「求めよ、さらば与えられん」という聖書の有名な言葉。これ、本当にそうだなって今は思うの。



私が被害者意識でクサってた頃って、いつも「○○が嫌!」で終わってた。その先の「じゃあどうだったらいいのか」なんて考えたこともなかったし、そもそも何かを夢見るとか何かを望むなんて封印してた気がする。



私の育った昭和の時代は社会の集合意識が「欲を持つのははしたない」みたいなところがあったし、自己主張したり要望が多いとワガママって言われたし、何かを望むにしても「身の丈に合った望み」しかダメみたいな風潮があったし。



もちろんそんなのぶっ飛ばして、ガンガン望んで突き進んで行った人もいて、きっとそういう人たちがいわゆる「成功者」みたいになってたんだろうなって思う。



私が「望んでいい」「夢を見てもいい」って自分に許可を出せたのは40代半ばになってからだったと思う。それこそhappy理論を実践する過程でね。



今は、望みを出して、その望みを自分で受け止めての繰り返し。そうしていて思うのはやっぱり「望まなきゃ始まらない」って事。



「本音で生きる」「自分を生きる」ってなったら望むことなくして進まないんだよね。



だから、望もう。

だから、夢を思い描こう。



それが現時点ではどんなに荒唐無稽な事だったとしても。身の丈に合わなくても。そんなの関係ないもんね。