特に野党マスコミが時事問題について日々ダブルスタンダード(ブーメラン・おまいう)を繰り返すのは、どう安倍政権や右派批判に結びつけるかという視点で発言するからだ。
その意味では右派も左派批判したいがための近視眼的視点に立てば同じことが起こるし感情的議論は虚しいもの。
それを避けるにはやはり時事問題が人類史においてどういう歴史的意義を持つのか感じることだと思う。
それは文明論とも言うべき領域だ。
例を挙げれば昨今急速に高まりつつあるLGBTの議論。
何のことかとネットで語句を調べた方も多いだろう。
私もその一人だ。
彼らに対する差別が横行しているので是正すべきだと言う。
この新しい言葉に馴染みはなかったが、同性などであっても愛する者同士が一緒になれず差別されるのはけしからんと言われれば確かにそうかもと思う。
しかしふと文明論的立場に立ちこの問題を考える時、同姓愛を社会制度の補助対象として認めるべきかと問われれば、それはやはり慎重にならざるを得ない。
なぜなら仮に異姓愛よりも同姓愛が身近になった人類社会は子孫を残せず滅びの道を辿るからだ。
歴史的にも同姓愛はむしろ海外の多くでごく近年まで犯罪であったし、逆に日本ではそれに比べればむしろ男色等には寛容だった。
だから日本人がLGBT差別があり許せないと言われてもピンとこないのだ。
私にも実は学生時代同性に好意を寄せられ告白までされた経験があるが、あくまで友人として普通に接し、異常だと無視することはなかったし知っている周りの友人も特に避けたりはしなかった。
TVにおいてもおすぎとピーコ、マツコデラックス、はるな愛などおかまキャラ?(ニューハーフ、ゲイなどと言わないと差別らしい。正直呼称など本質でなくくだらない)が多数当たり前のように登場するが、気持ち悪い出るなと発言する人間を周りで見たことがない。
まぁ差別はないなどと言ってもあるところにはあると言われてしまえば終わりなのでこのくらいにしておこう。
ただTVなどで当たり前に同姓愛の恋愛などを描くドラマが多数放送されると、同姓愛増加を誘導する可能性が生じる。
例として異性の性交渉の若年齢化について、小中学生でも当たり前でしょというような風潮が広がれば、社会はそのように推移してしまうものだ。
この危惧から評論家の小川榮太郞氏は、問題となった新潮45の議論においてパンツをはいておけと強烈な表現で社会的な自制を促したと思われる。
LGBTに対する差別を許さないことと、社会的に寛容にすべき、税金補助の対象にもすべきというのは議論のレベルが全く異なる。
その意味で杉田水脈議員が生産性がない、税金補助対象とするには国民の理解は得られないのではないかという強い言葉で主張したことはある意味当然の意見と言えるし、それは差別とは無関係のレベルの政策議論だ。
少子高齢化が既定路線になった現代の日本で国家百年の計を考える時、LGBTを積極推奨し出生率に更にブレーキをかけている暇は正直ない。
文明論的見地にたてば、出生率増加のために異姓愛、家族の大切さを推奨すべき段階だ。
本当に差別はあるのかないのか、あるならどうそれを克服すべきか考えるのも非常に大切なことではあるが、文明論的見知からそれは人類の繁栄に本当に繋がるのだろうかという議論もまた大切だ。