2023年5月19日(金)に訪問。 

縄文早期の洞窟遺跡を勉強しようとちょこちょこ調べていたが途中で放り出していた。 最近、『表裏縄文』に関する非常に興味深いことが身近で起ったので、この機会にまとめた。そのメモ。

 

 

県道124号線脇の栃原(とちばら)岩陰遺跡@長野県北相木村。 

 

 

岩陰遺跡から相木川上流に向かって約3.5キロに北相木村考古博物館。栃原岩陰遺跡に特化した博物館。

 

 

野辺山ウルトラマラソン2012 ・71キロの部に参戦。そのコース上だったのでその時から考古館の存在を知ってはいた。「(こんなとこにポツンと考古館?( ・ω・))」と。あれから10年余、こういう形で再訪するとは思っても見なかった。

 

 

 

1. 発見の背景・経緯;

  1. 発見は1965年。当時、最古の縄文遺跡を探求するという学界の流れの中、長崎県の福井洞窟や 新潟県の小瀬沢洞窟など後に著名となる遺跡を含め、日本各地で洞窟岩陰遺跡の調査が相次いで行われていた。
  2. 佐久地域で考古学の研究を行っていた輿水利雄は、若い同志の新村薫とともに、北相木村を踏査。ここで、地元の小学生から骨の出る洞窟(岩陰)についての話を聞く。現地を確認すると、当時は野菜の室に使用されていた場所から、人骨らしき骨片(後の 1 号人骨)と、縄文早期押型文系土器が検出された。これが栃原岩陰遺跡「栃原岩陰部」。※ 実際には1939年の本遺跡前面の県道124号線改修工事の際などに人骨が発見されていたが、新しい骨とされていた(小松1966・1977)。
  3. 1965年11月29日、信州大学第二解剖学教室、松本市立博物館による現地調査が行われ、現地での人骨の埋蔵を確認。さらに 1 号人骨を観察した信州大学の鈴木誠は、これを縄文早期人骨と判断した (鈴木1966)。
  4. 同年12月 、信州大学地質学教室も加わり、予備調査を行う。 1 号人骨に加え 2 号人骨を発見し、縄文早期押型文系土器の出土も確認。さらに予想以上の遺物の多さから、以後本格的な発掘調査を行うと決める。
  5. 1978年まで15次の発掘調査を実施。 
  6. 1987年、北相木町は国史跡指定を文化庁に申請し、天狗岩を含んだ区域が承認される。
  7. 1999年、史跡整備帳として天狗岩岩陰遺跡を発掘調査。

 

栃原岩陰遺跡の10m上位に位置する天狗岩岩陰洞窟も含んで国史跡指定を受けた。

 

 

 

2. 岩陰の形成と包含層;

  • ① 7~8万年前(現時点で、日本最古の人類痕跡は長野県佐久穂町のトリデロック遺跡で3万5000年以上前の後期旧石器時代初頭の特徴を示す石器群)の八ケ岳火山活動で噴出した千曲川泥流により、千曲川、相木川の一部が埋められた。
  • ② 相木川の浸食作用で千曲川泥流が削られ急崖を形成、さらに河川の蛇行営力により岩陰が形成された。
  • ③ 南向きで水へのアクセスが容易、さらに雨風を防げる岩陰(洞窟)は、早期縄文人の生活に最適な空間を提供した。

 

 

 

3. 栃原岩陰遺跡の包含層;

  • 包含層は、出土遺物の推移や量、また土器型式に沿う形で上・中・下部の3層準が仮設定されている。

  • 「上部」:発掘深度0~-100cm。遺物の出土量は少なく、出土土器から縄文時代早期中頃押型文系土器の末期以降の包含層。 
  • 「中部」:発掘深度-100~-380㎝。特に-180~-340cm前後では遺物の量が極端に増加する。出土土器の中心は早期前半の押型文諸型式。遺物量のやや少な い発掘深度-100~-180cm前後も、大枠ではここに含む場合が多い。 
  • 「下部」:発掘深度-380もしくは-400cm以下。「中部」での遺物量のピークの後、遺物量は一旦減 じるが、-380~-400㎝以下で再び増加する。出土土器の中心は表裏縄文系土器となる。
 
 
 
4. 縄文早期の土器

4-1. 押型文系土器

  • 複数の型式の押型文系土器が出土(格子目文楕円文山形文
  • 山形文施文の土器では、固く緻密で、薄手のものも多い。胎土に黒雲母を多く含むものも目立つ。 出土レベルは、概ね-200~-350㎝(中部)であるが、極端に深いものもある。また口縁部付近のものを除いては、全体として縦方向で密接に施文されている資料が多い。
  • 浅い施文で大振りの山形文については、長野県地域では押型文系土器群最古段階の立野式に伴うともされるが、本遺跡でも、立野式の主要な文表となる格子目押型文と重なりを持つやや 深いレベルからも出土している。

 

 

 

 

4-2. 表裏縄文土器

  • 全体的な傾向としては、原体にLR縄文を使う例が多い。
  • 器面には内外面問わず指頭圧痕による凹凸が残るものが多い。
  • 輪積単位施文;輪積の度に縄文を施文し、その上にさらにに輪積を重ねる様が見て取れる資料があり、上記の指頭圧痕とともに多くの土器で採用していた成形方法と思われる。
  • 器形では口縁が外反するものが多く、胴部が張り、中には口縁径を上回る個体も認められる。  
  • 出土レベルは、ほぼ-400㎝以下、つまり従来の「下部」に限られ-450㎝以下に特に多い

 

 

 

 

 

 

4-3. 相木式土器

  • 4 単位の波状口縁で、胴部がややくびれた、 丸底の器形。残存率は約3/4。
  • 同一原体と思われるやや大振りの山形押型文を、内面の口縁部には横位に、外面の胴下半には縦位に施文。
  • 胴部中程には幅広の隆帯を貼り付けそこにも同様の山形文を横位に施文。
  •  4 単位の波状口縁の口唇にはヘラ状もしくは棒状工具による刻みを入れ、胴上半部には竹 管状の工具で押引文を施す。さらにその間の一部には、直径 2 ㎜ほどの筒状の工具で円形刺突を加え ている。
  • 一部破片が-173、-220㎝出土であるが、概ね-40㎝の「上部」出土となる。
 
 
 
 
 

4-4. 栃原岩陰遺跡 土器編年とAMS較正年代

  • 栃原岩陰遺跡の下部より多量に出土する表裏縄文に付着した炭化物から炭素14同位体によるAMS年代測定を実施、Intcal 13、半減期5568年を用いて暦年較正を行った。
  • 層序的に古い表裏縄文と新しい押型文土器の暦年較正年代は、それぞれ完新世初頭の縄文早期前葉11,000 cal BP~10,500 cal BPと縄文早期中葉の10,000 cal BP~8700 cal BP
 
 

 

 

 

 

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表裏縄文土器;

  • 表裏縄文土器は、大谷寺洞窟(宇都宮市大谷町)や椛の湖遺跡(岐阜県中津川市)の事例が山内清男によって検討され、撚糸文土器に先行する土器群として知られ、皮革加工具とされるスクレーパーとの関係から、近年では晩氷期のヤンガードリアス寒冷期(草創期)に対応すると考えられてきた(保坂 1999、堤 2000)。

 

 

  • しかし、撚糸文土器群に並行する早期前葉まで繰り下がるという指摘がなされて(阿部1988、宮崎・金子 1995)いる。栃原岩陰遺跡の資料群でも型式学的検討から、表裏縄文土器の変遷では第2~4段階の早期前葉と位置づけられている(藤山 2019)。

栃原岩陰遺跡の利用は、完新世の温暖で安定な気候になった直後に開始されたと考えられる。