ここまで、益体のない回想をだらだらと書いてきたが、そろそろ終章である。

初めに書いたように、強迫性障害について何か社会的に貢献したり、誰かの力になったりするつもりはない。が、何年もこの病気と付き合い続けたことで、多少なりとも良くなってきたところがあるし、病気と付き合うコツのようなものも掴んだ気がしているので、それを書いていきたいと思う。


無論、私はまだ完治していないし、我流も我流、あくまで参考程度に受け取ってもらえるとよい。

まともに病院に通い、まともに治すのが一番良いということは、念頭に置いてほしい。


さて、学生時代から働き出してしばらく、ずるずると胸中に毒虫を養い続けてきたわけだが、転機が訪れたのは転職して飲食業に就いてからだ。

横浜駅近くのカフェに勤めたのだが、とにかく忙しかった。特にピークタイムは次から次に注文が入り、タスクが増大していくので病気がどうとか考えている暇がなかったし、儀式行為なぞやっている余裕はなかった。不安が起こっても、ぶっちぎって作業する必要があった。

気がつくと、病気を忘れて作業に没頭する時間が増えていった。


以前通った病院で、刑務所に入れば(儀式行為なんてやっている暇がないので)病気は治る、というようなことを言われたが、合点がいった。不安が起ころうが、虚無ろうが、とにかく動いてぶっちぎる、これが大事。


あと、不安の捉え方についてこの頃発案したのが、「全部病気のせい」という考え方だ。

それまでの私は、ひとつひとつの不安についてそれが正当なものなのか、それとも病気によるものなのかその都度考えて考えて結論を出し、病気によるものと考えられるならば自分にそう言い聞かせて儀式を我慢(あるいは先延ばし)することにしていた。


しかし、そのためには落ち着いてよくよく考える時間が必要で、結論が出てからも不安をやり過ごすまでにさらに時間がかかっていた。不安が正当かどうか精査する時間がすでに病気の影響であるし、そもそも不安が起こるということ自体が病気の症状であると考えた。

だから、不安が起こっても「全部病気のせい」と考えて基本やり過ごすことにしている。

なかなか消えず、胸にしばらく居座る不安に対しては、「全部病気、全部病気」と口や心で唱えることで自分に言い聞かせている。

ここでも、以前精神科の先生が言っていたこと(先生は聖書箇所を唱えて不安をやり過ごしたらしい)を結局実践している格好だ。


だから、あながちあの先生はばかにできないと今思っている。