇っていた。
梨田は特にその強肩が優秀で当時の球界でも随一だった。しかし当時のパリーグには福本豊がおりそれで各チームは頭を悩ませた。野村克也はクイックモーションの開発などでそれを封じようとしたが、梨田は投げるモーションを可能な限り省略するなど技術面での工夫を行った結果、福本がいたパリーグとしては異常な5割越えの盗塁阻止率を記録した。
1979年には近鉄優勝に貢献。健闘したものの日本一にはなれなかった。
その後も100試合近い試合数を毎年こなしていったが1989年以降はレギュラーを後輩たちに譲ることになり1987年には一度引退も考えたが仰木彬監督に慰留され現役続行。
これが翌年の「10.19」でのあの活躍につながった。
引退後は様々な球団で監督を歴任しその手腕から名称と言われる。特に近鉄と日本ハムの監督時代は優勝を果たしており、NPB史上唯一「近鉄バファローズで選手、監督で優勝を経験した人物」という記録を持つ。
2015年から2018年の間東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めたが晩年はその采配もうまくいかず退任。その経緯に若干の批判が集まったりした。
そして2020年、コロナウイルスにり患してしまい一度は生死の境をさまようものの無事生還。後遺症も特になく解説者復帰を目指している。
球界でも屈指の野球人でありコロナウイルスにも負けなかった、まだまだ70歳にもなっていない。是非とも様々な媒体で技術や野球論を語ってほしい人物である。
