夢を思い出す 
それは宇宙とつながる、自分の内面と繋がること
そこには善悪はない。
だから親を恨む気持ちも
自分に刃を向ける気持ちも和らぐ。

母のことで気づけたのは
この和らぎのおかげだと思う。
夢の中の感覚に近づこう、思い出そうとした。それは
自分の内面や宇宙との交信や繋がる感覚だから。

その感覚にはジャッジメントがない。
夢の中で、自分の内面や宇宙との交信や繋がる感覚の中では
私はジャッジメントする必要がなかった。その感覚の中で
母のことに気づけた。
ジャッジメントしていたら
母が悪いだの、私が悪いだの ーー
ジャッジメントの波動の中でいたら
気づくことはできない。

母を許さない、母のせいだからー
だから私は悪くない。
自分のことは許す。
母のことは許さないけど
私のことは許す。
理屈ではそんなことを考えたこともあった。しかし
波動というエネルギーの場ではそんな分離した状態では許せるわけがない。母のことも私のことも。

一人の人間の中で
同じテーマで
同じ波動ではないことを
同時に感じることはできない。
つまり、母のことを許せないなら
私のことも許せないのだ。
理屈ではない。
エネルギーなので。
理屈で母を憎み、自分を慰めたとしても
母のことを許せない、つまり嫌いならば、自分のことも嫌いというエネルギーが自分の中に内在しているということ。

理屈では分離できても
波動は区別できないのだ。

母のことを恨む気持ちがあるならば、自分のことを愛する気持ちにはなれない。

人を攻撃するとき
実は自分を攻撃している。

私が苦しんだのは、これだ。

私を束縛している母を許すことなど
到底できないと思っていた。
母を許すことは 
自分を許すこと、などとは思えない。
負けることだ。
自分を許すことではない。
自分の負けを認めることだ。と。

今回、母を理解することができて 
私は母を許すことができたのか??

不思議なことに…
許すという感覚より
そういうことだったのか…という
プロセスや仕組みがわかった納得感なのだ。
一番安心したのは母を許したことではなく、自分を許したことでもない。

やっと理由がわかったという安心感。
もう、追いかけなくていいという安堵感。

わかり合えないという孤独感も
これからは、感じなくて済む。

親を理解すると「私は愛されていなかった」などと
自分を傷つけて自分を否定する思考をもう持たなくて済むのだ。

ただ自分を傷つけなくて済むようになった。
自分に刃を向けることを
もうしなくて済む。
…という安心感。

親との闘いが、自分との闘いだった。