何か大きな事件が起こると国民を縛る法律が通りやすくなるけど

そんな事しなくても元々国民の反対の声は無視で

裏で勝手に可決してるから、今回の茶番の裏で何かやってたのか?

 

そもそも弾が見えないけど本当に耳に当たっているのかが疑問

 

グレートリセットのその先は世界統一政府

目指すはデジタル管理、信用スコアの世界

聖書の黙示録のように刻印がないと物が買えないとか

そんなデジタルで提供される食べ物は

変な物が入ってる加工食品しかないような気もするけど…

テクノロジーで自然伐採、水も空気も土も汚染されていて

このデジタル化を反対しないで誘導するなら

皆が応援しているヒーローは聖書の偽救世主確定

彼らの目指す新時代は恐怖しかない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↑より抜粋

 

ハリスは老中首座(ろうじゅうしゅざ)の

堀田正睦(ほったまさよし)の公邸も訪問した。

将軍との会見の打ち合わせであったが

ここで大きくハリスの印象に残ったことがある。

 

ハリスは、あらかじめ用意しておいて

「大君(タイクーン、ここではハリスはエンペラーという言葉を使っていない)」

つまり将軍徳川家定(いえさだ)に口頭で述べる挨拶の原稿を差出した。

本来儀礼的なものだし、あらかじめ翻訳しておいてもらった方が

当日話がスムーズに進むと思ったのだろう。

ところが、堀田は翻訳するのでしばらく待って欲しいとハリスに言い

半時間ほど(ハリスの表現)で戻ってくると

なんと将軍の答礼の言葉をハリスに渡したのである。

 

もちろん、堀田が早飛脚(?)を出して将軍の意向を聞いたのではない。

翻訳もやったのだから30分ではとても不可能だ。

つまり、ハリスは将軍が閣老たちのパペット

(操り人形)であるということに気付いた、ということだ。

 

それともう一つ指摘しておかねばならないのは

あらかじめ文書を交換したのは、日本の事情だった。

これもハリスの言葉を借りれば

「宰相(さいしょう)は私に通詞(つうじ)は

拝謁(はいえつ)を許されることができないので

あらかじめ私にその答辞の写しをあたえ

それを翻訳させることによって

通詞の出席を必要とせぬようにしたいと告げた」

ということなのだ。

つまり身分制度の壁があって

通詞(通訳)のような低い身分の人間は

将軍の言葉を直接訳せない。

だから事前に文書でやりとりする、というのである。

世界には他にも国王とか君主がいるが

こんなバカなことをやっているのは

朱子学の毒に侵された清、朝鮮、日本ぐらいのものだろう。

国益を考えれば、練達した通訳を

その場に立ち会わせるのが当然なのにそれが出来ない。

 

そういえば「ジョン万次郎はどうしたの?」と

想起する読者も少なくないだろう。

簡単にいえば、この交渉から外されていた。

万次郎はこの時点で日本で唯一きちんとした米語が話せる貴重な存在である。

しかし、旗本とか奉行とかいった身分で役職を得たが

何も出来ない連中は、万次郎をねたんで

「あいつはアメリカのスパイだ」などとデタラメを言って足を引っ張った。

相当なイジメもあったらしい。

万次郎はこの前後「自ら望んで」箱館勤務になっていたのだが

そうでもしない限り、身の危険があったとする論者もいる。

これも今にたとえれば、極めて優秀で最適任のノンキャリアの役人がいるのに

それをねたんだキャリアの役人がよってたかって足を引っ張り

本人に「手柄」を立てさせまいとした、ということだ。

国益などどうでもいいのである。

まあ、今の外務省はそうではないだろうが。

 

ここで、しばらくぶりにもう一度言っておこう。

「幕府外交は愚劣そのものである」と。

話をハリスに戻すと、将軍との謁見(えっけん)の日は

安政4年10月21日(1857年12月7日)と決まった。

ハリスはアメリカ国務省の規定による礼装に身を固め

ヒュースケンと共に午前10時、駕籠(かご)で

宿舎の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)を出発した。

途中、城内で駕籠を降りて徒歩で進み

江戸城大広間で将軍の謁見を受けた。

御三家をはじめ諸大名も多く臨席していた。

当初ハリスは幕府側から将軍の面前では土下座するよう求められていたが

ハリスは「私はアメリカ政府を代表する者として断固拒否する」

という態度を貫いたため、立ったまま頭を下げるという形で将軍と対面した。

そして、自分の目に写った将軍家定をハリスは次のように描写している。

 

大君は自分の頭を、その左肩をこえて、後方へぐいっと反らしはじめた。

同時に右足をふみ鳴らした。これが3、4回くりかえされた。

 

将軍家定は、ふざけたのでもなければ

何らかの儀礼としてのポーズを示したのでもない。

もちろん、そういう説もないではないが、有力なのは

「徳川将軍家15代のカルテ」の著書で医師である

篠田達明氏の唱える「脳性麻痺」説だろう。

今となっては、その説を完全に証明することは不可能だが

確実に言えるのは本人は極めて病弱だった、ということだ。

結果としては、この翌年安政5年(1858)に

家定は35歳の若さで病死する。

この家定の御台所(正夫人)が、大河ドラマにもなった

島津斉彬(なりあきら)の養女の篤姫(あつひめ)である。

篤姫は、このハリス謁見の前年の安政3年(1856)に

継室(後妻)として家定のもとに輿入(こしい)れしているわけだが

薩摩藩主島津斉彬の命令を受けて

この婚姻を成功させたのが西郷隆盛であった。

かつては、この婚姻についてはこう言われていた。

 

開明派の老中首座阿部正弘と親しく

日本の将来を憂えていた島津斉彬は

いずれは英明な一橋慶喜(水戸斉昭:なりあきの子)

を将軍として立てることが

日本を立て直すために必要であるとして

そのためには大奥に慶喜(よしのぶ)支持派を作る必要があると感じ

阿部老中などとも相談の上、一族の中から年齢の合う姫を養女として

(最終的には公家の近衛家(このえけ)の養女という形で)

将軍御台所として送り込んだ。

しかし、最近はこういう見方にはむしろ否定的な見解が有力だ。

彼女を望んだのは将軍家の方だ、というのである。

それはこういう事情だ。

 

家定は病弱だったが「正妻運」はさらに問題で

最初の鷹司任子:たかつかさあつこ(天親院:てんしんいん)も

次の一条秀子(澄心院:ちょうしんいん)も

子を儲けることもなく早死してしまった。

将軍に男子がいないというのは一大事である。

そこで、大奥が思い出したのが子沢山で有名な

11代将軍家斉(いえなり)の御台所「篤姫」のことだった。

この篤姫(広大院:こうだいいん)は外様の薩摩蕃出身であるから

本来将軍の御台所になることは有り得ない。

しかし、嫁いだ相手の一橋豊千代(ひとつばしとよちよ)が

10代将軍家治(いえはる)の嫡子(ちゃくし)

家基(いえもと)が急死したこともあり

思いもかけず11代将軍家斉(いえなり)になったことで

外様大名家出身の将軍御台所が突然出現した形になった。

だが、逆に言えばそれは「薩摩からの嫁は縁起がいい」

ということでもある。

また彼女は男子も産んだ。

この男子は元服前に亡くなってしまったが

実は将軍の側室ではなく御台所が男子を産んだというのは

2代将軍秀忠夫人だった崇源院(すうげんいん/そうげんいん)

つまり平成23年の大河ドラマの主人公でもあった

江(ごう)以来のことなのだ。

これも縁起がいい、ということになる。

そこで、生まれた時は「一姫」だった彼女が

「先輩」の広大院にあやかって同じ「篤姫」と改名し

なおかつ同じように近衛家の養女となって

将軍家へ輿入れしたということなのだ。

確かに、直接の理由というか、将軍家が彼女を望んだ動機はそれであろう。

しかし、日本の将来を憂いていた斉彬が

単にそれだけの理由で部下の中で一番優秀な西郷まで動かして

この婚姻を実現させるだろうか?

大奥の支持を得ること。これが日本を動かす秘訣なのである。

 

 

そして、これから先の話だが

自分の実子(七男)で一橋家に養子に行った

慶喜を将軍にしようと画策したこと、である。

「画策」というと少し語弊があるかもしれない。

この時代、篤姫の夫である13代将軍家定は

明らかに将軍としては不適切であった。

しかし実子はいない。

すると、最も血筋が近いのは御三家の紀州徳川家の慶福:よしとみ

(のちに家茂:いえもちと改名)であった。

しかし、慶福はこの時点(1857年)で12歳(数え年)に過ぎない。

一方、斉昭の子の一橋慶喜は、養子とはいえ水戸家ではなく

将軍家を継げる御三卿一橋家の当主であり

年齢も21歳で英明の評判があった。

ただ、血筋をみれば慶福が13代将軍家定のイトコであるのに対し

慶喜はいったん徳川家康まで逆のぼらないと現将軍につながらない

という問題があった。

後に、慶福を将軍に推す人々が南紀派(なんきは)と呼ばれ

慶喜を将軍に推す人々が一橋派と呼ばれることになるが

一橋派の主張とは

「国家が危急存亡の時期に幼少の慶福君では

将軍職をつとめられるわけがない。

ここは年長で英明な一橋公が将軍になるべきだ」というものだ。

 

現代人の耳にはこれが当然の主張と聞こえるだろう。

しかし、ちょっと待って頂きたい。

ここで、一度はテレビなどで御覧になったことがあるはずの

時代劇を思い出してもらいたいのだ。

テーマは「お家騒動」である。

大体こんなストーリーだったはずだ。

 

とある大名家、当主は重病で後継ぎの若君はまだ幼い。

それをいいことに「悪家老:あくかろう」が

遠縁で年長の青年を後継ぎに立てようとする。

当然、「忠臣」たちは反抗するが

それに対して「悪家老」はこう言う。

「幼君では御家が保てませぬ」

 

お気付きだろうか?

こういう時代劇を見ている間は

当然皆さんは「幼君」を応援し「悪家老」と「遠縁の青年」は

とんでもない連中と思っているだろう。

しかし、一橋派の主張はそれと同じなのである。

「正義」はむしろ南紀派にある。

これが祖法というものだ。

そもそも徳川家康は後継者として次男結城秀康より

「年長」でもなく、6男松平忠輝のように「英明」でもない

3男秀忠を選んだ。

有事の時はともかく、平和な時代になれば優秀な老中に補佐された

「イエスマン」の方が、問題を起こさないからである。

そして、この方針を徹底させるために

息子秀忠夫婦(夫人は江)が

優秀な次男忠長を後継者にしようとしたのに

強引に介入して長男家光に後を継がせたのだ。

鎖国自体は家康がしたというより家光がやったことだが

それでも当時は祖法として意識されていた。

 

ところが、この「バカでもいいから必ず長男

(血筋の濃い者)が後を継ぐ」というのは

まさに家康の定めた祖法の中の祖法なのである。

「なぜ、家康がそんな不合理なことを」と思う向きもあるかもしれないが

では「優秀な子が後を継ぐ」というルールだったら

代替わりのたびに相続争いが起こる。

室町時代、多くの大名家はそういう形で衰えた。

だから家康はそう定めたのだ。

「英明」という条件で選ばれたかに見える8代将軍吉宗(よしむね)も

ライバル尾張家に勝った最後の決め手は「血筋が近い」からだった。

そして、その吉宗が将軍職を継がせたのも

「英明」な次男や三男ではなく問題のある長男であった。

 

現代人から見れば

「この国難の時期に12歳(就任時は13歳)の将軍なんて

どうかしている」と思うかもしれないが

昔の考え方では

「現将軍に血筋が近い者が将軍となるべきで能力は関係ない。

そもそも老中や若年寄(わかどしより)は

そのために存在するのだから

彼等が強力に補佐すれば何の問題もない」

ということなのである。

「保守」ということがどういうことか、如実にわかる例といえる。

 

そういう意味で言えば水戸斉昭の行動は

開国問題では「祖法を守るべきだ」という態度なのに

将軍後継者問題では「祖法など変えるべきだ」と主張していることになる。

これは矛盾である。

矛盾のある主張を展開している政治家を、人は尊敬するかどうか。

これは言うまでもないことだろう。

そして、斉昭が一方では「神」のように尊敬されながら

まるで蛇蝎(だかつ)の如く嫌われている場所があった。

それが江戸城大奥であった。

その理由は次のようなものだ。

 

11代将軍家斉の娘峯姫に、唐橋(からはし)という

上臈年寄(じょうろうとしより)が仕えていた。

上臈年寄は大奥の女中の最高位で

ほとんどは京都の公家の娘だった。

上臈年寄は生涯に渡って姫君に仕え

一生を独身で終えるのが定めである。

唐橋は絶世の美女だった。

好色な家斉は唐橋を見て食指を動かし

ひそかに奥女中に命じて自分の寝所に招こうとした。

唐橋はきっぱりと拒絶した。

「あたくしは峯姫さまにお仕えする身でございます」

さしもの家斉も、自分の娘に仕える上臈年寄だけに

諦めるしかなかった。

峯姫は水戸藩の8代藩主徳川斉修(なりのぶ)

との婚儀がまとまり小石川の水戸藩邸に嫁いだ。

 

 

斉昭は唐橋に目を付け、藩邸内の一室に引っ張り込むと

強引に手籠めにした。

その結果、唐橋は妊娠した。

兄で藩主の正室付きの女中を強姦したことになり

その行為は無軌道で醜悪といえよう。

「江戸の性の不祥事 永井義男著」

 

この話は「燈前一睡夢(とうぜんいつすいむ)」という

旗本の大谷木醇堂(おおやぎじゅんどう)が書いた随筆集にある。

この話は江戸の考証家として有名な

三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)が

その著書で紹介して知られるようになったが

元ネタはこの本である。

大谷木は明治まで生きた「ひねくれ者」として有名な人物であった。

だから、この話は本当なのかと一応疑うべきかもしれないが

彼が斉昭をおとしめる積極的な理由はない。

斉昭がいわゆる「絶倫」であったのは事実だ。

生涯に公式記録に残っているだけで22男12女をもうけている。

 

また、斉昭の長男慶篤(よしあつ)の嫁である

線姫(有栖川宮家出身)が

安政3年(1856)に自害するという事件が起こったのだが

この原因も斉昭が手を出したからだと巷の噂になった。

この件については無実だったかもしれない。

だが、そういう噂が立ったこと、そして将軍家定も含めて

大奥の女性たちがそれを信じたことは事実である。

こうしたことから、斉昭の大奥の評判は最低であった。

前節で述べたように、薩摩出身の篤姫が

13代将軍家定の御台所となったのも

その点では必ずしも慶喜を将軍に押し上げるためではなく

島津斉彬が大奥の世論というものを重視した結果であろう。

つまり、大奥に「薩摩派」をつくるという目的だ。

 

しかし、後になって「イケメン」であるがゆえに大奥に支持されていた

老中阿部正弘と日本の将来を語り合ううちに

やはり慶喜を擁立(ようりつ)した方がいいと思い定めたのだろう。

しかし、そう言われても篤姫は困ったに違いない。

「あの斉昭の子を将軍になどとんでもない」

という線で大奥は固まっていたからだ。

この1857年、日本では安政4年の12月から

九段下の蕃書調所で幕府はハリスとの日米通商条約の交渉に入った。

アロー号事件もあり、開国通商やむなしと判断した幕府は

川路聖謨(かわじとしあきら)らを斉昭の下におくり

説得を試みるが、斉昭は「ダメなものはダメ」の一点ばりである。

そこで老中堀田正睦(ほったまさよし)は

逆に京の天皇の許可つまり勅許(ちょっきょ)を取ろうと考えた。

なぜなら「天皇がお許しになった」となれば

斉昭を頂点とした攘夷(じょうい)派

(外敵を撃ち払って入国させない)

もおとなしくなるに違いない。

と考えたからだ。

これこそ幕府史上最大の大誤算であった。

 

この巻おわり

 

 

目ーソンなんだよね
 
 
これを聞いても、まだ自ら人体実験しているのが不思議
 

 
なんでそんなに儲かるのかも不思議
 

 

 
 
医者は日々の食事で病気は治ると思っていないと思う件
 
 
 
 
 
何にハマるか分からない件
 
ホクトの件は1巻くらいしか読んだ事ないけど
そんな世界になりつつある今、ならない世界線へ行きたい
10年位前から気になってた人気の和食店にやっと行ってみた
からあげ定食 

 
ここのお子様ランチが食べたい
食後のコーヒー撮るの忘れた

 

 

 
ボトルキープは安くなるけど、お酒が劣化するのでは?

 

マイケル探してます
 

 

 

 

 

 

 

 

その後、お隣の唯一の自然派スーパーへ

 
 
そろそろ安い醤油が無くなってきたので
良い醤油を3本買った
 

トランプもプーチンもこの世界を壊す誘導要員

悪を暴露して良くなるようにしているように見えるけど

デジタル管理社会に向かって行ったらダメ

今のSDなんとかのエコはエコじゃない

もちろんイーロンもあちら側要因

地球のフリーエネルギーでお金の要らない世界が理想

悪の世界が終れば、良い世界になる事を祈る