安倍元首相銃撃事件の背景構造の解明

安倍元首相銃撃事件の背景構造の解明

世界平和統一家庭連合の会員が安倍元総理の銃撃事件の背景となった構造を連載形式でぼやく。不逞教会員問題が解決するまで、今までの記事は不開示とします。お騒がせして申し訳ありません

間が空いてすまないな。

 

件の人物は相変わらずだ。で、うちの教会員たちも相変わらずだ。

 

まったく、溜息しか出ないが。

 

衆院3補選は、立憲共産党の圧勝だ。

当然、逆流の流れは加速するだろうな。

そういう時にこういう問題が起きるとは・・・

 

それにしても不思議だ。何故、うちの教会、教会員たちは是々非々で動けないのか?

 

ああいうことをやらかして、誤魔化してなぁなぁで不問にするということは絶対あってはならない、ということが判らない・・・。

 

うちらは、今、うちらに対する拉致監禁という犯罪を断罪している。

 

しかし、公開の場でうちらの目の前で行われた犯罪行為を、うちらの仲間だから、大きな問題でないからと不問にし、見て見ぬふりをする・・・・

 

そういうことをやって、誰が、うちらの訴えに耳を傾ける?

 

今までそういうことをやってきたからこそ、拉致監禁をしなければならなかったのだろう、家庭連合の解散は妥当だと、多くの人が思うだろう。

 

ましてや、神がそれを見て善しとするか?

 

絶対Noだ。

 

これは、言葉では神を信じると言いながら、神を信じていない行動となる。

 

神にとり、今のうちらの姿はあるまじき姿だ。

 

そういうわけで、今のシリーズの間に挟むと言っていたが、うちの教会員の参考になればと、少し前倒して前に書いたものを読んで貰いたい。

 

これは、2008年当時書いたものだな。多少、校正しているが。

 

「み言に見る完成のための内的・外的姿勢とその道筋」の前に書いたもので、あれよりも長い。

 

まぁ、できればゆっくり読んでみてくれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同時性について書こうと思っていますが、資料・文献を揃える暇がなかなかありません。
記憶だけに頼って書くのも(固有名詞類は大幅に忘れているし(笑)・・・年ですねぇ)危険ですし((何せ・・・・新説(珍説・奇設?)ですから(笑))、準備が済むまで、このまま、つらつらと思うことを書いていこうかと思っています。

最近思うことは、統一食口に限らず、信仰と救いというものの本質をほとんどの人が間違って解釈して居るのではないかと言うことです。

信仰とは何かというと、素朴に考えれば、ある一定の教えを学ぶことによりその指し示すものを信じるとか、信仰の対象の人物なら人物の業績・行い・奇跡的な事柄を信じるとか、まぁそういう事な訳です。

 

そうすることによって、ある一定の救い的内容の恩恵を受け(様々なレベルの恩恵なんでしょうが)幸福を増進させると言うことに他ならないわけだと思います。


しかしながら、様々な人の意見を聞いていると、多くは

 

“信仰=宗教団体に所属する”

 

であり

 

“宗教団体に所属する=究極的救いの恩寵の受益の権利の確保”

 

となっているのではないかと言うことです。まぁ、現在の日本の状況を見ると既成の仏教や神道などは、そういうところは薄まってきている、もしくは無いと言っても良い信仰もありますが、逆にそういうところは求心力がほとんど衰えてきているように思えます。

素朴に考えれば、信仰を持つことと宗教団体に所属することは別物であり、因果関係はあっても、イコールではないわけです。

 

また、信仰と救いも因果関係はあるもののイコールではありません。

 

また、

 

”信仰を持つから宗教団体に所属する”

 

は因果関係にあり、

 

”信仰を持つから救われる”

 

は因果関係にあるのですが、宗教団体に所属することと救いは本質的な意味合いで、無関係です。

何故、こういう混同が起きているのかというと、私は救いというものの観点が大きくずれている事と信仰を持つ人のアイデンティティーの確立が未熟であるためではないかと考えています。

救いとは何か、かなり定義が曖昧です。

というのも人が求める救いが様々だからだろうと思います。

 

例えば稲荷信仰に見られる商売繁盛や太宰府の学問成就などの現世利益の信仰も現世的救いだし(尤も、こういう例ではあまり教団などはありませんので、これらの信仰は先ほどの混同現象は殆ど見られませんが)、

 

悟りを開いて心の迷いを開き彼岸に赴くといったものは、精神的救い・霊的な救いな訳です。


問題となるのは、強固な教団などをもつ宗教となるわけですが、教団をもつ宗教の特性としては、現世利益的側面も持つものも多く見受けられますが、多かれ少なかれ精神的・霊性的側面も持つところが多いと言っていいでしょう。

物質的・現世的な救いと言うのは少々レベルが違う話になりますので議論からはずします。
それでは、精神的・霊性的救いの本質とは何か?

それは、人によって多少の変動はあるとしても、要約すると自らの内の執着や争う心などが無くなることによって、精神的・霊性的な安寧等を確立させることによって、現世的幸福感の増進、もしくは、来世的な世界において不幸がない世界に行く、もしくはその権利を持つ・・・とでもなりましょうか。

食口的に言ったら堕落性を脱ぎ人格を完成させ天国に行く・・・といったところでしょうか。

統一原理からすると堕落性を脱ぎ・人格を完成させ・家庭を完成させ・心情圏を完成して霊界に行くとなります。

 

霊界トークでよく言われる功労・・・とかは本質的には論理的に無関係です。天国とは霊界のある一定の固有場所のことをいうのではなく、天国を作ることができる人物達が社会を形成する場所の事を言うわけで、人格・心情圏のみが天国を作る(入れるではありません)条件であるわけです。

尤も、霊界通信とかでは・・色々では階層に分かれているとか、天国の門とか・・・天国とは何か霊界の具体的な場所を指しているような表現が多々あるのですが、理論的には人間が堕落して、堕落した人間が霊界に行き、自分にあった基準の者達が集まって地獄が現出したわけで、境界が設けられているなら、地獄というものを囲った形であるというのが正しい認識でしょう。

 

従って、地獄というのは霊界のある特定の地域を指している可能性はあるのですが、天国というのは地獄以外の不特定地域な訳で、天国が霊界の特定地域をさすと理解するのは間違いだと思われます。


で、霊界話をややこしくしているのは功労話なわけです。功労があれば天国に行ける・・・・的な発想ですね。これは統一原理からすれば、理論的に明確に間違っています。人格・心情圏を完成していない人間が天国に行っても・・・そこが地獄に変化するだけの話です。


功労とは、要は 人格形成や心情圏完成を邪魔している要因を神様が特別な権限でもって、蕩減してくださり、取り除いてくださるとかの条件と言うだけであって、

 

功労があろうがなかろうが、天国に入るためには、天国を作ることが出来る人間でなければどう逆立ちしても無理と言うことになります。

私としては、多くの人が救いに対する観点が大きく外れている現状では、功労話を強調することは危険だと思うのですが・・・。



話を戻しますが、救いに対する観点がずれていると書きましたが、それではどこがどうずれているか?

それは、先に書いた「功労話」や「救われる」と表現に見られる、救いと言うものが・・・・自らの外側からもたらされてくるという発想です。



救いというものの本質に、きわめて肉薄しているのは、実はキリスト教ではないと考えています。イエス様は教えられていますが、キリスト教に救いの本質を突く教義は残念ながら無いように思います。


私が思うに、この救いの本質に肉薄しているのは浄土真宗・・・・というか親鸞上人であり、救いの観点と言う一点だけ捕らえれば、親鸞上人はキリスト教を凌駕していると思います。

こう書くと、多くの食口から、親鸞上人こそ他力本願、念仏仏教の始祖、念仏さえ唱えれば誰かが救ってくれるという思想の提唱者、しかも厳しい求道の道に負けて妻帯を・・・しかも2回行ったと破戒者・・・・馬鹿にしたような声が聞こえてきそうですが・・・そういう人達は、表面上の言葉尻や行動で批評をする愚か者だと思います。


親鸞上人は救いというものを一生涯を通して求道した先覚者です。この一点に集中し求道した結果、キリスト教よりもイエス様の教えに肉薄することになった稀有の人物です。

 

難解な仏教教理を捨て、救いというものの本質を追い求め、その結果、法然上人にたどり着き、更に追い越していきました。
その教えの根幹が、”善人なほもて往生す、いわんや悪人をや”という悪人正機説と絶対他力という思想です。

 

実際は、法然上人も悪人正機説を説いていますが、法然上人の場合自力信仰の影を色濃く引きずっています。弥陀の本願は悪人を救うことにあるから、悪人だといってあきらめることはない。正しい行いを行いなさい。これが法然の思想です。


これは、この上もなく正しいことのようで居て、実は落とし罠があります。正しいことと判断するのは誰か?

 

それは自分・・・平易な言い方をすれば、我の部分です。

 

統一食口向けにいうならば、堕落性がくっついて、知的に混沌としている自分が判断していると言えましょう。正しいと事をしているつもりが悪しきことをしている可能性が強いのです。
これはいかにもまずいわけで、親鸞上人はこれに気付いてこれを修正しようとした結果、絶対他力という境地に入ります。


救おうとしておられる阿弥陀如来によって救われるのですが、救われたいと志向する心の動きも阿弥陀如来からの働きかけであるから、結局は全て阿弥陀如来に任せて、己という存在を捨てて、一心に阿弥陀如来を唱え、阿弥陀如来からくる心の働きに従って生き、救われましょう。


これを、統一食口向けに書き換えると、

 

良心とは自らの中の神であり、

 

自らのうちの救いを求めて善を志向する心も神によって与えられたものであり、

 

堕落性がくっついた自分の判断を捨て、ただひたすら良心の声にしたがって生活をする事によって救われるから、

 

喜びと感謝で、ただ一心に神の御名を唱え喜びの中で生きていこう・・・・という意味に変換できるでしょう。

 

 

つまり、親鸞上人の絶対他力とは、純化した自力信仰です。

 

特別な修行もいらない、

 

ただひたすら良心に従って生きる。

 

そしてその救いを、他の人にも生活を通して広げていく。

 

また、良心に従って生きるとき救いは確定し、救われる

 

・・・・これが親鸞上人の思想です。


そして、この思想を具現化するためにあえて、妻帯していきます。

親鸞上人は、日本が世界に誇れる宗教家です。救いの本質について、ここまで迫った宗教家は、イエス様とお父様以外は絶無じゃないかという気がします。




救いの本質・・・・という言葉を連発させています。
しかし、食口の方にはその一方で祝福のことに触れていない事を奇異に思われているかもしれません。

クリスチャンが十字架の贖罪について触れてないようなものです。

しかし、祝福とは救いのためのとてつもない恩恵ではありますが、救いそのものではないのです。


(・・・という表現は語弊があるかもしれませんが・・・・祝福の意義を貶めるつもりは毛頭ありませんが・・・・祝福=天国の切符・・・祝福の子女=全自動的型完成人間する子女・・・・的な発想があまりにも多いので多少ショッキングな書き方にしています。二世の情況を嘆いている方・・・一世の情況を憂いてください。一世の信仰の曲がりが二世に影響しているのです。)

 



救いとは何か・・・・本来ありうべきものが失われた情況が、回復し、失われなかった情況になることです。

それでは堕落によって失われたのは何でしょうか?
良心に従って生きる(神の声に従って生きる)ということが失われました。

堕落によって、人は二つのものを得ました。原罪と堕落性本性です。

原罪は自分外部から、良心の声(神の声)に従わないで生きるように働きかけることが出来る条件です。
堕落性本性とは、自らの内部に良心の声(神の声)とは逆の声を発生せしめる性質です。

この二つが内外で授受することにより、良心に従って生きることが出来なくなっていると考えることができます。

逆に言えば、良心に従って生きることが出来る事こそが救いということが判ります。

祝福とは、堕落人間が消して単独では超えることが出来ない、原罪の蕩減であり、とてつもない恩恵ですが、祝福単独では・・・・救いは完成できないのです。

御父母様は救い主です。救いにおいて主体者です。これは堕落人間がけして超えることが出来ない、救いの一つの契機をもたらして下さる方であり、完成人間としての範を示してくださっているいう意味でも、この表現は真です。

しかし、私はここで別の真を提示します。

私の救いの主体者は私です。

良心の声に従って生きる事を決めるのは誰でしょうか?

他の誰でもない、自分しか居ません。

良心の声に従うか、従わないか・・・・これは自分で決定するしかないのです。
ですから、個人の救いという観点で個人の立場に立てば、本当の救い主とは自分自身であると見ることができます。

”神は自らを救うものを救う”


今まで話した内容を総合的に考えれば、救いとは実は外からもたらされるものではなく、自らの内から来るものであり、それを外側に敷衍する事によって、外的情況が善化され真の救いに至っていくことを指していることが判ります。

従って、善を志向する良心に従って生きようとすること自体が、ある一定の救いであると見ることができます。

まさしく、親鸞上人の救済観は救いの本質を射抜いているわけです。しかも、親鸞上人の思想の凄いところは、絶対他力・・・・まで至っていることです。

絶対他力という・・・思想については前に説明いたしました通り、実は他力ではなく純化された自力信仰です。食口向けに、もっと判りやすくいえば、原罪による霊的外部からの働きかけによる悪想念や堕落性本性による心の働きの完全否定です。

”何の教えもいらない。何の修行もいらない。ただひたすら、阿弥陀如来からくる良心によって生きよ”これが親鸞上人の絶対他力思想の本当の主張です。

血を吐くような主張です。

よくまぁ、神を知らず、イエス様も知らずお父様も知らず、原罪も知らず、この結論に至るとは・・・・親鸞上人の生涯は、内的・霊的にどれほどの地獄を通過したのかと・・・・頭をたれざるを得ません。親鸞聖人・・・称されるのも肯けます。

その親鸞上人も、越えれなかった壁があります。
親鸞上人も気づいてはいただろうと思います。一生涯通して、親鸞上人は悪人意識を持ち続け、また、自らの事を”愚僧”と呼び続けました。

親鸞上人がいう悪人という言葉は、どういうことかと言うと、自分が悪人であるという自覚を持つ人の事を指します。

 

親鸞上人の悪人正機説の悪人も同じ意味です。

 

法然上人の悪人は文字通り一般的な意味合いでの悪人なわけですが、親鸞上人の場合は、悪人とは悪想念が次から次に湧き、自分自身がどうにも救われがたき存在であるということを自覚している人の事を指しています。


阿弥陀如来に一心に心傾け、良心に従って生きようとしているのに、悪しき思いが湧いて出る・・・・ああ、本当に私は悪人である・・・・と自らを悪人と言い続けたのです。

また、愚僧とは自らでは本当に良いことをしているか悪いことをしているのか判断できない、そういった意味で自らを呼び続けられたと思うのです。

しかしながら、親鸞上人は仏教徒です。神を知りませんでした。原罪を知りませんでした。救済者の必要は知っても、メシアの必要性はわかりませんでした。原罪と堕落性本性については、漠然と判っていても、それが思想として発露するまでには至りませんでした。

我々は、本当に幸福な時代を生きているのです。

先に生きた先覚者たちが、一生涯を掛けて追い求めたものが目の前にあるのですから。

御言が何を言っているのか・・・・食口はちゃんと、きちんと理解しないと・・・・そう思います。




自分の書いたもの読み返し・・・・何とまぁ誤字やら何やら・・・多いことか(笑)。

少し校正したほうが良いのですが・・・・。

読みにくいことをお詫びしておきます。


救いとは、自らの内から来る・・・・・ということを話しました。これは一つの真ですが、他にも真があります。

救いは神から来る。
救いはメシアから来る。
救いは人間関係から来る(アベルから来る、カインから来る、相対者から来る、子供から来るetc)。

これらは全部真です。

しかし、こと救済の摂理の完成を目指すに当たって、何よりも自覚する必要があるのは、救いとは自らの内から来るものであると言う自覚であると思います。


外から来るものでなく、内から来るのであるという意識がなければ、功労話に踊らされたりなどして、実際は人格・心情圏の完成はなおざりにして、矢鱈堕落性のくっついた自分自身で善を判断し、独善と偽善で突っ走る危険性が高いのです。

霊石の販売等の最大の問題点はそこです。霊石の販売(販売というと普通の商取引みたいで、事の本質を見失った表現でいやなのですが、他に良い表現法がないので・・・・)は良いか悪いかと言うと、良いことです。また、やめるべきではありませんでした。

ただ、携わった人間が間違ったのです。何故なら、良心によって行動していないからです。


お父様の摂理を支える・・・・という観点で・・・とにかく金を出させることが善であるはずだと・・・・・堕落性のくっついた自分で判断し、”人間的になるな。天的になれと。”と良心を欺き、トーク・トーク・プッシュ・プッシュ・・・・・・、そして、お金を出させることだけで、神様が喜び、お父様が喜び、その人も救いの何がしかにありつけて、自らも実績によって救われるはずだ・・・・・・馬鹿げています。


神様も、お父様も、せっかく出していただいた条件だから黙って受け取られるでしょう。ゲストも条件がたっていますから、何らかの蕩減がなされるでしょう・・・・・しかし・・・・トーカーは?

 

堕落性のくっついた自分が頭で考えて、善であるはずだと、他のことは何も考えずに話した人間は???

 

良心を裏切ってトークした場合は????
罪を犯していることになりませんでしょうか?

万物復帰は、象徴伝道です。ゲストを愛し、救いたいと言う動機がいの一番でなければなりません。霊石とお金の授受は、私とゲストの愛の授受の象徴でなければならないのです。

金金金・・・・ギブミーマネー・・・・・・これが本当に天の願う道でしょうか?

良心の声をもっと謙虚に聞くべきです。

お父様の摂理を支えるためであっても、良心の声を無視し、心情を無視し、道を歩いてはいけないのです。

 

”緊急事態”・・・・良心の声を封じ込めるために使われることもしばしばです。

 

”緊急事態”という言葉によって、良心に背くことを行えば、更に酷い緊急事態になります。そしてあなたは、救われません。

 

自らの内からの救いに背を向けるからです。

食口の方はよくよく考えて欲しいと思います。

自らの内から来る救いと言うこと強調しすぎたように思えて、人間関係から来る救いと言うことを補足説明しよう・・・・と思っていたものが脇道に行ってしました。
尤も、結局は同じ話しなんですが(笑)。

人間は人間関係の中で存在すると言う存在であり、堕落はこの正常な人間関係が失われたことも意味しますから、人間関係の観点からすれば、人間関係の正常化と言うことが救いであるわけです。


この正常化という道のりが、伝道であり、アベルカインであり・夫婦生活であり、家庭生活です。
従って、救いと言うものは人間関係によってもたらされるものでもあります。

従って、”良心に従って生活する”は”人間関係の正常化”するに繋がっており・・・・というより同義であり、”救いとは自らの内から来るもの”と”救いとは人間関係から来るもの”は共に真ということができます。

さて、良心によって生きることこそ救いであり、救いは自らの内から来るということを話しました。

しかしながら、一方で堕落によって自分自身では本当の良心の声がわからない状態である事もお話ししました。こういう状態であるため、良心によって生きるための補助システムとして、宗教というものが与えられたというのが私達の考えです。

宗教を信仰し、その教えを守れば良心の声に従っていることとなるように・・・。

しかしながら、宗教も数多くの間違いをくっつけています。更に悪いことは、教えを受け取る側が間違って受け止め、間違いをなすことも多いのです。


この情況を憂いた親鸞上人は、極論すれば、宗教すら否定してしまったわけです。阿弥陀如来から来る良心のみを信じろと(ですので、いい意味でありますが、浄土真宗は宗教を否定した宗教であり、強烈な自力信仰です)。

ですが、善悪の基準が自分では判らなくなっている為、その補助システムとして宗教があるわけなのに、これを否定してしまっては、目安がなくなるわけで、親鸞上人の生涯を見ると、この思想に行き着いて逆に行き惑ったように見受けられます。

阿弥陀如来から来る心・・・・・・・これを定義できていなかったのです。

統一食口は幸いです。ちゃんと見分けられる規準を与えられています。

良心の声の見分け方は・・・・・”為に生きる” これに合っている心なのか、これにあっている行動なのか・・・・。

もう少し、突っ込んで言うと、愛において正しい事か?と言うことです。

霊石の販売の問題が一番端的ですの、霊石の販売の問題を取り上げましょう。

とにもかくにも、神様を愛し、お父様を愛し、もうお父様の摂理を支えたくて支えたくて仕方がないトーカーが居たとしましょう。

 

また、霊石を買っていただければ、それがお父様の摂理を支える功績となり、ゲストの救いに繋がると真実信じてはいます。

 

しかし、お父様を愛するあまりにゲストのことを思わず、ひたすらお父様を支えるためにゲストにプッシュして霊石を買っていただいたとしましょう。

さてこの場合、法に触れるでしょうか?良心の声に従った心と行動でしょうか?



答えは、法に触れます。地法には触れなくても天法に触れます。天法において明確な詐欺罪であり、良心にもとる行動です。

万物復帰は象徴伝道である前に書きました。

霊石とお金の授受は、愛の授受の象徴であると書きました。買っていただくということは、主体側が愛してその返しとしての愛をいただくと言うことであり、このケースは真実愛しても居ないのに、愛したふりをして、返しの愛を掠め取っているわけです。


その他の要素がすべて真であったとしても、天法において問題となるのは、心情だけなのです。
良心は、愛しても居ないのに多額の献金をプッシュしてまで勧めることに抵抗したはずです。

”人間的になるな。天的にになれ。”

かくして、堕落性いっぱいで、善悪が判っていない自分によって、良心の声はサタンの声と烙印を押され葬り去られます。


なんという愚かしさ。なんという信仰の曲がり。なんという傲慢さ。


見てください。天法に違反しているため、その象徴として地法によって裁かれているのです。
天で繋がれたものが地に現れているのです。

また真実、神様を愛しお父様を愛するなら、神様のゲストに対する心情を相続しなければならないはずです。ですから、例を挙げたケースの場合神を愛していない表象であり、御言を信じていない表象です。
よくよく考えるべきです。

少し長くなりましたが、愛において正しい という意味は今例示したような意味合いです。

(但し、これは一歩間違った解釈をすると、教団・教理の完全否定となってしまいます。”教団や教理はこう言っているけれど、私の良心はそれを良しとしていませんので、それを行いません。”となってしまうからです。これはこれで、教団や教理を認めている良心の声に反する行動であるわけですから、そこらは総合的に判断していくべきであるとは思っています。)

さて、救いの本質とは何か、救われるという事とはどういうことかをかなり、微に入り細に入り述べてきました。アイデンティティーの確立の問題について話していきます

 

 

 

救いの本質と言うことで話してきましたが、結局は救いと言うのは自分で自分を救わなければ、神も救うことが出来ないということが言えます。

これを理解しないで、救いとは外部から来るものであると思ってしまう事が、

 

信仰を持つこと=宗教団体に所属すること=救い(の恩寵の確保)という混同状態に陥る、

 

重要な要因の一つとなっていると思っています。

これは危険な思想です。このような思想である場合、その宗教団体が掲げる教義において明らかに間違っている行動をその宗教団体が行っても、信仰そのものが宗教団体に所属することでありますから、宗教団体の指導のまま、間違ったことを信仰においてなす・・・・・ということになっていくことが多く見受けられます。

端的な例として、キリスト教の分裂・キリスト教の異端審問・魔女狩り・十字軍戦争・宗教戦争、これらは明らかに、イエス様の思想の逆を行くものでありながら、神とイエス様の為とされ、信仰においてなされたことです。

そして、現在の統一食口にもこの混同現象が多く見受けられます。

三万双の祝福のとき、イスラムの信仰を持ったまま祝福を受けられた食口が居いることを説明していた教区長さんが、

”こうなると、もう食口と呼んでいいのか悪いのか判らない・・・云々”

と言われていたのを、

”ああ、この人は何も判っていないのだな”

と思いながら聞いていたことを思い出します。
何故、我々が統一食口と名乗っているのか?
教会に所属している者のみ食口なら、わざわざ食口という必要がないのです。
統一食口と言わず、教会員と名乗れば、他の人達に違和感を覚えられずに、ほんの多少でも異質性を和らげることになるでしょう。


救いとは、所属する団体から来るのではなく、極論すれば信仰から来るものでもないのです。

 

信仰とはあくまで、補助システムに過ぎないわけですから。

だから、私たちは食口を名乗っているのではないでしょうか?神と真の御父母様の元の兄弟姉妹と?


なんで、統一食口の名乗りに、統一教会やイスラム教・キリスト教・仏教etcが関係あるのでしょうか?

何の関係もありません。

こだわるほうがおかしいのです。

内部・外部、現役・元etc・・・・下らない括りです。そしてこの下らない括りこそ、信仰=宗教団体に所属すること=救い(の恩寵の確保)意識が生み出した幻想に過ぎません。


我々は気をつけなければなりません。実に巧妙に悪魔の思想が我々に根付いているか知らなければならないのです。
この思想一つで、人の半分が死ぬ可能性だってあるのです(事実、ドイツの宗教戦争では人口が半分減ったのです)。



良く聞かれる日本人論に、日本人はよくアイデンティティーの確立がされていないと言われます。
初出は知りませんが、この日本人論が定着したのは、発表当初大評判をとった日本人論の名著「甘えの構造」(土井健朗氏著)によってかと思います。

日本人特有の甘えという表現と諸現象を詳しく分析し、日本人の精神構造を鋭くえぐり出した名典です。そしてそれが、日本人のアイデンティティーの不足(というより、アイデンティティーへの忌避)によるものであるということを暴き出したものだったと覚えています(何せ・・・・30年以上前に読んでいますので、記憶が不確かですが)。


私も同感です。そして、良く日本のアベルカインは間違っていると言われますが、その間違いの大本にも、この日本人の特徴となっているアイデンティティーの確立不足大きく影響していると思います。

さて、アイデンティティーと英語で表現していますが、日本語では良く自己同一性と訳されます。
多くの人は ??? となられると思うのですが、もう少し突っ込んで意味を調べると


”自己が環境や時間の変化にかかわらず、連続する同一のものであること。主体性。自己同一性。”
”本人にまちがいないこと。また、身分証明。”
                   -大辞泉ー


”「あるものがそれとして存在すること」、またそうした認識をさします。「同一性」「一致」のことです。”
”アイデンティティー(identity)は、広義には、「同一性」「個性」「国・民族・組織などある特定集団への帰属意識」「特定のある人・ものであること」などの意味で用いられます。

コンピューター関係で用いられるときは、「一致」「識別」のことです。

学術用語としてのアイデンティティーの定義は、哲学分野では、「ものがそれ自身に対して同じであって、一個のものとして存在すること」です。心理学・社会学・人間学などでは、「人が時や場面を越えて一個の人格として存在し、自己を自己として確信する自我の統一を持っていること」と説明され、「本質的自己規定」をさします。”
              -三省堂ワードワイズウェッブ


・・・・・判ったような、判らないような説明です。

私の理解は、なるべく短く表現するとアイデンティティーとは自分が自分自身であるための個の確立という意味であると捉えています。

ですから、私が私であるという個は、

 

人間で日本人で統一食口である事も自分自身であることの一部であると同時に、

 

よく言われ意味での個性も自分自身である事の一部であり、

 

それらをひっくるめた意味でアイデンティティーというのは成り立つのであると理解しています。


そして、アイデンティティーの確立の主体は何かというと、個性であるわけです。
個性というのは社会や団体に従属するものではなく、また、対立するものではなく個性を主体として、互いに授受作用しながら、一個のアイデンティティーが出来るわけです。

しかしながら、日本人の場合、個性が極度に嫌われてきた訳です。そして、集団に対する帰属ではなく、集団に対しての同化が奨励される社会であったと見えるのです。

帰属と同化は同じように考える方も居られるかもしれませんが、内実は全く違います。
例えば、太平洋戦争を例に挙げると、

帰属意識を持つ人は、日本人であり日本の事を思えばこそ、国力に莫大な差があるアメリカのとの戦争に反対する

同化意識を持つ人は、日本人であり日本のことを思えばこそ、日本の敵を討つ。

と言うことになっていきます(尤も一例ですので、判断によっては逆となりうるのかもしれませんが)。

つまり、帰属意識の場合は所属する団体の意志に反対してでも、所属する団体の益を優先に考え、同化意識の場合は所属する団体の意志を優先に考えるという事になります。



帰属意識と同化意識について、これらの現れ方としての例を挙げましたが、何故こうなるかというと、アイデンティティーの問題から見て取れます。

私の考えによるアイデンティティーの定義については、先に述べていますが、私の属性の部分の日本人で統一食口という部分は、私の私たらしめている重要な部分ではありますが、全てではなく、しかも主体側にあるのではなく、対象側部分に属するものです。


つまり、所属する団体の構成分子であることを強く意識しても、自らの意志決定権を最終的に放棄していない状態が帰属意識の根底にあるわけです。個であることを放棄していないわけです。

一方、同化意識とは自分であることを所属する団体に置くわけです。つまり自分が所属する団体の一部になってしまう、個としての判断を捨て、判断を所属する団体に委ねるということになっていきます。

どちらが、正しい姿なのかは一旦置きましょう。しかしながら、現在の日本人の意識としては同化意識が殆どのように思えます。

この同化意識の例としては色々ありますが、私の周辺で特に顕著なのが元の方の発言です(こういう括りは幻想なんですが、立場を表す表現として使っていますm(__)m)。


元の方の発言の特徴に、アベルこう言われた、ああ言われた、統一教会はこう言っている、ああ言っている、という表現のオンパーレードです。そして、判で押したような反対主流意見の焼き直しのコピー発言。

おそらく、現役居られたときも同じ事ではなかったのかと推察されるのです。

アイデンティティーがしっかり確立されていれば、このような発言このような発言はあり得ません。
アイデンティティーがある人は、ある団体の一個人が発した言葉や、団体全体がそう言ったとしても、その意味しているところを咀嚼し、自らの意志で決定するわけですから、それらの発言を丸鵜呑みしないということになります。

アベルの発言=統一教会の判断=統一原理的の教え

となるところが、アイデンティティーの欠如の如実な例です。
信じる対象が、検証も何もなく一気に同列に並んでいる訳です。
 

アイデンティティーーがある人間は、最終決定権を放棄していません。

 

決定すると言うことは、良いも悪いも自らが責任を負ういうことを意味しますから、決定することには慎重になるわけです。検証を行うわけです。

アベルが言うことは統一教会の意見なのか?統一教会の意見は統一原理の教えに合致するか?

少なくとも、個人としての立場を放棄していませんので、アベルは統一教会の構成分子の一部であり、個の立場や考えもあることをわきまえていますから、アベルの発言=統一教会の判断 でないことは一目瞭然です。


もう一例、今度は、一般の人の例で、日本人のアイデンティティーのなさを露呈している例を挙げます。

TVであるミュージシャンが外国での空港での出来事を話していました。

コンサートが終わり、その方が一人で空港に赴き帰国しようとしていたことです。
トイレに行きたくなり、ギターはかさばるので人目につかないところに置きトイレに行ったそうです。帰ってきたら、ギターがなかった。
そこで、警察を呼んだのですが、事情を聞くなり、その警官から叱られたそうです。

何でそんなことをしたんだと。

そのミュージシャンは、何で俺が怒られなくちゃいけないんだと、悪いのはとったやつじゃないかと。外国というのは性質が悪いと。

それを聞いていた、外国のクリスチャンであることが有名な女性タレントが、それはね、貴方が盗まれることを誘発するような行動をとった事を怒られたの。貴方の無責任な行動が犯罪者を一人作り出したと怒られたの、と説明していました。


この話を聞きながら、つくづく日本人というのはアイデンティティーがないのだなと思って聞いていました。
アイデンティティーを持つということは、自己責任をもつということとほぼ同義です。責任というものを常に意識しなければならないのです。
だから、責任の所在に敏感です。良いも悪いも自らに帰ってきますから。

ところが、アイデンティティーがない場合、責任の所在が極めて不明瞭です。悪いことを命令されて、それ従っただけ。悪いのは上司、自分は被害者だ・・・・・日本では良くある意識です。自分は人が善人である事を前提に行動しただけ。悪いのは盗人だ。日本ではよく支持される意見です。

責任転嫁のオンパレード・・・・・・これがアイデンティティーが無いときの特徴的な行動・言動様式です。


私はよく傲慢だといわれます。この前もあるブログでそういう批判がありました。私は申し訳ないが、苦笑せざるを得ませんでした。そう思うこと自体が、その人の病理を表しているのにと。

外国人の友人にそれを話すと大笑いされます。

日本じゃそうだろうねと。おまえは日本にいれば不幸になる。おまえは日本にいるべきじゃないよと。

私は、私は少なくとも1600年は日本人である家の出のものだと言ってのけます。私は日本人であることを誇りとし、日本人であることは私のアイデンティティーだと。だから不幸になったとしても日本に生きると。

アイデンティティーがない人は、アイデンティティーがある人を傲慢と言います。しかし、外国では逆です。相応の責任を持たないのに、その立場に見せかける人のことを傲慢と言います。自己責任を認識もしないのに自己であることは傲慢であるわけです。それで日本人は傲慢だと非難されるのです。

 

 

アイデンティティーがない人の例を挙げました。
ではアイデンティティーがある人との例はというと、矢張りお父様を筆頭に歴史上の聖人義人達でしょう。

何故、お父様はこの道を行かれたのか?何故イエス様は十字架の道を行かれたのか?

強要されたからでしょうか?誰かに言われて嫌々行かれたのでしょうか?

確かに最初は啓示や知らせによりその道を指し示されたのかもしれません。

しかしながら、それを己が道と決め、断固たる決意で行かれたのではないでしょうか?

何のためでしょうか?神のため、人類のため・・・・これも理由です。しかしこれは全体目的です。では個体目的では?

己自身であるためです。

どんなに悲惨でも、どんなに過酷でも、どんなに惨めでも、だから引けない、だから妥協できない、だから負けるわけにはいかないのです。

他者の道、他者が望む道だったら誰が歩むことが出来るでしょう。

自分の道、自分が望む道だからこそ歩めるのです。

それが神に示された道でも、ただそれだけでは歩めない程の過酷な道、それを己が道、自らが望む道、己が存在を掛けた道としなくてどうして歩めるでしょう。

お父様もイエス様も最高の峠を越えるとき、神に見捨てられたのです。

 

愛するものに裏切られ、見捨てられ、万人に罵られ、嘲られ、打ち据えられながら、尤も厳しい峠を超えようとするときに神に見捨てられながら、それでも行くことが出来たのは何故か?


自分の存在証明、自分が自分であるために、神の喜びの子たる自分の道を外れる事が出来ないから行かれたのです。

 

負ければ、神の全ての努力が潰え、人の全て希望が潰える事を知り、それらの全て背負うことこそ、唯一人、この地上で真の神の子である自分の責務であり、それこそを自らのアイデンティティーとされたから、神人そして己が全存在を掛けて歩まれたのです。

さて、こうして見るとき、我々はこの道を己が道としているのでしょうか?お父様の弟子としてふさわしい存在となっていますでしょうか?
イエス様の後嗣を受け継ぐ者としてふさわしい存在になっていましょうか?

私も到底なっておりません。良心は私を激しく糾弾しています。皆さんはどうでしょうか?
しかし、自分が自分であるためには、まず自らの良心の声に耳を傾ける事が必要です。
また、この道が己の道であるためには、自らの良心が認定する道であることが必要です。
どうでしょうか?皆さんはアイデンティティーを持っていますか?この道は己の道になって居られるでしょうか?
まずは、己の良心の声に耳を傾けてください。


 

話が少し脇道にそれています。しかしながら、良い機会ですのでもう少し脇道のまま話します。

統一原理の中で最も難解な部分が自由意志の部分です。
ここの部分を本当の意味で理解している人はかなり少ないような気がします。

堕落時、堕落と堕落しないという選択肢があって、そのどちらかを選ぶ事が出来る自由があった・・・・と思いがちです。そして、堕落しない方を選ぶことが人間の責任分担だったと考えがちです。

 

ところが統一原理はそんな風には教えていません。

統一原理では、こう言っているわけです。人間に自由はあったが、堕落はその自由が拘束されることにより起こった。

で、大半の方は  ??????????   となります。

堕落時に堕落しないという自由があって、堕落するという不自由があって、そのどちらかを選択した・・・・・・・でもない・・・・自由が拘束されて堕落したのです。

実は、この部分を理解するにはアイデンティティーという観念のフィルターがないと理解できません。

つまり、アイデンティティーというフィルターを通して理解する必要があります。

 

この部分が示しているのは、アイデンティティーがある人、自分が自分自身であるための個の確立がされた人は、自分が自分自身であるため選択肢は発生しても、自分自身を否定する選択肢そのものがそもそも発生しないことを示しているのです。


尤も、アイデンティティーの外周部分、社会や団体に関するものに関してはその選択肢はあり得ますが、アイデンティティーの根幹の部分に関してです。


卑近な例ですが、謹厳実直な人の人生の選択肢において、お笑い芸人の職業を選ぶという選択肢は通常あり得ないわけです(尤も職業の選択というのはアイデンティティーの外周部になりますので、こう言う例ももしかしたらあるのかもしれませんが、外周部分でもかなり考えにくい選択肢となるわけですから、アイデンティティーの根幹である、自己と神とのつながりについての部分の選択肢はあり得ないわけです)。

これは、イエス様の路程、お父様の路程を見てもはっきり判ります。ゲッセマネの祈りで必死になって祈られたイエス様ですが、それ以降は断固たる決意で十字架の道を歩まれました。あれほど回避を願い祈られたのに、それ以降の歩みは断固としてそれ以外の選択肢を拒否されて居られます。

何故なら、自分が自分であるための道がこれ一つのみと決定された瞬間から、イエス様の選択肢から十字架の道以外の選択肢が無くなったからです。
イエス様が十字架の道を歩むことをやめる選択肢を少しでも考慮したら、復活がなったでしょうか?
自由意志によっては、自分自身でなくなる選択肢は発生しない証拠です。
お父様はなおさらそうです。

では、堕落するというアイデンティティーを破壊する選択肢は何故発生したのかというと、この自由意志が拘束されて、アイデンティティーを否定する道に強制的に目を向けさせられて発生したのだということが言えます。

堕落とは違いますが、先ほどの例で少し説明すると、お笑い芸人の息子が謹厳実直な性格をしているのに、父親からお笑い芸人の道の選択肢を強制的に押しつけられ、お笑い芸人になったような状況です。
これはこれで悲劇ではありますが、人間の堕落とはアイデンティティーの根幹の部分の否定となりました。

現在の人間存在が悲劇的存在であることがこれで判ります。




さて、アイデンティティーの話を延々してきましたが、アイデンティティーが確立した方が良いか悪いかという問題は、今までの例示でよく分かるとは思いますが、アイデンティティーの確立は人間の責務であると言っても過言ではありません。

しかしながら、日本的な感覚だとアイデンティティーの確立というものは、我の確立であり、悪いことであるという風土が強いわけです。
何でこうなっているという問題は置きましょう。
しかしながら、この風土が統一教会にも根強くはびこっているわけです。
全体意志に従わないものは、堕落性が抜けていないとされ、教会内で迫害が起きるわけです。
そして、アベルの命令は絶対不可侵の命令と化していくわけです。

しかしながら、統一原理を読み解けば読み解くほど、これは間違いだと言うことが判ります。

アベルの命令が絶対不可侵の命令と化す根拠として、よく人体構造の例や軍隊の例が出されます。しかしながら、これも詳細に見るとこの例はアベルの命令が絶対化する根拠としては違うことが判ります。


勿論、上位からの命令に従わないとなると問題ですが、人体構造から言えば脳の命令に腕が従うのは同一個体を維持しなければ、自らも死んでしまうと言う同一目的が明らかであり、例えば、自分自身で体を傷つけようとすれば、逃げようとするわけです。


(逃げようとすることが、例えば、腕なら腕・足なら足から端を発するのか、脳から端を発するかは判りませんが、脊髄反射的に回避運動をする例とかを考えれば、矢張り傷つける部位に端を発すると考えた方が合理的に思います。)

つまり、同一個体で同一目的を持っている場合でも、上位からの命令が下位の利益を考えない命令には反乱を起こしかねないということを示しています。

また、軍隊に置いて上官の命令に従わない場合は非常に問題です。しかしながら、命令にただ従う軍隊と、自分の意志で命令で従う軍隊の強さは雲泥の差があるわけです。
日本人が好きな言葉に背水の陣という言葉があります。逃れられない状況に自ら追い込み、危機を乗り切るには前に出るしかない状況に追い込む訳ですが、強制的ですが、自分の意志で命令に従う状況を作り出す為の陣と言えると思います。

こういう風に見れば、これらの例は、アベルの意志が立場によって絶対不可侵と化す根拠になり得ないことが判ります。

むしろ、アベルの立場はカインの立場の者の意志を纏める責務が、アベル側にあることを示している例となります。カインが命令に反する事の第一義的な責任はアベルにあるわけです。


つまり、アベルは愛を持ってカインを治め、屈服させる責務があると言うことです。カインを愛さず、カインが言うことを聞かないと、カインが悪い・・・・という発想は非原理です。自分がアベル云々言う前に、カインをどうやって愛するのか真剣に考える、祈る、従わない者が現れたときそのものが悪いという前に、愛が足りないと悔い改め、どう愛するか真剣に考えなければなりません。

アベルの命令に絶対従順・・・・・馬鹿言ってはいけません。

絶対従順であるべきなのは、神の愛に対してです。

アベルが神の愛を体現しているのなら、絶対従順で良いでしょう。しかし、アベルが神の愛を体現して居ますか?
食口は御言を聞き、御言に屈服し、お父様に屈服したとしても、アベルに屈服した訳ではないのです。
御言を聞き、御言に屈服し、お父様に屈服したとして、アベルに無条件に屈服しなければならない理由なんぞ無いのです。
お父様のご命令だからこそ、いやいやアベルの言うことに従っているだけの状態、これが食口の存在状態として正常なのです。

これをアベルの立場にいる人は知らなければなりません。

アベルの立場の人は、こういうカイン達を屈服させることが最大の使命であるわけです。御言を伝える、命令を伝達する事が最大の使命ではないのです。任地に赴き、まずなすべきは、カインを愛すること。会議では無いのです(だからと言って会議をするなとか、会議は重要じゃ無いという意味じゃないですので誤解されませんように、意識としてそうあるべきだという話ですので)。

カインの立場の者を呼び寄せ、面接するのではなく、一人一人訪ね歩き一人一人の事情圏を把握し、共に悩み、共に苦しみ、共に喜ぶつもりぐらいの意識が無くて、なんでカインを愛したと言えましょう。

本題からずいぶん外れました。

しかし、この問題がネックになり、アイデンティティーの話に何かしら抵抗を感じて居られる方もいるかと思って書いています。

アイデンティティーの確立は、原理用語で言えば個性完成とほぼ同じと差し支えないと思っています。

人間の第一祝福であり、人間の責務です。


但し、この事がカインの立場の人がアベルの言うことを聞かなくて良いとか、批判して良いという根拠でもないということは、理解しておいて下さい。

三度進言し、受け容れなければ、アベルの言うことを聞き、今度はあなたが内的アベルになりなさいという事は、今度はカインの立場の者が本質的なアベルとして神によって霊的に任命されたということです。
つまり、カインの立場の者が、内的アベルとして内的カイン・外的アベルを愛し屈服し伝道する義務が生じます。

つまり、先ほどの責務がカインの立場の人に来るのです。

これを言い換えると、三度目まではその部位の良心により行動して良いが、三度以上はもっと全体の良心により行動しろと言うことです。何故なら、それ以上は裁き合いや分裂行動になるからです。

お父様は本当にすばらしい方です。隅から隅まで教えて下さっている。

ただただ、頭が下がるのみです。

さて、アイデンティティーの問題を延々と書いてきました。

アイデンティティーを持つこと=我の主張をなすことと漠然と考えて居られる方が多いのかもしれません。
むしろ、アイデンティティーを持つことは責任感情を伴い、責任感情とは良心が受け持つものであり、明らかに本然のものです。
つまり、アイデンティティーを持つことこそ、自己否定なのです。曖昧さで保身出来ないのです。

アイデンティティーの事を書き始めるときに、”甘えの構造”という書物を紹介していますが、日本的な美徳とされているものの多くが”甘え”によってなりなっていることを明らかにしていました。

 

他者や社会の意識を忖度し、それに己を同化させ、行動している場合責任の所在が曖昧です。そして、そのように行動することにより、情状の斟酌を周りに期待しそれによって益を得ようとする行動様式です。
そして、その情状が得られないとき、怨みが発生するのです。


愛してくれない、誉めてくれない、認めてくれない、励ましてくれないetc

くれない病です。

人間の完成型は、愛の発光体であると食口の方は良く聞かれているでしょう。

この姿は愛の発光体と言える姿であるかどうか良くお考え下さい。

これではブラックホールです。


この長いスレッドは、信仰と救いとアイデンティティーという題です。

もう大半の方の結論は見えて居られるでしょう。

救いとは、良心をコアとするアイデンティティーの確立に他ならないのです。

 

そして、信仰を持つこと=宗教団体に所属すること=救い(の恩寵の確保)と混同は、救いの本質に対する誤解と、他ならぬアイデンティティー不足による他者依存(個人の判断を放棄し他者に与え、その他者の意に添った行動をとることによる見返りを希求する状態)による事が大であると思うのです。

自分の判断を放棄しろ言う声は明らかに非原理です。アベルが言おうが、教会が言おうが、それが例えお父様の御言であっても、自分の良心による判断を捨てないで下さい。そして良心に従って行動して下さい。

これこそがお父様が本当に願われる姿だと私は思うのです。

良心の声の判断基準は、愛において正しいのか?

その行動をとるとき、その行動の対象となる人の為になることという目的が一番目としてありますか?

例え、何かの事情によりそれを一番目に持ってこれなくても、その人のためになり、周りの人のためになる行動になっていますか?

他者をないがしろにし、自分の利益、自分の栄誉、自分の心の慰めで行動していませんか?

信仰とは、アイデンティティーが本当の意味で確立するまでの歩行器です。歩くための補助機械なのです。
本物の信仰、本物の宗教団体の姿として、アイデンティティーの確立を補佐する姿こそ正常なのです。

全ての食口の皆さんの信仰と統一教会がこのような姿となることを祈ります。


この長いスレッドで私が訴えてきたもの、それは人間的に捉えられてきた

”人間的になるな、天的になれ”

という言葉の真の意味を明らかにすることです。

人間的な判断を捨て、天の判断で判断せよということです。

それは堕落性のくっついた頭で、理論理屈で判断するな、心で、良心によって、愛によって考えよ という意味です。
何が正しいのか、間違っているのか・・・・理論理屈を根本とするのではなく・・・愛を根本としなければ間違うからです。

何故なら、理論理屈は愛によって作られたものだからです。

愛を実現するために、全ての原理原則は決められ、法則が定められているのです。

そして、天的な判断とはまさしく、愛による判断であるわけです。

聖書に迷える羊の話があります。99匹の従順な羊をおいてでも、ついてこなかった羊を探しに行く、行きたいと思われるのが神です。

そのような神と真の御父母様を慕うなら、目の前の人を全力で愛するのが子の立場ではないでしょうか?