双極性障害のなかの人です。

なんていう言い方はもう古い?もはや間違ってる??


私は毎週の受診で、その1週間にあった出来事や症状などをスマホのメモに打ち込んだものをそのまま主治医に見せている。


たまに主治医に驚かれるくらいの量と、おそらく”ちゃんと“まとまっているので、私は自分のことを把握しているかと思いきや、そのメモには表せられない感じるものがたくさんある。


それはまるで水槽に何色もの絵の具を流し込んで、その中を自分が泳ぐたびに水槽の水の色が変化していて、一瞬芸術的なものを観ているような感覚になったかと思えば、重苦しい絵の具のもったりとした不快感もあり、ある程度泳げば色味のパターンもつかめるはずだが、今の私には私よりも絵の具に意思があるかのように思い通りにならないその水槽に、ただ溺れないようにもがいているみたいだ。


実際に「乖離」という状態になったことがある。

だから、私のことなのに他人事のような、でも確実に苦しさはこの私が感じているから、私の身に起きていることなのだが、複数の自分がいないと辻褄が合わないのでは?と納得できないくらい、同時に真逆のことが起きたり感じたりするから本当に疲れる。


あのとき通院と服薬を3年半も止めたから、今こうして混合状態に苦しんでいるのだと思う。

しかしあのときの私のこの病気への知識はゼロに等しかった。

ただただ、家族を喜ばせたくて、完治する病気だと勘違いもして、強引に通院と服薬を止めることばかり考えていた。


セルフプロデュースのできる人に憧れていた人間が、どぎつい色水の波にもまれて、このべったりとへばりつく絵の具は一生自分から離れないのだと思うと、今は、ならばこの絵の具で色鮮やかに自己表現をしてみようなんていう心意気は生まれない。

これは私の大好きな超特急の「What's up!?」という楽曲のワンフレーズだ。


これには本当に救われた。

私の生きる世界線がこの世にあるんだと教えてもらえた気分だった。

しかし、日常は私の憧れるフツーとのあまりの差にがっくりと肩を落とすことがほとんどで、私の世界線になどいたいわけではない。


私は乗り物に乗るときには必ずヘルプマークを着けている。

過去に何度かパニックになったこともあり、それから乗り物が苦手で、今でも動悸やめまいがするからだ。

だが見た目はぽっちゃりの健康体なので、大体の人たちは見てもスルーするか、心のなかでは疑っているかもしれない。

それでもたぶんフツーではないのだろうなと、席を譲ってくださる方もいる。

そんなときはフツーではない自分をこれでもかと前面に出して、譲ってもらった席に座らせてもらう。


私のあらゆるものがフツーじゃないのだろうが、いやフツーの人たちにも言動や感情などに個人差はあるじゃないか、その差と私の差にどんな違いがあるんや!と言いたいところだが、もうしっかり20年近く病院にお世話になって、治療というものをしているわけだから、やっぱり何かが病的にフツーじゃないんだろうな。


もう5年半も働いておらず、生きる!という強い意志もないまま、息を吸って吐いて、食べて排泄して、メリハリのない就寝と起床を繰り返している。


ホント数日前は、もうこんな毎日イヤだと1時間泣いていた私が、今日はここにこうして何かをかたちにしたくてスマホを手に奮闘している。

それが「よかったね!」と言われると、なんか違う。

私には同時に複数の感情と症状があるから、泣いていないだけで、数日前の自分がまだいる気がする。


だから、何か動いたとしても「これでいいんだ」と思えない。

また泣くかもしれないからという予防線なのか、もはやこの賞味期限の短い自分がわかっているからなのか、もう数秒後の予測ができないのが通常モードなのだ。


混合状態がまだ続く限り、精神力の消耗は激しく、自分の足に力を入れて立つときがいつなのかもわからず、この世界線を歩いていくんだという覚悟もまだできない。


私が私のフツーでキラキラと輝く日は来るのかな。