ほうげつ
先日、棋士の対局ビデオを見る機会を得た。現役高校生と天才と言われた棋士の一局であった。その中で、解説の棋士が「最近ね、将棋が強くなる方法がようやく分かった」という場面がある。その方法が、できるだけ時間を費やすことでないのは明々白々である。でなければ高校生棋士がベテラン棋士に勝利をおさめるはずがない。では、才能なのか。そうなのかもしれない。しかし、才能という言葉は往々にして多くのものを覆い隠してしまう。良くも悪くも。
その棋士は、「視線というか、目がね、どこまで将棋盤にくい込んでいるかっていう深さ」が問題なのだと言う。将棋盤の上っ面だけをぼんやりと見ていても一向に強くはならず、将棋の弱い人はただ眺めて指しているだけらしい。これを聞いた時、私はこわくなった。全く同じことが人生にも当てはまると感じたからである。では、人生という盤にくい込む為にはどうすれば良いのだろうか。この問いに対して、私は明瞭な答えを持たない。しかし、くい込もうと足掻いた偉人達の足跡を辿ることはできる。これが、今の私が古典を読む動機である。
おふとん
人間は本質的には孤独であると思う。人と人との関係性などを引っ張り出してきても、最後の最後に自分の人生に責任を持つ、あるいは持つべきなのは自分自身に他ならないと思うのである。この点に関して感じる不安は、他の不安にもまして本質的なものに思える。そこから逃避するも良し。しかし自分の人生に対しては誠実でありたい、と私は思う。ではこの不安とどう付き合っていけば良いのだろうか。ここにおいて私は古典を読む意味というものが生起してくると考える。書くことは孤独な営為である。今に残る古典を書いた今は亡き人はかつて何を想うたのか。その孤独な眼差しの先に何を見つめていたのか。そこに感じていた「書かねばならない」という無意識の使命感は何に由来するのか。そこに少しでも触れようとしているとき、そして少しでも、一瞬でも、自分の孤独な世界と書き手の孤独な世界が交錯したと感じられたとき、私はどこか、何にも代えがたい安心を覚えるのである。「自分は一人ではない」と。
Plough
哲学者の戸田山和久は『論文の教室』(NHK出版、2012年)において次のように述べている。「キミたちは何のために論文を書くのか。(中略)バカを脱するために、ものを考え、論文を書くのだろう。」彼は、学生の論文執筆は己を高めるためのツールとして位置づけるべきことを説き、高いレベルの物事に挑戦することの意義を述べている。
私は、古典を読んでそれについて議論することは己を高めるためのツールの一つだと思う。そもそも古典とは、多くの人に読まれ反駁されながらも時代を超えて連綿と受け継がれてきた偉人のテクストである。その魅力のすべては一個人では到底味わえないものだと思う。そんな古典を読む人の集団は好事家ばかりだろう。彼らはその魅力の片鱗でも味わおうとする好奇心に溢れ、中には実際にテクストを理解できる知力を持つ。自己を高める場としてこれ以上優れた場所はないのではないだろうか。
古典という人類の財産を、専ら自己を高めるための手段として用いる私に、不満を持つ人がいるかもしれない。これからの活動を通して、まずは古典がもつ魅力を味わっていける人間になりたい。
M.M.
テクストを読むということ、特に難解で長大なテクストを読むということは、テクストと対話するということである。だが、一見してテクストとは単に私の目の前にある、事物的なものであるように思える。そのようなものと私が対話するということは、いかなることなのか?
ある対象と、その対象を把握する私の認識が一致しない場合、私の方が対象に適合するよう変化しなければならないとするのが、一般的な考えであろう。だがヘーゲルはその主著『精神現象学』において、私が変化する時、対象もまた変化するのだと述べる。だが、それは一体なぜか?対象とはあくまで対象そのものであって、対象を正しく認識するにあたって変化しなければならないのは、認識主体の方であって間違っても対象そのものではないのではないか?これらの疑問に、ヘーゲルは次のように応答する。すなわち、ある対象が私の認識と一致しない時、対象そのものだと思っていたものは、あくまで〈私にとっての〉対象そのものにすぎないのだということが判明する。私にとっての対象とは、対象についての私の認識に他ならない。ゆえに、対象そのものは、私の認識となる。すると、私は新たな対象そのものを見つけなければならず、その対象そのものと私の認識を比較することになる。両者が一致しない場合、私は私の認識を放棄するのであるが、その際対象そのものも対象そのものであることをやめ、私にとっての対象、すなわち私の認識となる。よって、私は新たな対象そのものと私の認識を比較し、両者が一致しなければ、私は私の認識を放棄すると同時に、対象そのものは対象そのものであることをやめ、私にとっての対象となる。私はこのような私と対象との営みを延々と繰り返すのである。
これをテクストを読むという行為に当てはめて考えれば、次のことが導き出されるだろう。私がテクストを読むことは、私が変わることであり、それは同時にテクストが変わることである。私が読解していることと、テクストそのものが言わんとしていることが一致しない場合、私は自分の読解を放棄するが、それと同時にテクストそのものは、あくまで〈私にとっての〉テクストそのもの、すなわち私の新たな読解となる。私は次に、私の新たな読解と、新たなテクストそのものを比較するが、一致していない場合、私は私の新たな読解を放棄し、同時に新たなテクストそのものは、あくまで〈私にとっての〉新たなテクストそのもの、すなわちさらに新たな私の読解となるのである。
法哲学者の井上達夫元東大教授は、東大新聞の退職記念インタビューで次のように語った。「一冊の本を1、2カ月かけてじっくり読むことは、見えざる著者と持続的な対話をすることでもある」。自己もテクストも変化していくようなダイナミックな対話の中に、私も身を投じてみたい。
参考文献
ヘーゲル『精神現象学 上』熊野純彦訳(ちくま学芸文庫、2018年)
“「失政を修正していく責任が自分たちにある」井上達夫教授 退職記念インタビュー【前編】“(東大新聞オンライン、2020年3月30日)<http://www.todaishimbun.org/inoue20200330_1/>