称名寺2式(左)、1式(右) 深鉢 (貝塚山遺跡@水子貝塚資料館). 

2式(左)口縁に円形刺突文、口縁のC型の貼付文は福島の綱取1式の文様を取り入れているか。

1式(右)1d式か。
 

 

加曽利貝塚博物館

 

立川市歴史民俗資料館

 

 

称名寺2式 深鉢(東台遺跡32号住居跡@ふじみ野大井郷土資料館)2022/7/21. 口縁部に円形刺突文。口縁のC型の貼付文は福島の綱取1式の文様を取り入れているか。

 

 

  • 1951年(昭和26年)と1957年(昭和32年)に吉田格によってA~Jまである称名寺貝塚のうちA貝塚とB貝塚が調査され、古相として称名寺式第一群土器、新相として称名寺式第二群土器が位置付けられた。
  • 1977年(昭和52年)に提示された今村啓爾の編年案、1985年(昭和60年)の中島庄一による他の土器様式との並存関係を論じた文様モチーフの研究などによって位置付けが確定された。
  • 先行する加曾利E式や後続する堀之内式との並行関係が明らかになるとともに加曾利E式と堀之内式の間に位置付けられる土器型式としての位置が確定。
  • 吉田の提唱した称名寺式第一群土器、称名寺式第二群土器と大体同じ内容でⅠ式とⅡ式が位置付けられることとなった。

 

器形:

  • ほとんどが深鉢。胴部から口縁部は開くが、口縁端部がやや内側にカーブし、胴部中央でゆるやかに屈曲する器形や、口縁部が対角線上に2対の突起をもち、胴部がゆるやかにくびれる器形がある。

胴部から口部が開く(前橋 熊野谷遺跡

 

口縁端部がやや内側にカーブ、口縁部が対角線上に2対の突起をもち、胴部がゆるやかにくびれる (横浜市博物館)

 

文様:

  • 器面を2段に分けて、たとえばJ字状に縄文が施される文様帯が繰り返すようなタイプ

横浜市稲ケ原遺跡A /上野(2011) 埼埋文研究紀要 ※ 1-5は加曾利E式土器

  • 器面全体を縦に縄文を施した文様帯が施されるものとがある。称名寺式と加曾利E式の分布域が重複することからも、J字の文様帯は、加曾利EⅣ式のS字状の文様帯が変化、継承されたものと考えられている。器面を2段に区分するものも、器面全体に縦に文様帯をほどこすものも、縄文が施された文様帯(充填縄文)と丁寧に磨かれた無文の部分とが交互に繰り返される形となっている。

 

 

 

関東の大木式・東北の加曽利E式土器、谷井彪・細田勝 (日本考古学第2号)

 

縄文後期初頭称名寺期に関わる長野県(中部高地)と新潟県(越後平野・信濃川流域)の一部を含めて、『信越地方の主な称名寺式土器及び、伴出(一括)土器分布図j (第20図)を作成した。中部高地に於ける称名寺式土器の様相については、出土資料が乏しい為、その実態については未だに不明な点が多い。幸いこのたぴの葦原遺跡の発掘調査により、第21号土坑から一括土器群として、はぽ完形の称名寺 I式期(中程か後半)の土器が纏まって出土した。通常称名寺式土器は土坑から単独で発見される事が多いが、今回は驚くことに明らかに称名寺 I式期に相当する土器 6点と、やや異質な精製浅鉢(第11図)と 2個 1対の横位の橋状把手を持つ壷形土器で、東北の袖珍土器に類似(第11図)を伴出、計 8点の一括土器群の出土を見た。信越地方では初見のこの貴重な資料をもとに分布図を作成し、信越地方主に長野県においての称名寺式土器の在り方について些かでも迫れればと称名寺 I式-11式(下部が乱れ、単に系譜をヲ|くだけのもの、或いは次期堀の内 I式の範噂に?をも含めて)の完形土器及び図上復元、並び、に器形・文様の鮮明なるものを落葉広葉樹林帯文化圏:所謂東北(網取 I式)、越後(三十稲場式)、北陸の日本海側土器文化圏と相互に影響を及ぽし合うと考えられる信濃川水系・姫川水系、照葉樹林帯文化圏:東海及び西日本(中津式)の太平洋側土器文化圏への伝播と受容が想定される天竜川水系・木曽川水系と各河)11別に追跡調査を計り、併せて関東からの土器文化の浸透を正面に受けるオブスィディアン・ロードの佐久、八ヶ岳山麓地域なども網羅して掲載した。当該土器研究の一助になれば幸いである。今回小破片の為収録出来なかった姫川・木曽川水系も含めて、最近道路建設等に関わる大規模な発掘調査によって、長野県内でも今までその数が少ないと言われてきた縄文後期の遺跡が次々と発見されているので、近い将来良好な資料の出土を見て、明確なる当該土器の様相が解明されるものと思われる。新潟県内(越後)に於いて、信濃川水系から発見きれた称名寺式土器 (No.1、No.2)は、かつて縄文中期に地域文化として隆盛をきわめた火炎土器(馬高式)文化圏に次ぐ完成された後期初頭三十稲場式土器文化圏より、三十稲場式に伴われて尚かつ一括土器群として出土したものである。土器様式に関わる時間差と伝播並びに受容・非受容を知る上で重要な資料として掲載し、冒頭に信越とした訳である

長野県東筑摩郡波田町 葦原遺跡 II 緊急発掘調査報告書(波田町教育委員会1995)
 

 

編年

  • 称名寺1式:明確でないが2段に見えるJ字、O字、渦巻き状、剣先状の文様帯に縄文を充填または、前者の反転した文様帯に縄文を充填し、無文部分を磨いている。

 

  • Ⅱ式は、文様帯が斜めになって、文様帯を区分する沈線が、胴部下半部では「消失」するように施文し、文様帯には、刺突文が充填される。

 

称名寺2式 深鉢(深谷市中原遺跡@埼玉歴民館). 文様帯に雑な刺突文.

 

 

関東の大木式・東北の加曽利E式土器、谷井彪・細田勝 (日本考古学第2号)

 

 

称名寺2式 深鉢(南アルプスふるさと文化伝承館@2022/7/8)、口縁部に円形刺突文。口縁のC型の貼付文は福島の綱取1式の文様を取り入れているか。

 

 

 

称名寺2式(三原田遺跡@渋川赤城資料館) ※ 2023/10/20 追記

 

 

 

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上野真由美(2011) 加曽利E式土器の終焉と称名寺式土器の関係 (埼埋文研究紀要)

横浜市松風台遺跡JT-3住居より出土、称名寺1a式が主体。加曽利E式(17)は破片のみで出土。住居址は柄鏡形で壁際と張り出し部に石が敷かれる敷石住居。

 

横浜市勝田第6遺跡より出土。称名寺1b式が主体。29/30は加曽利E式土器で微隆起線文系の土器片が出土。 J1号住居址は柄鏡形で一部敷石が残存する敷石住居。34(称名寺式)は埋甕。

 

青梅市裏宿遺跡 9号住居跡(柄鏡形住居)より出土の古い部分の称名寺式土器。6~9と11は称名寺1a式。1~5は加曽利E式。

 

調布市上布田遺跡の柄鏡形住居跡より出土。 23の加曽利E式は柄部分の埋甕。25の称名寺1b式は主体部出入口の埋甕。22の加曽利E式は沈線文系土器で、胴上部の単位文が独立化、大型化している。23の微隆起線文系の加曽利E式も間隔をあけて施文している。加曽利E式は微隆起線文系が多く出土。

 

横浜市稲ケ原遺跡Aから出土の称名寺1a式土器。1~5は加曽利E式。住居跡は柄鏡式。

 

称名寺1式、群馬白倉B地区(白倉下原・天引向原遺跡II、関越自動車道(上越線)地域埋蔵文化財発掘調査報告25集)

 

 

※ 柄鏡(えかがみ)形住居:称名寺式期の住居に特徴的(加曾利E式期までは円形の竪穴住居跡)。入口部分が突出し、あたかも柄付き鏡のような形になることからこの名がつけられた。加曾利EⅣ期にその萌芽がみられ、入口部分にエナを納めるといわれる埋甕(うめがめ)がみられるが、称名寺式期には入口部分が突出して同様な埋甕がみられ、運が良ければ発掘調査で炉に使われた炉体土器とともに住居の時期を直接示す土器を2個体検出できることがある。

※ 敷石住居:中部山岳地域に散見される敷石住居もほぼ並行する時期に見られる。

 

埋甕(うめがめ):家の出入口に嬰児の胎盤を納めて、子どもの健やかな成長を願うという各地の民俗例にも通じる風習ではないかと考えられている。

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縄文土器大成③(後期)

称名寺式の成立

  • 関東・中部地方の後期は、曲線的な渦巻き状の磨消縄文を特徴とする称名寺式ではじまる。
  • 標式は横浜市称名寺貝塚(A/B/Cの3地点からなる)(吉田1960)。
  • A貝塚:太い沈線で弧線やS字形の文様が描かれ、磨消縄文で埋められるものが主体。胴上半でゆるくくびれた深鉢が多い。
  • B貝塚:文様は類似するが、磨消縄文の代わりに刺突の列点や刻みでうめられたり、沈線による文様の土器が主体。A貝塚同様の深鉢の他に、鉢・注口土器などがあり、種類も豊富。口縁に把手の付された土器も目立つ。
  • C貝塚:堀之内1式併行土器が主体
  • 吉田格は、A貝塚を第1群として、加曽利E3式直後に、B貝塚を第2群として堀之内式へと続くという先後関係で捉え、これらの土器を称名寺式と総称した。
  • 第2群に類似する資料が千葉県鉈切洞窟より出土、称名寺第2型式と呼称された(金子ほか1958)。 以降、称名寺第1群・第2群は、それぞれ称名寺1式・2式と呼び変えられた。
  • 称名寺式の文様の変遷から6段階に分類が可能。第1(縄文)&2段階(縄文が刺突文に代わる)が称名寺1式に、第3段階(縄文が廃れ円形刺突や列点状の刺突が主流)が称名寺2式に相当する。

称名寺式土器の変遷(我孫子昭二)

 

沈線内および縄文帯に竹管状工具による刺突を伴う。工具の形状は沈線内と縄文帯とで類似するが、沈線内の工具の方が細い。

神奈川県立歴史博物館所蔵の考古資料 -林國治氏、小林小三郎氏旧蔵の小林小三郎氏旧蔵 横浜市称名寺貝塚採集資料-

 

 

  • 中津式との親縁関係に注目(我孫子1971)。 広く共通の意識を持つ文化圏が想像される

1.ケンギョウ田、2.縄手、3.大官大寺、4.大水崎、5.東庄内B、6.林の峰、7.尼崎、8.大石山、9.鉈切、10.称名寺、11.御殿山、12.馬込、13.金楠台、14.吹上、15.槻沢、16.雁石、17.尾添(おおぞ) (我孫子昭二)

 

157(左上);称名寺1式 深鉢 (神奈川県称名寺A貝塚) 高32.0cm 武蔵野郷土館

158(左下);称名寺1式? 深鉢 (静岡県上白岩遺跡) 高42.3cm 中伊豆町「教育委員会

159(右上);称名寺1式 深鉢 (神奈川県称名寺A貝塚) 高50.5cm 武蔵野郷土館

160(右下);称名寺1式 深鉢 (千葉県西広貝塚) 高27.1cm 国分寺台遺跡調査会

 

 

161(左上);称名寺1式 深鉢 (茨城県吹上貝塚) 高35.8cm

162(右上);称名寺2式 深鉢 (神奈川県称名寺B貝塚) 高25.5cm ※ 胴部上半と下半の文様が分離する傾向がみられる。

163(左下);称名寺1式 深鉢 (神奈川県称名寺貝塚) 高30.5cm

164(右下);称名寺1式 深鉢 (群馬県三原田遺跡) 高32.8cm

 

 

122 称名寺1式 深鉢 (埼玉県坂東山遺跡) 高71.7cm

称名寺1式後半の土器。文様の横の連結は切れ、縦に連なる構成をとるのが普通。口縁のC型の貼付文は福島の綱取1式の文様を取り入れている。この土器は土坑内に逆さに伏せて、中に人骨を納めた状態で発見されたもので、二次葬の風習を端的に示した。

 

120 称名寺1式 深鉢 (千葉県加曽利南貝塚) 高46.0cm

口縁部に沈線で画した無文部を残し、以下は前面に縄文を加えた粗製土器。この種の土器は加曽利E4式に多くあるが、この土器はくびれ部が高くて、口縁の湾曲がゆるく、縄文が細かいなどの称名寺に共通する特徴を有している。この種の土器はやがて無文部を失い、堀之内1式の縄文だけの粗製土器へとつながる。

 

称名寺1式 浅鉢 (神奈川県横国付属小遺跡) 高14.2cm

 

165 称名寺2式 注口付鉢 (神奈川県称名寺B貝塚) 高15.7cm

※ 今村;称名寺B貝塚より出土する土器を吉田格の定義に基づきすべて称名寺2式にすると、その中にはきわめて堀之内1式的なものが多く含まれることになり、称名寺2式と堀之内1式の間に境界線を引くことが困難になる。編年の基準は精製土器に置かれるべきとの考え方に立つと、関東南部の↑器形につては『胴部上半が無文化する段階から後を、堀之内1式とするのがよいのではないか』と考えている。この場合、本↑浅鉢は堀之内1式に属する可能性が強い

 

称名寺2式 浅鉢 (神奈川県称名寺B貝塚) 高27.0cm 

※ 今村;称名寺B貝塚より出土する土器を吉田格の定義に基づきすべて称名寺2式にすると、その中にはきわめて堀之内1式的なものが多く含まれることになり、称名寺2式と堀之内1式の間に境界線を引くことが困難になる。編年の基準は精製土器に置かれるべきとの考え方に立つと、関東南部の↑器形につては『胴部上半が無文化する段階から後を、堀之内1式とするのがよいのではないか』と考えている。この場合、本↑浅鉢は堀之内1式に属する可能性が強い

 

 

 

 

 

2023/11/24 追記 *******************

 

称名寺 I式 深鉢 @デーノタメ遺跡/北本市

 

 

 

称名寺 I式 深鉢 @デーノタメ遺跡/北本市