😊😊😊😊😊😊ラパヌイとは、かつて教科書で習った「イースター島」のこと。世界から観光客が押し寄せる。目的の一つはモアイ像。案内してくれたガイドは背の高い19歳の男性。父親は65歳。小生より5歳下。つまらぬ質問をして自分が老境に居ることを知った。
😊😊😊😊😊😊ラパヌイとは、かつて教科書で習った「イースター島」のこと。世界から観光客が押し寄せる。目的の一つはモアイ像。案内してくれたガイドは背の高い19歳の男性。父親は65歳。小生より5歳下。つまらぬ質問をして自分が老境に居ることを知った。
☆横浜大桟橋で乗船
出発の日は晴れ。快適なスタートだったが、とにかく忙しかった。
旅の起点は横浜港。客船を受け入れる大桟橋が集合・乗船場所である。乗客は大桟橋の国際客船ターミナル2階に11月21日の金曜日午前10時集合と定められていた。東京・杉並区にある自宅から横浜まで所用時間は一時間ちょっと。地下鉄丸ノ内線に乗り、新宿三丁目駅でみなとみらい線に乗り換えて「日本橋大通り」で下車する。2人は通勤ラッシユを避けて2時間半も早い8時半に着いた。通勤時間と重なると、リュックサックと手荷物を抱えての移動は体力的に無理だと夫たる男が判断した。当初、妻は「ラッシュでも大丈夫」と言い張った。しかし職場に急ぐ人たちの混雑に輪をかける荷物を車内に持ちこむのは「現役に申し訳ない」と夫が主張し、妻が折れた。
乗船前に意見が衝突した訳である。不吉な予感。知り合いの冷やかしが現実になるかどうかは、帰国まで待たなくてはならない。
さてさて大桟橋に着いた。幸い10時まで待つことなく、9時から税関、荷物検査などの出国手続きが始まった。これを終えて、船旅主催者側に旅券を渡し、ターミナル2階と船を繋ぐ蛇腹の搭乗橋を渡って船内へ。乗り込んだのは船の6階。船室は左舷側「7004」。7階であった。
まず事前に宅急便で船室に送付した荷物の確認を求められた。送ったのは、スーツケースが男と妻各1個、あとは規定の容量のダンボール箱となる。これは1人4個、2人で最大8個まで許可される。この夫婦は2人合計3箱で済ませた。大半は衣料品だ。向かうところは夏の南半球だから、冬物と違って嵩張らない夏物。例外は男の背広1着、それに妻の和服1着、ドレス1着だった。
☆船室は左舷のペア・タイプ
客室は大別すると1人から4人部屋まで4つのタイプに分類される。夫婦が選んだのは、その中の2人部屋「ペア・タイプ」。このタイプには、窓のない「Eエコノミー」からバルコニー付きの「Hバルコニー」まで4種類あった。料金的にはエコノミーとバルコニーの中間、夫婦が確保したのは四角い窓がふたつの「GスタンダードⅡ」を申し込んでいた。広さは配布資料に明記されていないので正確な面積は不明だが、畳にして7畳ほどか。そこに、洗面台とトイレとシャワールームをまとめた区画、さらにクローゼットと各種の棚があり、引出しに鏡のついたドレッサー、テレビもある。ツィンのベッドも配置されている。収納スペースは明らかに少ない。荷物のどれをどこに入れるか検討する必要がある。「面倒だ」と珍しく2人の意見は一致して、この時は荷物の開封を諦めた。
後に親しくなった夫妻は、持ち込んだダンボール箱が制限一杯の8個。部屋は同じタイプのツィン。「収納整理するのに1週間かかった」と後に苦笑していた。航路で見ると、横浜から神戸を経て太平洋を南下してボルネオ・コタキナバルに寄港する前日の27日に、やっと作業を終えたということになる。
☆まずは船内見学
時計の針は10時20分を指した。2人は、梱包をほどくことなく、それぞれ船内見学に出かけた。男は喫煙場所が気になっていた。まず、目に入ったのは、左舷側のオープンデッキに設置された灰皿。“立ち食い”ならぬ“立ち吸い”である。椅子の用意があったのは2か所。一つは覆いのある船尾の一角。もうひとつはオープンデッキの船首に近い左舷側。ここは降雨だとちょっと苦しい。「少ない」と男はぼやいた。しかし夜は船内の飲食店やバーの一部は喫煙OKと聞いた。一安心したものの、いくつになっても禁煙出来ない男の悲哀である。
しかし、メリットもある。煙草愛好家は、限られた場所に集まる。毎日何度も顔を合わせていると、次第に仲間意識が生まれる。世間と同様、船内でも少数派なので結束力も育まれていく。結果的には喫煙所が楽しい語りの場となった。というようなことは、その時、男の念頭に浮かぶことはなかった。
☆出港前に避難訓練
ウロウロと30分ほど歩き回っているうちに、船内アナウンスがあった。「お客様は避難訓練に備えて船室にお戻り下さい」。
海上人命安全条約(SOLAS条約)に基づく訓練だった。前年にルールが変更されて出港前に訓練を実施する義務が生じたという。乗船時に渡された「訓練参加カード」には「非常時集合場所」は「A」と記され、Aは船室ドアの内側に貼られた船内図によると、1階上のフリースペースとなっていた。船室によって集合場所は違う。
夫婦は棚から救命胴衣を取り出し身に着け、ベッドに座って合図の汽笛を待った。
11時半、訓練開始。指定場所に移動する。見渡したところ、フロアーに座ったのは、ざっと百人。まずは点呼から。男女の担当者が交代で名簿の順番に「○○様」と名前を読み上げる。男と女。声質が違うから聞き分けがしやすい。該当する乗客は「ハイ」と返事をする。児童の真似をしているようで何となく気恥ずかしい。しかしタイタニック号の沈没という大事故もありうる。訓練は粛々と進んだ。
全員の参加を確認した後、客は起き上がり何列かを作る。前の人の両肩に両手をついて舷側側の通路に移動、ここで救命艇が上から降りてくるのを待った。実際には降ろさなかったが、「救命艇数は14あり定員は1,426人。これ以外に救命いかだ46艇で1,112人を収容できます」。定員合計は乗客と船員の合計を超えているという説明があり、乗客に安心感を与えた。訓練は1時間を要した。客は1か月に1回、船員はさらに徹底して1週間に1回行うことになる。
☆出航 お馴染みのテープ投げ
13時、客船は離岸した。乗客は思い思いにターミナルに面する右舷デッキに連なった。主催者側の若い男性が、客一人一人にテープを手渡していく。男は3回投げた。見送りの人が佇むターミナルの屋上に届いたのは1回。妻はハナから無理と思ったのか、1回試みて終了。別離の光景に目を潤ませる女性客もいた。夫婦に見送りの人はいない。淡々と離岸を待った。
男には思い出があった。40年前のことであった。この大桟橋から18歳の従弟が外国の貨客船で米国に旅立った。大桟橋に立派なターミナルはなく、海に桟橋が突き出しているだけという印象しか残っていない。その代わり、見送る人が桟橋を埋め、テープが乱舞し、「蛍の光」が流れた。これに汽笛の音が重なった。一抹の感傷を覚えたものである。
男は今、桟橋ではなく船の上にいる。逆の立場となったが、海外旅行も船旅も物珍しさが薄れたレジャー全盛期である。貴重な体験は当たり前の光景となれば、風情は薄れる。
この船はデンマークで建造された船齢34年、32,265総トン、全長205m、全幅26,5mであった。ビルにすれば11階建て、4階以上が船客用、船員の居住区などは3階以下にある。主催者側はこの船を「本船」と呼んでいた。
☆飛鳥Ⅱは憧れの的
離岸して間もなく、「飛鳥よ!」と女性客の叫び声が船尾甲板に響いた。彼女の指先の方向に視線をやると、「飛鳥Ⅱ」が遠くに姿を見せ、着岸態勢に入っている。タグボートに押された純白の船体は陽光を浴びて美しい。船旅マニアなら一度は乗ってみたいと思う日本籍最大の客船である。50,142総トン、全長241m、全幅29.6m。12デッキ(12階建て)。これから年に一回の世界一周の船旅に出発するらしい。という。本船は一回り小さい。
飛鳥の乗客定員は872人、乗組員数は約470人。客船は乗客2人に船員1人の比率が理想といわれる。飛鳥Ⅱは水準を超えている。こちらは、乗客定員1422人に対して船員350人。理想からは遠い。しかし今航海の実際の客数は830人と聞いたから比率はよくなる。
飛鳥の客室はすべて窓付きの海側にある。本船は船体の真ん中に配置された窓のない客室もある。客船としては飛鳥にはとうていかなわない。当然、飛鳥の方が料金は高い。飛鳥乗船経験者の話だと、全費用は本船の2、3倍と見た方がいいという。
☆HPで流される客の様子
ビュッフェ式の昼食を終えると14時からは「ブロートウェイ」と名付けられた7階の劇場型ラウンジで船旅オリエンテーションが始まった。船室に戻って荷物を整理するゆとりもなく、会場に足を運ぶ。夫婦の船室はブロードウェイに最も近い。ここでは映画、講演、各種説明会が頻繁に開かれるので、顔見知りになった人からは「すぐ行ける」と羨ましがられた。
船内生活のあれこれの説明が終わりに近づいたころ、クルーズ・ディレクターが「お願いがあります」と語り始めた。「撮影されることが嫌な方は申し出て頂きたい」と。
理由はこうだ。船内のテレビやホームページ(HP)で折を見て航海途上の様子をテレビ・クルーが撮影して流す。イベントPRの意味がある一方、留守宅ではHPを見て安心できる効果もある。従って乗客は年中撮影されることになる。撮影拒否の人たちとは「例えば、家族や会社に無断で乗船した方」を想定していると。確かに帰国後のトラブルの種となりかねない。「さらに」と言葉を継いだ。「飛鳥Ⅱで船旅をすると言い残して本船に乗られた方も」。静かだった客席に笑いの渦が巻いた。(次回は「そして神戸」)
☆打ち解けるのが早い喫煙族
横浜港を出て一夜が明けた。夫婦は6時から後部デッキで行われた太極拳に参加、6時30分からモーニングコーヒーを飲み、7時からビュッフェ形式の朝食をとった。早朝から30分刻みのスケジュール、男の船旅のイメージは覆された。「ゆったりと時間が過ぎていく。それが洋上生活ではなかったのか」と。逆に、妻は家事労働から解放されて、<ゆったり気分>であったかもしれない。
男は妻と別れて、船尾の甲板に足を運んだ。8階のデッキになる。船底から2階までは海中に没しているというから、ビル6階から海面を見る形になる。男の目的は、広々とした海、流れる雲を楽しむのではなく、喫煙であった。オープンデッキ中央にプールとジャグジーが並ぶ。
いずれも防水シートで覆れている。日本はこれから冬に向かう。水遊びのシーズンではない。左舷側に折り畳み椅子と円柱形の灰皿を置いた喫煙スペースがある。すでに昨夜、挨拶を交わした数人の煙草好きが腰を下ろしていた。男は航海中、ほぼ毎日3回、朝、昼、晩と顔を出した。旅仲間であって、煙草好きという親近感から、打ち解けるは早かった。そこは、他愛のない話やダジャレが横行する談笑の場になる。
☆費用は妻頼み
「神戸はこんなに遠かったですかね」「そうですな」。
新幹線「のぞみ」なら新横浜から新神戸まで2時間半から3時間足らず。それが本船は神戸入港まで23時間かかる。時間距離に、この大差。それをしみじみと、まぁ実感している訳だ。
知り合った1人は、70歳の元銀行マン。「かみさんと一緒に旅行がしたくてね」が乗船動機だった。結婚してから34年、共稼ぎが長く、すれ違いが多かった生活は、60歳を迎えた奥さんが退職したことでピリオドを打った。すると「女房が、自分の退職金で船旅をしましょうと、言い出して」と。10歳年下の妻からの誘いは夫にとって渡りに船、喜ばしい提案であった。「だが」と彼は言葉を継いで「という訳で、頭が上がらない」と苦笑した。
男の立場とて似たようなもの。費用の捻出は妻が父親から相続したものが元手であった。言い出したのは妻ではなく男であった。夫婦の関係で言えば、元銀行マンより男の分は悪い。妻に頭をもっと下げなくてはならない。
☆105日、1日2万円弱の計算
この夫婦の費用はどのくらいなのか。船室と3食を確保する「船旅料金」は、船室の種類によって差がある。夫婦の選んだツィンのペアタイプ「GスタンダードⅡ」は1人238万円。船旅の相場は1日2万円が相場と聞く。今回は航海日数105日なので1日2.26万円強になる。男は「安い方がいい」と「早期割引」を申し込んだ。出発の一年半前に振り込むと60万円安くなるのだ。178万円を事前に支払った。これにビザ取得などの「諸費用」として約23万円を加算すると201万円となった。1日約1.9万円強。相場を若干下回った計算になる。
☆選択に迷うオプショナルツアー
ドリーム号は横浜港を出て横浜港に戻る。この間の支払いはこれで済んだ。
さらなる出費は上陸後の観光の費用だ。出発半年前に「オプショナルツアーのご案内」と題するA4判、103頁の冊子が送られてきた。寄港地ごとの観光コースが掲載されていた。もっとも単独自力で異国を歩き回るという人ならこの冊子は要らない。しかし、異国での単独行動は男には無理である。未熟な英語力に加えて体力など、すべてにわたって自信がない。事故や強盗に襲われるなど事件に遭遇した場合、妻を守ることは不可能に近い。いや、自分も危ない。通訳や主催側スタッフが同行するオプショナルツアーに参加した方が安全だ。
という訳で、冊子に紹介されていた17寄港地合計186のコースの中から、寄港地ごとに1コースを選択することになった。南米ペルーのカヤオでは23コースもあった。目移りして、選ぶのに一苦労した。
高額なのは「オーバーランドツアー」。いったん本船を離れて飛行機を利用して各地の名所を見物した後、本船に合流する。客船は朝入港、夕方出港が原則なので、本船に戻る港はかなり先になる。例えば、13日間の旅程の「南極半島と南シエトランド諸島をゆく」、利用者は南米アルゼンチン・ウシュアイアで下船し、本船がチリ・バルパライソに立ち寄った後にペルー・カヤオ港に着いたところで合流するプランだ。最低料金は67万8千円。早期割引で浮いた60万円は、この1コースを選択すると吹っ飛んでしまう勘定になる。
☆マチュピチュなど3コースを選択
結局、男の選択は日帰りコースを中心にして、船を離れる「オーバーランドツアー」は、2、3日程度の南アフリカのサファリ体験、南米のイグアスの滝、マチュピチュ遺跡の3コースにとどめた。
選択したコースの全費用は1人当たり68万円となるが、このツアーは航海中にキャンセルが効き、全額払い戻しの場合もある。というので、正確な支出は旅の終わりにならないとわからない。
出費はまだある。これ以外に任意だが「海外旅行保険」もある。夫婦は海外旅行では、手持ちのカードに自動的に付帯している保険で済ましていた。だが、105日間という長期間、犯罪多発の国々も訪問することを考慮して申し込むことにした。
この手続きで補償内容が「70歳」で変わることを教えられた。簡単に言えば70歳以上は不利と言える。二人は実年齢69歳。辛うじてセーフ。
☆船員の国籍は20カ国
本船は11月22日15時、神戸港に接岸した。横浜乗船組は下船禁止。「神戸ビーフが食べたい」という不満の声が漏れたが、出航までには4時間しかない。乗り遅れが出たら主催者側は困る。また国内観光は旅程に含まれていない。神戸下船はわがままな希望だ。
主催者側によると乗客は東京から東日本中心に約500人、この神戸からは関西、九州を中心に約330人、合わせてざっと830人。うち外国人は6人。日本人一色と言っていい。最高年齢は91歳の男性、最低年齢は祖父母に連れられた6歳の男の子。全体の4割は繰り返して参加する「リピーター」という。「人生で一度は経験したいもの」と乗り組んだ男にとっては驚くべきリピーター率だった。ちなみに、この男の子は2度目という。
船員は350人。船長はギリシャ人、副船長はブルガリア人とパナマ人の2人、という具合で国籍は20カ国に及ぶ。日本人は総料理長と副料理長の二人のみ。こちらは外国人一色である。チップが文化の国々の人々。対して日本は正反対。「諸費用」には「チップ」の項目があり、52,500円、1日500円相当を事前に請求された。払ってしまえば、船上でチップは不要という話だった。チップに不慣れな日本人にとっては致し方のない出費なのだろう。
☆大音量の出航式
17時40分からは出航式。夫婦はデッキに出た。前日は慌ただしく横浜の出航式には参加していない。テープをターミナルに投げただけであった。右舷側の10階や11階のデッキに客が集まっている。グラスとシャンパンが配られて、全員で前途を祝して乾杯。
次に右舷9階デッキに音響装置が据え付けられた。タグボートがドリーム号を押して離岸する。それに合わせて音楽が流れる。「蛍の光」ではない。高齢者に不向きなリズム、そして大音量。乗客の対応を引き受ける2、30代のスタッフたちを中心にダンスが始まった。体をくねらせての流行の踊り。60代超の世代には無縁の雰囲気だ。
「退散だ」と男は下のデッキにおりた。8階の喫煙スペースに着くと、一回り年上と思しき男性が杖を手に悠然と椅子に腰を下ろしている。神戸乗船組の一人だが、青森在住の81歳という。「青森から横浜を素通りして、わざわざ神戸まで来て乗船?」と質問した。
訛がきつく、聞き取りに手間取ったが、こんな趣旨だった。
横浜で乗る予定で、前日に東京駅近くに宿をとり、翌朝、東京駅から京浜東北線で横浜に向かったつもりだった。ところが、逆方向の大宮駅に着いた。乗り間違いに気づいたものの、戻っても出港時間に間に合わない。仕方なく、新幹線で神戸に行って1泊、本日、晴れて乗船という。地球一周の船旅参加は今回で8回目。でか「こんな体験は初めて」と笑った。旅につきもののハプニングは横浜港から始まっていた。(次回は「南シナ海でスー族結成」)
☆オープンデッキの強風
1月26日正午、「オーシャンドリーム号」(以下、ドリーム号)はフィリピン・ルソン沖を航行中だ。東ナ海を経て南シナ海へ。青い空と海。海面は陽光を照り返して眩しい。が、オープンデッキに出た男は面食らった。首から下げていたIDカードホルダーが宙に舞い、左右に飛んだり、背中に回ったり。海上をふき渡る風がきつい。歩くことさえままならない強風。
男は慌てて船内に逃げ込んだ。風に圧力をかけられたドアは開け閉めに力がいる。下手をするとドア口で指が挟まれて痛める。客船内の事故というと、この災難が一般的という。事実、この日、米国在住、70歳の日本人男性は、右手親指を挟まれてしまい、爪が暗褐色に変色してしまった。
☆IDカード紛失
船室に戻って一息ついた男は、妻が驚くほどの大声を上げた。ホルダーはもぬけの殻、名刺サイズのIDカードが消えていた。このカードは船内での買い物、3食以外の飲食に必須のもので、キャッシュカードと直結している。顔写真付きなので他人に使われる心配は少ないと踏んだが、人に打ち明けるのは恥ずかしい感じがしない訳でもない。ともかく紛失というのは、気分がよくない。
5階のレセプションに行って、新しいカードを作ってもらった。受付の女性は手慣れた様子で、説明してくれた。「10桁の通し番号は、11桁に変更されています。前のIDカードは使用停止にしましたし、もし発見されても、使えません。ご安心ください」
さらに6階のショップで新しくホルダーを購入した。商品名は「名札用ケース、特大サイズ、チャック式」。店員の女性は「よくありますよ。カードは海に飛んで行ったのでしょう」。自分だけの失態ではないらしい。男は一安心した。
役に立たなかったケースは、チャックなし。ホルダーというのに保持機能が脆弱だった。事前説明会で会った乗船体験者の「安いから」との勧めに従って、地元の百円ショツプで購入したものだった。しかし、このささやかな節約の結果は、逆に三倍の支出を生んだ。カード再発行は150円、購入したケースは150円である。<安物買いの銭失い>の類だろう。
☆喫煙席が増えた
横浜を出て5日目。洋上生活のリズムに慣れてきたころであった。
船尾にある喫煙スペースには人の出入りが激しくなってきた。神戸乗船組からの参加に加えて、東京乗船者も船室の整理や船内探索も一段落してゆとりが生まれたためらしい。このデッキを担当するインドネシア人の青年船員は折り畳み椅子を10席から20席に増やした。利用者は50人を超え、6、70代が主力だった。甲板上の“懲りない面々”の話を続ける。
もちろん男も、その1人。このころには20数人と顔なじみとなった。たいていは、退職した無職の身、名刺交換もなく対話を積み重ねていくうちに親しさを増していく。誰からとなく「グループの名前を付けよう」ということになり、東京でOL生活を送り、定年後に鹿児島に移転した62歳の女性が提案した「スー族」が採用された。吸わない人は「スワン族」。子どもじみた話ではある。ただし、「スー族」は喫煙スペースに頻繁に顔を出す乗客の集まり。排他性はなく、煙草を吸わない人たちも加わっていた。例えば、大阪在住の72歳の男性は「私は禁煙します」と印字した名刺を配っていたし、「もともと吸わない」と言う山形の76歳の男性は「夜、楽しそうに話しているから」と仲間入り。袖振り合うも他生の縁という。
☆旭山動物園長の船上講演
主催者側が船上講演を依頼したゲストの1人も顔を出した。神戸から初の寄港地、ボルネオ島のコタキナバル(マレーシア)まで乗船した北海道・旭山動物園の坂東元・園長。50歳だが、髪を茶に染め、日焼けした顔、短パン姿で若々しい。「死んでも禁煙しない」とは言わなかったが、大の煙草好きであった。同園は、廃園危機から「動物の行動展示」を打ち出し、激減していた入場者をV字回復させて知名度抜群。そのトップなのに衒うことなく、語り口は実直そのもの。獣医でもある。動物の生と死を冷静に、かつ温かく見守る姿勢を貫いた数々のエピソードは、3回の講演会で紹介された。例えば、オラウータンのメス「リアン」を東京・多摩動物園から受け入れたオス「ジャック」と見合いさせて自然分娩に成功した話。飼育者側の大手柄と言えるが、坂東園長が語ると鼻に付かない。自慢話に聞こえないのである。そんな人柄が人を呼び、会場となった船内最大の劇場型ラウンジ「ブロードウェイ」(7階)は毎回満員の盛況であった。
☆情報源は船内新聞
乗客が講演会や各種イベントを知るのは船室備え付けのテレビ放送もあるが、手に持って歩ける船内新聞が最大の情報源である。船内新聞は1日分がA4の時もあるが、大半はA3の大きさで航海中は毎日発行。表面の題字は「第86回クルーズ 船内新聞」。その下に、移動する船の位置によって変わる「日の出」「日の入り」の時刻が記されて船旅らしい。避難訓練、オリエンテーションなど各種お知らせ、ゲスト紹介の記事、顔写真つきで船客を1人ずつ紹介する欄などもある。裏面は3か所のレストランの営業時間と「ブロードウェイ」など各所で開かれるイベント企画の予定が掲載されている。
☆朝の日程、“婦唱夫随” といかず
毎朝、新聞を見てその日の行動を決定する人が少なくない。男の妻もその1人。すでに朝のパターンは確定していた。ちなみに、横浜出港から6日目のこの日は、6時から太極拳、6時30から15分のラジオ体操、続いてモーニングコーヒー、7時から朝食、8時15分から社交ダンスといった具合である。
男は妻に従った。しかし<婦唱夫随>は、長続きしなかった。
まず、後部デッキで開催される太極拳。参加人数が多すぎてインストラクターの動きがよく見えない。初体験で覚えようと意気込んだものの、「これは向いていない」と7日目でリタイア。ついでにラジオ体操も省略した。従って男の1日の始まりは朝のコーヒーから、となった。
社交ダンスは、大学1年生のころ半年ほど初歩を習った。だが半世紀も前の話だ。リズムに乗った手足の動きはなかなか揃わない。当初、相手をしてくれた妻からは「やっぱりうまい人と踊らないと上達しない」と「三下り半」を突き付けられた。この言葉は、夫が妻にあてる離縁状のことと言うから、この夫婦の場合は逆だ。男の次の相手はすぐ見つかった。船旅の前に行われた乗客懇親会で知り合った40歳の女性が親切にもペアを組んでくれた。ところが彼女も初心者、言ってしまえば下手同士、当然、進歩はない。男は「これも向いていない」と2週間ほどでやめた。
その代わり、ウォーキングを始めた。10、11階のオープンデッキを10週する。反時計周りがルールであった。朝、船室を出てからは男と妻の行動が違ってくると、食事時間はズレ始め、別々にとることとなった。
☆「地球一周」は何回目?
食事場所は3か所、いずれもビュッフェ形式。メインは和食系中心の4階「リージェンシーレストラン」、あとは9階中央の「リドエリア」と同階後方の「ビュッフェレストラン」で、洋食やエスニック系料理のほか、たまにはラーメン、蕎麦も出る。
4階のレストランが一番広く一度に約500人は収容できる。正式な晩餐「フォーマルディナー」もここで行われる。シャンデリアの下には12人が座れる丸テーブルのほかに、4人から8人ほどが着席できるボックス席がある。客がトレーに料理を盛り終えると、控えていたスタッフが1人ずつ丁重に客席に案内する。スタッフはフィリピン、インド、インドネシア人で日本人はいない。日本語で会話できるのは席に着いてからだ。初対面の人ばかりだが、ほっと一息ついた客同士の雑談が始まる。
男の最初の質問は「地球一周の船旅は何回目ですか」が定番。男と同じく初乗りの70代女性は20年前から夫婦乗船を夢見てきたという。「息子が大学生のころ参加して、年配者が多いからお母さんたちも大丈夫だよと言った」ことがきっかけ。だが、夫は腰痛が激しく断念、一人乗船となった。「夢は半分叶ったということですかね」。
リピータ率は40%だから、丸テーブルにはたいてい複数回以上の体験者がいる。初参加組からたいていは「どうして何回も乗るのか」と聞かれる。異口同音に「気楽だから」と答える人が多かった。一例を上げると船旅につきものの「ドレスコード」はルーズ、服装を整えて臨むフォーマルディナーにTシャツにサンダル姿で現れる人もいたのである。(次回は「脅える煙草好き」)
横浜を出て11日目、夫婦はシンガポールにいた。
12月1日というのに陽光は眩しく暑い。
面積は埋め立てで30年前より20%増えたというが、外務省のデータによれば面積は東京の23区と同程度、人口は約540万人の小国である。
2人にはこの国に思い出がある。4泊5日の海外旅行で33年前に訪れた。この時はマレーシアにも足を運んだが、シンガポールの方が印象に残っている。2人とも30代半ば、思えば若かった。
オーチャード通りの近くにあった外壁を白く塗った石造りの瀟洒な建物のレストランに入った。客の姿はなく、天井に据えられた大きな扇風機がゆっくりと回っている。室内は静寂そのもの。一瞬、場違いな空間に紛れ込んだと思い、自分たちには「高級すぎる」とひるんだ。
食べたものが何であったか、今では記憶から抜け落ちてしまっているが、初老の中国人ウェイターのことは覚えている。純白の制服に身を包み、左腕に真っ白なナフキンをかけて足音もたてずにテーブルに近づいてきた。我々の前に来ると、腰を軽く折った姿勢になってカタコトの英語にじっと耳を傾け、注文を確認してから、「イエス・サー」と言い残し、また静かに去っていった。物腰はやわらか、あらゆる動作が丁重そのもの。これは英国統治時代のよき名残りなのではないか、と感じ入ったものである。
インド人街にも顔を出した。日傘兼用にと傘を1本求めた。サリー姿の若い女性店員のにこやかな対応に気分よく青い色のものを購入した。結婚して12年目、久しぶりの相合傘で歩き出して数分後、スコールに遭遇した。妻が「あなたのYシャツが青く染まっている」と言う。傘の塗料が雨で溶けだしているではないか。妻のブラウスも青色の斑点模様となった。
似たような話は今回も聞いた。愛煙仲間「スー族」の一人、68歳の男性は3日前に入港した初の寄港地・ボルネオ島コタキナバルで、6千円相当の運動靴を買った。ところが、「1日履いたら靴底がはがれて使い物にならなかった」と嘆き、仲間の笑いを誘った。
夫婦は9時半に船を下りた。
かつて見た街並みは様変わりしていた。立ち並ぶ高層ビル、地下鉄、高速道路。港湾施設も整備されて巨大なガントリークレーンが林立している。コンテナーは9段積みである。「日本では4段積み。地震があるからです。ここでは地震の心配はありませんから」とガイド歴27年の日本人女性。ちなみに高層ビルも耐震構造ではないという。
シンガポールの取り扱い貨物量は6年前まで世界第一位だった。いまは上海についで世界第2位。世界の流通ハブ拠点であることに変わりはない。地理的条件もあろうが、4段積みがやっとの国と、9段積みが当たり前の国との貨物量の差は明白。横浜港など日本の主要港の地盤沈下もうなずける。
埠頭には船客を乗せるバスが20台ほど並んでいた。壮観であった。
シンガポールでのオプション観光コースは、9つ。夫婦が選んだのは「昭南島の歴史を学ぶ」。昭南島とは、第二次大戦中、日本軍が占領した時期にシンガポールにつけた呼び名だ。このコースの参加人数は40人。チャンギ博物館、日本人墓地、血債の塔、マーライオン公園を回る。
博物館の展示は、日本人が知らない日本軍占領の歴史を伝えている。市民の首を晒した写真などのほかに「シンガポールのシンドラー」と讃えられる日本人FUJISAKIの紹介バネルもあってどこかの国の展示とは違った視線が感じられた。年配者が多い参加者の中で目を引いたのは10代から20代の女性3人。展示物にショックを受けた様子だったが、若い世代が、他国の人が見る「日本の歴史の一断面」に触れることは、彼女たちの未来に何らかの価値をもたらすのではないか。
血債の塔は、「日本占領時期死難民記念碑」と言われる。ここでは皆で黙祷をした。からゆきさんたちの墓もある日本人墓地。廟は中国人が守っている。今は2代目。周囲に白眼視されながら供養を続けた父親を継いでいる。男は、この親子の存在を脳裏に刻みこんだ。墓地の周囲は高級住宅に囲まれていた。国土の狭い、この国では一等地である。ガイドは「政府からの借用期限が迫っている」という。
さまざまなことが男の胸に去来した。
ツアー最後のマーライオン広場で男は煙草に火をつけた。もちろん灰皿がある場所である。すると、40代とおぼしき中国人男性が話しかけてきた。ツアーガイドで雲南省からシンガポールとマレーシアの旅に中国人旅行客を引率して来たという。男の感覚から言うと、雲南省はミャンマーに接する奥地ではないか。都市と地方の格差か話題になる中国だが、地方でも豊かになった人たちが増えているという証左なのか。
ところで、喫煙に厳しいのがシンガポール。日本人愛煙家からは敬遠されている国だ。しかし、地球一周となるとシンガポール立ち寄りは避けられない。寄港前日の事前説明会では「煙草は1本から課税、チューインガムは禁止」と言われた。男は義歯を使うようになってから、チューインガムを敬遠している。入れ歯に固着して楽しめない。
しかし煙草のことは気になる。説明会後に船の後部デッキの喫煙スペーに立ち寄ったクルーズ・ディレクター、38歳の男性の話は強烈なパンチだった。
「2年前にひと箱とライターを没収された」。
この話に愛煙家グループ「スー族」は狼狽した。
ライターが駄目となるとマッチしかない。男は百円ショップで3箱購入していた。1箱は自分用、2箱は仲間の女性に分けた。さらに1本ずつ課税されてはまずいと、日帰り観光中に必要な最低本数だけ持つことにした。大騒ぎである。
そして本日朝、恐る恐るの上陸。船の5階舷門からターミナル2階に入り、入国審査、手荷物検査を経たが、ご下問はない。拍子抜け、フリーパスであった。「没収がないのは、たまたまということか」と疑問に思いつつ、バスに乗り込んだ。さらに、である。マーライオン広場では、灰皿がここかしこに置いてある。喫煙族にとっては、いい意味で話が違った。
夫婦は16時半、帰船した。夕食までは間がある。男はスー族のたまり場に急いだ。航海中は顔なじみが集まり、いろいろな情報を持ってくる。この日は、女性陣から異なる話がもたらされて男性陣を驚かせた。
4人部屋の女性たちが3対1に分かれて、のけ者になった1人を追い出す「事件」が2件あったというのである。事実を確認はしていない。しかし、ありそうなことだと思う。
4人部屋は男女別である。男は男性用をのぞいたことがある。ペアタイプの船室に2段ベッドを2つ持ち込んだと言えばよいか。「狭い」と感じた。
利用者は、お互いに初対面の人たちがほとんど。相性がよければいいが、そうはいかない場合もある。いったん人間関係が崩れると、居たたまれない9人が出てくることは容易に想像できる。
仲間外れにされた1人は、3人しか利用していない4人部屋に移れればいいが、1人部屋や2人部屋に移るしかないとなると追加料金を請求される、という。
この2件はどうなったのか。結末はわからない。男性の4人部屋で似たようなトラブルがあったという話は航海中、耳に入ってこなかった。
もちろん、悪い話ばかりではない。4人部屋はペアタイプより安いので、夫婦で乗船しても、夫と妻、別々に4人部屋を利用する人たちもいた。これを実現した奥さんは「2人で2百万円は節減できた」と言っていた。
船酔いが激しく、シンガポールで下船して帰国した女性が1人いたという情報もあった。
男の妻も乗り物に酔いやすい体質である。イタリアの景勝地アマルフイーに向かう海沿い道は、日光の「いろは坂」に似ていた。バスは大きく左右に揺れながら進行した。街が見えだしたときに妻は吐いた。タイのリゾート地・プーケット島ではシュノケーリングをするために小舟に乗った。このときも酔った。舟縁で海に吐き出してものは熱帯魚の餌となった。もっとも、これは体質だから、どうしようもない。いつどこで不快感に襲われるのかは本人もわからない。心配してもどうしようもない。男は出たとこ勝負と腹をくくった。(次回は「海賊対策のお知らせ」)
シンガポールを出た翌日の12月2日、客船「オーシャンドリーム号」(以下・ドリーム号)はマラッカ海峡を北上していた。コンテナ船や貨物船が次々と姿を現し、この海峡が重要な海の交通路であることを示している。ドリーム号はスマトラ島北端から南西に航路を変えてインド洋へ。目的地はモーリシャスのポートルイス、第3寄港地となる。
夫婦は10階のオープンデッキから、陽光を照り返す海面に白い軌跡を残して海峡を往来する船影を眺めていた。同じころ、9階中央部プールエリア左舷側では救命胴衣を着た船員が整列してギリシャ人船長の訓示を受けていた。ここもオープンデッキなので10階のデッキから上から目線で様子を見ることができる。シンガポールでは350人の船員中、100人が入れ替わった。整列しているのは新しく乗り組んだ船員である。
さっそく新人たちの避難訓練が行われ、船長は自ら船員の間に分け入ってこまごまとした注意を与えている
「この船長は、最後まで乗客を守る責任感が感じられる」と、たまたま隣り合わせで見物していた白髪、チョビ髭の男性が、こちらに同意を求めてきた。うなずく間もなく、彼は「いつも無愛想なキャプテンだけど……」と付け加えた。
この人、地球一周の旅は2回目。慣れた様子でデッキのあちこちを歩き回っていた。常に首からカメラを2台ぶら下げ、プロのカメラマンといった風情だが、カメラ好きの素人。かなり先の話になるが、南米の某国で現地警察官に一時拘束された。警察署の内部を外から撮影したため、不審者と見られたためという。おっちょこちょいの人でもあった。
船長はでっぷり太った男性で、白髪まじりの顎髭がトレードマーク。夜、居酒屋と名付けられたレストランの一角で部下の上級船員たちと煙草をふかしながら雑談している光景を数回みたことがある。が、笑顔を見せたことがない。客に会釈することもない。そこで「不愛想」という評価が出てきたらしい。
キャプテンは、24時間、安全航行に気を配り、20カ国の船員を統括する。緊張を強いられる職務である。客との対応は主催者側の日本人スタッフに任せてマイペースを貫くことも致し方ない。乗客の安全を第一に考え、避難訓練に力を入れているならば「不愛想」も許されよう。
2年前の1月、イタリアで死者32人を出した客船「コスタ・コンコルディア」の座礁・沈没事故では、船長の行動が指弾された。船長は乗客より先に避難、港湾当局から「船に戻れ、バカ野郎」と怒鳴られた。たとえ、愛想がいいとしても、こんな無責任なキャプテンは願い下げだ。
12月6日の船内新聞に「海賊対策のお知らせ」という題で「本船は明日から12月10日頃までの間、海賊警戒海域付近を航行します」とあった。ソマリア海賊は知っているが、ドリーム号は、ソマリア沖から、はるか南の海を通過するのではなかったのか?。男は首を傾げた。しかし、最近は100トンほどの母船にヤマハの船外機を2基つけた木造ボートを繋ぎ、カラシニコフ銃やロケット砲を武器に活動領域を広げているという。
船内新聞には、船長の指示により、12月7日に予定された「夏祭り」は延期、急きょ避難訓練を実施すること。さらに10日までの4日間、日没から日の出までの夜間は、オープンデッキ、公共スペースの灯火は消され、オープンデッキは「一部を除いて」、何人も出入り禁止とすること、窓付きの船室では光が漏れないようにカーテンを閉めることも記されている。
「灯火管制」は、夜の海で海賊にドリーム号の存在を知らせないようにし、「出入り禁止」は、万一、賊が船体をよじ登ってオーブンデッキに侵入しても、乗客たちが拉致される危険がないようにしておく措置である。それにしても、これは緊急事態ではないか。
と言っても乗客側の危機感はいまひとつ。愛煙家グループ「スー族」の大きな心配事は8階の後部オープンスペースに出られないこと。夜間喫煙は出来ないのだ。しかし「出入り禁止」を免れた9階中央プールエリアが救いの場となった。喫煙席は、その右舷側に移動した。仲間の顔も判然としない真っ暗闇の中、声を頼りに雑談しながら吸う煙草は乙な味がしたものだ。
12月7日9時15分、船長の野太い声が船内に流れた。「ブラボー・タンゴ」と2回。続いて汽笛の短音が5回、さらに耳障りな非常ベルが響いた。
海賊襲来の合図だ。同時に船内各所に散らばった乗客は各自の船室に戻ることになっている。避難訓練が始まった。とは言え、乗客は船室に閉じこもって待機することがすべて、である。夫婦は、7階「7004」の自室に戻り施錠して、カーテンを閉めた窓から離れたベッドの端に腰をおろした。ドアの外の廊下を船員たちが各自指定された場所に走る足音、船室区画への賊の侵入を防ぐ分厚い鋼鉄製のシャッターが下がる音を聞きながら、訓練が終わるのを、とにかく待つしかない。
やがてシャッターが上がる音がして、船長の声が船内放送で流された。続いて、「本船事務局長」の肩書を持つ日本人男性が日本語で訓練の終了を伝えた。正味15分の訓練だったが、やたら長く感じられた。
事務局長は67歳。15万トンの鉱石運搬船の一等航海士や船長も経験している人で、25年前に海賊に襲われ、発砲された体験を持つ。「船長はジグザグ航行をして海賊を振り切った。安全になってから気づいたが、船長室に隣接した自分の部屋に銃弾の跡があった。もし船室にいたら危なかった」と語る。
想像するにこんな感じだったのか。
<闇に紛れて近づいてきた海賊船から、ブリッジに向けて銃弾が放たれた。非常事態発生!。だが無防備の民間船が打つ手は限られる。船長はただちに速度を上げ、進路を右に左に変えるように指示、同時に全乗組員に急を告げる汽笛を船中に響かせた。船体は右に左に揺れる。波を起こして、追尾する強力エンジンを備えた海賊船の進行を妨害する、キャプテン必死の作戦であった>
事務局長の現役リタイアの時期、地球一周の旅にかかわるようになった時期については聞きそびれた。髭がトレードマークの海の男である点はギリシャ人船長と同じ。だが不愛想ではない。笑顔を絶やさない。航海中に適宜、開催された「航路説明会」では、真っ先に壇上に上がり、船のあれこれを易しく説明、8階右舷側の通路にある表示板に一定海域をカバーした海図に毎日航路を記入したり、船の進行に合わせて次の海域を示す海図に取り換える作業をしていた。その際に集まってくる乗客の質問にひとつひとつ丁寧に答える人だった。海図は英国海軍発行で1枚1万8千円から2万円する。1度だけ盗まれたことかある。それでも目くじらを立てることはなかった。
12月11日7時、ドリーム号はモーリシャス共和国の首都ポートルイスの港に入った。共和国は人口130万人。「インド洋の貴婦人」と言われ、アフリカ諸国より治安がよく世界トップクラスのリゾート地とパフンフレットには紹介されている。現地ガイドによると医療費、教育は無料と言う。この話が事実ならば、日本より進んでいるではないか。
ともかく海賊の危険は去った。この寄港地で用意されたオプションは11コース。夫婦は「モーリシャスの海でのんびり」コースを選択していた。参加人数は79人。何班かに分かれてバス、グラスボートを乗り継いで離島に着き、海水浴とバーベキューを楽んだ。バンド演奏もあった。欧州スタイルのレジャーなのだろう。離島での海遊びはシュノケーリング。熱帯魚は期待したほどの群れは見られなかった。透明度と魚の数なら沖縄・慶良間の海の方が数段、優れている。
ドリーム号は20時、出港した。出港式は高齢者に不向きな大音量の音楽とクニャクニャ・ダンス、いつもドンチャン騒ぎだ。スー族の煙草好きたちは顔をしかめながら我慢するのであった。それが大人、いや老人の分別なのか。(次回は「兵士の護衛付き観光」)
モーリシャス・ボートルイスを出て翌12月12日朝、後部デッキの最後部に立った。赤道を越えたのは一週間前。全身に浴びる太陽光線はきつい。見渡す限り船影は見えない。波は穏やかである。船は群青の海を前進中。海面を白濁させて真っすぐ伸びる航跡。遥か彼方の地平線は淡く曲線を描き、大空は青一色、真っ白な雲が点々と浮かんでいる。船体にわずかな振動を与える左右2基のエンジン音が心地よい。
海賊を警戒した「出入り禁止」が解かれた船尾8階オープンデッキ左舷側に喫煙愛好家たち「スー族」の面々が顔を出し、椅子に腰かけて雑談をいつものように始めた。
若者たちの掛け声が青天井の10階スポーツデッキから降り注いできた。鉄柵の囲いの中で各種の球技が楽しまれている。広さはバスケット・コートの半分弱ほど。この朝はサッカー教室の練習だった。スー族の1人、66歳の山形県人が指導役を買って出ている。少年サッカー指導歴25年というから適材だ。「マダガスカルの子どもたちと親善試合をする予定なので、みんな気合が入っている」と喜んでいた。
この人のように船客自ら「教室」の先生役に名乗り出るケースが多く、夫婦を驚かせた。「ピースボート」(以下、PB)は、先生も生徒も客同士という教室を、「自主企画」と呼んで希望者を募っていた。PBは申請を受けて中身を審査して開催場所と利用時間を割り振り、必要ならばマイクなどの音響、映像装置などを提供する。場所は7階と8階の計17か所、時間は1コマ45分から1時間が一般的であった。これが船内新聞に日々掲載される。例えば横浜を出て15日目の12月5日の場合、6時から22時までの時間帯で、主催者側企画を入れて全企画数は82コマ、このうち自主企画は48コマ。半数を越えていた。
内容は百花繚乱。囲碁、将棋、麻雀は当たり前、マジック、合唱、ウクレレ、オカリナ、詩吟、着付け、英会話、スポーツ、講演などテーマを上げればきりがない。人に教えたいという欲求を持つ人は、趣味や特技を生かせるうえ、「先生」と呼ばれる快感を得られる。PBは「この船旅だけの醍醐味」と胸を張る。「講師のギャラなし企画ではないか」と目くじらをたてるのは野暮というもの。客同士の交流のきっかけも作れる。
とは言え、自主企画に関心を示すことなく、太陽が照り付ける最上階、11階「オーシャンビューエリア」で甲羅干しをして適宜、同じデッキにあるジャグジーを利用、10階の有料サウナで日中の仕上げをする人もいる。参加しようが、しまいが自由である。
男の妻は折り紙教室での万華鏡作りに夢中になった。男はつまみ食いタイプ、気分が向くと見物、というのが正しい。第2の寄港地ボルネオの報告会というのもあった。8階のフリースペースが何か所かに区切られ、隅の一角で他の教室と同時に行われていた。講演する年配男性は、見得を切って話を締めくくった。「サンダカン娼館もありました。本の題名にもなりましたね。著者は有名な山崎豊子さんです」。年配女性数人が「へぇ~そうなの」と感嘆の声を上げた。題名は「サンダカン八番娼館」、著者は山崎朋子さん、が正しい。「半可通は怖い。自戒すべし」と男はつぶやいた。
「オーシャンドリーム号」(以下、ドリーム号)は翌12月13日6時、マダガスカル共和国のトアシマナ港に到着した。ドリーム号はこの港で1泊する。ここでのオプションは「サッカー交流」など16コース。人気の的はテレビ番組でよく目にするバオバブ街道。一泊して夕陽と朝日に照らされる巨木を鑑賞するコースもある。
夫婦は、参加者106人のバオバブ観光日帰りコースを選んでいた。マダガスカルの面積は日本の約1.6倍。島の東側に位置するドリーム号停泊地最寄りの空港から1時間10分、島の西側のムルンダヴァまで飛んだ。到着後に昼食。ボックス形式の弁当箱の中はスカスカ。中身は揚げ物とパン3切れ、果物が入っていたが、湿気と猛暑もあって食欲不振、手が出なかった。ここから中型バスに分乗して目的地に向かった。
街道はむき出しの赤土。沿道に樹齢は半世紀以上というバオバブが立ち並ぶ。幹は太い。幹の周りを大人が両手を繋いで囲もうとすると、樹齢千年の幹は8人の協力が必要だ、という。高さは約30メートル、頂に枝葉を蓄えている。気の遠くなる樹齢を持つ異形の巨木の林立に圧倒される。強い日差しの中で散策する我々一行に子供たちが近づいてきて物乞いをする。1ドル紙幣を渡した年配女性は「子供たちが奪い合って喧嘩を始めた。安易なことをした」と反省していた。地元の住まいは掘っ立て小屋。現地ガイドは「水道もガスも電気も通っていない」という。国から見捨てられたような生活環境だった。
翌日、この日のオプションを申し込んでいないスー族の2人の男性は、船尾デッキから美しく見えたビーチに海水浴に出かけた。
男と妻は、森林破壊で絶滅の危機にあるキツネザネやカメレオンなどを保護しているトアシマナの動植物保護公園とバザールの観光を選んだ。105人が参加、ミニバス3台一組のグループに分かれて回ったが、車列の前後に兵士を乗せたジープがついた。バザール見物では、若い男と女の兵士がジープをおりて、我々の買物を見守る。治安が悪いということだが、不思議と恐怖感はない。黒光りする機関銃を持つ兵士の表情はあどけなさが残り、緊張感を感じなかったからかも知れない。
主な売り物はバオバブを材料とした民芸品。夫婦は家で「断捨離」中。モノを捨てることに集中しているから、買物に魅力的を感じない。民芸品は手から落としたらすぐ割れる代物であった。
帰船すると、スー族のたまり場に海水浴に出かけた2人が待ち受けていた。ひとりは神戸乗船組で「禁煙中」との名刺を配っていた72歳、もう一人は地方の科学技術大学を退官した元教授66歳。異口同音に「ゴミが散乱していて汚い。泳ぐ意欲がわかなかった」という。船に戻ると、スー族はそれぞれの観光コースの感想を語り合うようになっていた。この日の2人には、それ以上、語るべきものはなかった。
ドリーム号は12月14日20時、アフリカ大陸に向けて碇をあげた。次の寄港地はモザンビークのマプト。入港予定は4日後である。
この4日間が大変だった。
萎れた表情の乗客が目立ち始めた。原因の大半は下痢。サッカーで現地の子どもたちと交流した若者たちも例外ではなかった。2、30代の男女48人が参加したが、「健康だったのは数人ですよ」と喫煙スペースに顔を出していた男子は後にゲンナリとした表情で語っていた。彼自身は「尿意が頻繁に起きて、3日間、部屋に籠った」。
出港2日目から夫婦もおかしくなった。夕方から男は下痢症状を呈し、妻は発熱と嘔吐だ。妻はベンザブロック2錠を飲んだが、吐き出してしまった。妻の熱を下げたい一心で男はトイレの合間に7階自室と製氷機がある8階を5回往復した。氷嚢代わりに、氷をタオルに包んで妻の額にあてた。幸い翌日夕には回復した。一方、男の症状は船室に監禁状態となる重度ではなかったものの、正露丸はきかず、その後も、漏らす恐怖に苛まれた。体力、気力ともに減退、毎朝の日課であったデッキ10周ウォーキングを止めてしまった。
知ったところで、症状が改善する訳ではないが、原因がマダガスカルにあるのは確かだった。スー族の間では、弁当、現地での料理などとさまざまな意見が飛び出した。仕事の関係で水質に詳しい69歳の男性が「きっと水ですよ」と断言した。「日本の水道水の品質は世界一。日本を離れたら、だいたい質がよくない。日本人はやられやすい」。この人も下痢に悩んでいた。旅疲れ、熱暑の日々、胃腸は弱り、抵抗力が落ちているのは確かだ。
となると、船上だから安心とは言えない。ドリーム号は寄港するたびに大量の飲料水を購入するからだ。男はシンガポール出港後に聞いた喫煙仲間の64歳の女性の話を思い出した。ブラウンに染めた頭髪にいつもサングラスを乗せている佳人、とても60代には見えない。気楽に言葉を交換する女性だから人気を集めた。「船の水が合わなくなって、船内のショップでベットボトルの飲料水を購入することにしたの」。この体調管理で、彼女は今回の下痢を免れていた。男は彼女の方式を真似してみた。しかし、劇的効果はない。次の寄港地では、憧れたサファリ体験が待つというのに……。(次回は「脱水症状とサファリ」)
「オーシャン・ドリーム号」は1月18日7時にモザンビーク共和国南端のマプト港に入った。横浜を出て28日目、アフリカ大陸に着いた。船はここでも1泊して翌19日22時、出発する予定だ。オプションは「マブト観光」など13コース。大半の乗客が選択したのは「サファリ体験」、宿泊日数などの違いで9種類あるが、そのうち8つの目的地は「クルーガー国立公園」である。夫婦は残るひとつ、1泊2日の「クワ・マドゥワラ私営動物保護区」を選んでいた。選択理由は日本人の動物写真家が週刊誌に「国立より私営の方が象、ライオンなど観察できるチャンスが多い」と書いていたからだった。参加者数は最も少ない18人。これに添乗と通訳役のピースボート(以下、PB)のスタッフが何人か加わる。国立も私営もモザンビークの隣国、南アフリカ(以下、南ア)にある。陸路の方が近いそうだ。
参加者は出発前にいつも7階ラウンジ「ブロードウェイ」に集合し、コース別に着席し、隊列を整えて5階の舷門から埠頭へ出る。この朝は頭をかきながらキャンセルを申し出る男性がいた。この時点での払い戻しはない。前日解約なら50%戻る。直前まで下痢症状の回復を期待したが、改善しなかった、ということだろう。男にとって他人事ではない。しかし「バスはクーラー、トイレ付き」という話があったので強行参加となった。
夫婦のモザンビークのマプト観光は日程の関係上、船と出入国管理事務所を往復するバスの車窓観光のみ。この国は内戦を22年前に終えた。「戦後」という意味なら、日本で言えば「昭和42年」に当たる。しかし舗装された幹線道路は凹凸激しく、大半は土埃のたつ道だった。観光業も未発達、現地ガイドは南アからわざわざマプト港まで来た。
埠頭から出入国管理事務所までバスで2時間。途中、男は最後部のトイレを利用した。水洗式なのに水は出ない。一瞬、困惑したが、便器の横に置いてあった青色の水を入れたポリ容器を見つけ、3分の1ほどぶちまけた。消毒液の臭いが広がって、汚物も流れてくれた。ひと安心したものの、発展途上国でのトイレは大問題であることを再認識した。
管理事務所はプレハブ平屋建て。南アへ出国申請する出稼ぎ労働者たちも、審査する官吏も艶のある黒色の肌の人々。混雑する人いきれの中で、男は「ここはアフリカだ」と実感した。プレハブの端にトイレがあった。見に行くと、汚物が床に流れだしていて足の踏み場もない。船客仲間の女性は悲鳴を上げた。
次は南アの管理事務所へ。こちらもプレハブ平屋建てだった。両国の出入国手続きに2時間を要した。14時、私営動物保護区に着いた。ロッジのレストランの前面は、見渡す限りのサバンナ、広大な大地にブッシュが緑を添え、ところどころに岩山が突き出ている。なだらかな丘もある。ここのオーナーは2代目。地平線までが所有地、35年前に、この保護区を開設した、という。
ここで遅い昼食、スパゲティを食べた。夫婦は乗船前の懇親会で知り合った顔なじみの40歳の女性とテーブルを囲んだ。社交ダンスで男の相手をしてくれた人でもある。彼女はタンザニア、ナンビア、ナイロビとアフリカ旅行を重ね、その都度、腹下しを経験しているが「こんなにひどいのは初めて」と嘆いた。すでに医務室で薬を貰って服用して徐々に食欲は回復、この日の夕食は完食であった。69歳の男は「若い世代は強い」と唸った。
ロッジの周囲に1戸ずつ独立したカタツムリ型のコテージが散在している。外観は小さく見えたが、玄関フロア、リビング、寝室、バスタブを備え、草原に臨むベランダまである。夫婦2人には十二分の広さであった。
旅装を解いて外に出る。サファリ体験専用の大型ジープ4台が待機していた。運転席より一段高い荷台部分が客用、3人1列の座席が3列ある。夫婦が割り当てられたジープの運転手は「9言語を操る」と説明された。南アの公用語は英語、アフリカーンス、部族語、合わせて11。そのうちの9つだという。仏語や独語などは入っていない。日本語ひとつで済む日本人には理解しにくいアフリカである。
4時出発。フンコロガシが仕事に精を出す道の左右にヌーがブッシュから顔を出し、イボイノシシやインパラが走り去る。キリンは悠々と道を横切り、ジープを止めた。下車した湖畔では、近くにワニ2頭が寝そべっていた。身動きしない。湖面にはカバの頭が点々と浮かび、5頭が我々に近づいてくる。一頭が半身を持ち上げるようにして口を大きく開けた。湖畔から去れと威嚇しているようだ。日没は近い。カエルの合唱を聞きながら、初日のサファリ体験を終えた。
翌朝4時、男の両足は痙攣した。1時間後には2度目のサファリ体験が待つ。幸い痙攣はそれまでに収まったが、下痢による脱水症状か。なかなか体調は回復しない。トイレ通いも続いている。
PBの女性スタッフ1人はジープに乗らなかった。年配女性の体調が悪化、病院に同行するためだという。彼女の見送りを受けて5時20分、出発した。2時間のドライブでシマウマ、カメ、ハゲワシの群れ、マングース、小猿やリスなどを見たが、期待した野生のライオンや象との出会いはなかった。週刊誌の予測は外れた。帰路立ち寄った保護施設には80頭を超える象がいた。芸達者な1頭の「球けり」を見て不満を抑えるしかなかった。この日夕、帰船すると、クルーガー国立公園の方は存分に見られたと聞いた。残念無念であった。
翌日の12月20日、男は4階の医療室に入った。下痢症状が始まって5日目。同時に姿を見せたPBの通訳、うら若きハーフの女性は男より我慢していた。「1週間、どうにもならなくて…」と美しい眉間に皺を寄せた。
医師は80歳近いとおぼしき中国系米国人男性。いつも同じ階のメインレントランで日本人の奥さんと向き合って朝食をとっている。男が挨拶をすると耳が遠いのか、反応がないことが少なくない。奥さんが「ほら、あなたご挨拶よ」と声をかけるのがパターンになっていた。話をしたことはないが、親しみやすい雰囲気を持つ人である。
男の顔色見て「年齢と比較して若い」と言う。喜んでいいのかと逡巡していると「70代は若い。80歳超えると個人差、大きい」と続けた。男は69歳。まだ70代ではない。肩透かしをくわされた感覚に襲われた。
医師は、診察せずに即座に薬を出した。すでに同じ症状の患者が殺到している。聞かなくてもわかる、ということだろう。1日1錠の抗生物質を出して「乳製品ね、ミルク、チーズ、ヨーグルトなどはダメ。アフタヌーン・テイーで出るクッキーもダメ」と言い、もう1種類、下痢止めをくれた。こちらも1日1錠。「止まったら直ちにクスリ、やめるね」と念を押した。「効果は強力だが危険な副作用もある」と男は直感した。下痢は2錠服用で済んだ。請求額は1万908円だった。
健康管理の面で、男にはもうひとつ悩みがあった。抗マラリア薬を飲むか、飲まないか、である。腹下りに加えてマラリアでは、踏んだり蹴ったりだ。結論を先にすると、服用しなかった。喫煙仲間「スー族」仲間の一人、66歳の元教授と、乗船前の懇親会で知り合った夫婦乗船の80歳になる夫の話が決め手になった。
元教授は現役時代、機械工学を教える目的で、3回にわたり東チモール民主共和国に派遣された。インドネシアから独立し、21世紀最初の国となった同国への国際援助の一環だ。現地では「同僚たちがマラリアでぐったりしていた。しかし予防薬を飲む間は禁酒と言われてやめた。就寝時、読書しながらウィスキーをたしなむ。この1日最後の楽しみを奪われるのが嫌だった。服用しなくても罹患することはなかった」と言うのだ。一方、80歳の夫の話は「1日1錠で5錠といわれたが2錠で胃痛になって中止した」と。胃痛は困る。
主催者のゲストとしてシンガホールから乗船した黒人がスー族の仲間入りをしていた。愛称「ブラケー」。もちろん煙草好き。肥満体で片時もサングラスを離さない。南ア最大の旧黒人居住区「ソエト」の子供たちにクラシック音楽を教えて四半世紀、<クラシックは白人のものとされてきた偏見を破った>と主催者側に評価された。
彼は講演会で南アの現状を率直に述べた。「公立の教師は酒に酔ったまま教壇に上がったり、無断遅刻もある。両親のいない子供は多く、家庭教育は不十分、子供の質は悪くなる。大半は学校を中退して薬物乱用など悪の道に走りがちだ」。そして、人種差別政策アパルトヘイトに勝利したネルソン・マンデラについて「彼の理想はただの理想に終わった」と断言した。未来は絶望的ではないか。 (次回は「喜望峰、大西洋はどっち?」)
この船旅では寄港するたびにゲストが乗り込み船上講演を行った。外国人であっても「ピースボート」の通訳スタッフがいるので支障はない。スピード重視で空路利用の海外ツアーにはない特色であった。例えば、シンガポールから乗船したアフリカ取材30年、73歳の日本人ジャーナリストはナミビアで下船するまで7回の講演を行った。各回80分。落ち着いた語り口、ナマの体験を交えた具体例、説得力ある構成だから、あっという間に時間が過ぎてしまう。毎回満員、夫婦の楽しみのひとつであった。
南アフリカ共和国(以下、南ア)と言えば、人種差別政策と闘い、初の黒人大統領となり、1期5年で辞めたマンデラが有名だ。その後について「次の黒人大統領ムベキは2期目から蓄財を始めた」と語る。現在の黒人大統領はムベキに続いたズマで2期目に入っている。
もう一人のゲスト、国際的なボランティア活動をしている日本人女性は講演で「ズマ大統領は私邸にプールを作るなど、現政権は腐敗している」と念を押した。アパルトヘイト撤廃から四半世紀。政権の腐敗、堕落が早くも……ということか。
彼女は南アの「世界一」を紹介した。ノーベル平和賞4人、リベラルな憲法のほかは、HIV感染者数、レイプ事件、殺人事件数、生活保護者数、経済格差など暗澹たる数字ばかり。一方、世界初の心臓移植手術を行った国だけに、日本から外科医が3か月交代で技術習得のため留学してくる、という。誇らしいことではないか。しかし理由がひどい。「日本では3年かかる手術件数を3か月で経験できる」。いかに治安が悪いかがわかる。彼女は南アに2年住んでいる。「より安全なところに住みたい」と。モザンビーク・マプトから幼子を同伴しての乗船であった。切実な思いが伝わってきた。
「オーシャンドリーム号」(以下、ドリーム号)は12月23日6時、南ア・ケープタウン港に着いた。夫婦は舷側に出て、頂きが平らなテーブルマウンテンにカメラを向けた。2人はオプション9コースの中から、喜望峰、アザラシ島、ペンギンコロニーのある砂浜を見学する243人の集団に入った。1人歩きは厳禁、集団行動が強く求められた。
バスに同乗した現地ガイドは、南ア在住の日本人男性。バスが出発して間もなく、男は眠気に襲われて白河夜船。盛大な拍手の音で目覚めた。隣席の妻は「アパルトヘイトについて素晴らしい演説だったわ」と男を侮辱したように言う。「それは残念、要点は?」と尋ねると「具体的な内容は忘れた」と妻はあっけらかんとしていた。
ボールダーズ・ビーチに45分後に着いた。入口で係員の若い黒人女性にガイドが入場券の束を手渡した。彼女は数え始めたが、何回もやり直す。船上講演で「世界一、算数が苦手な国」という紹介もあった。「数えられないんでしょ」とガイドに伝えると、彼は「ここは日本ではありません」と男をたしなめる様に言いつつ、入口近くに顔を出した黒人男性に手を振りながら声をかけた。顔なじみなのだろう。即座に入場出来た。
ケープ・ペンギンは胸に黒の斑点と縦縞が特徴、小柄だけに一層可愛い。生息地に縦横に架けられた木組みの通路を巡る。真夏、野生のペンギンとの出会いであった。つがいになると一生連れ添うという。はてさて我々は、どうなるのか。
次はケープポイント。ケーブルカーで展望台へ。そこで船客仲間の女性たちと出会った。5泊6日のオーバーランドツアーでモザンビーク・マプトからクルーガー国立公園、ビクトリアの滝を回って合流した一行であった。お互いに名前は知らぬが、顔なじみである。「お久しぶり」と握手の連続。中の1人が「ホテルも料理も素晴らしかった。けれど、ほとんど食べられなかった」と嘆いた。マダガスカル以来の腹下りは続いていた。
ケーブルカーを下りると、展望台まではさらに脚力を生かして登る必要があるとわかった。山好きの妻はさっさ上へ。男は後を追うが速度は遅い。7か月前、鹿児島県・屋久島の山中でも、かつての山男が高齢になって「女性にかなわなくなった」としょんほりとしていた姿が脳裏をよぎった。
妻に追いつき、二人で展望台に立つ。群青の海が広がっている。インド洋と大西洋の分岐点にある喜望峰が眼下にある。方向音痴の妻が「大西洋は右なの?」と聞いてきた。男とて外地のここに来て、即座にわかるはずがない。「左右ではなく、どちらが西ですか、とガイドに聞いたら」と逃げた。
下山してから喜望峰へ。アフリカ大陸の「最南西端」である。間違えやすい「最南端」は「アグラス岬」で200km離れているそうだ。夫婦にとってはどうでもいい話だった。
喜望峰の横長の表示板がある場所に来た。黒人の家族が表示板を入れて記念撮影の真っ最中。男は表示板の端に立ち、妻に撮影を依頼した。黒人一家がチラチラと横目で男を見て、迷惑がっていたとは、後に妻から聞いた。
この日の最後は遊覧船に乗った。1台のバスの乗客は3隻に分乗して沖へ。岩礁を褐色の肌で埋め尽くしたアザラシの群れ。圧倒的な野生の迫力。彼らは我々を警戒することなく、悠々と寝そべったり、泳いだり、鳴いたり、気ままに動いていた。我々は撮影を終えてUターンをしたが。アザラシにすれば邪魔者の退散といったところだ。
帰船は18時半。窃盗などの被害がなかったことは幸いであった。ドリーム号は22時、碇を上げた。
12月24日、夫婦にとって南半球で初めて迎えるクリスマス・イブであった。船上で関連の催しがあった。2人は参加しなかった、「おミサに行く」と教会に出かけた熱心なクリスチャン、亡き母を偲べば、お祭り騒ぎのような催しには関心がない。
翌25日は快晴のイブとは一転、空には雨雲、肌寒く、男はコートを着込んでデッキに出た。スー族仲間との語らいが待っていた。
単身乗船の81歳の男性が、翌日入港するナミビアで下船、空路帰国するという。横浜で乗り遅れ、神戸で乗り込んだ青森県人である。本日は船旅、最後の日。人生の先輩を、この夜、一人にしておくのは忍びない。その場にいたメンバーで「送別会をしよう」と衆議一決、場所は9階の居酒屋「波へい」と決めた。
朝昼晩の3食、朝のコーヒーと午後のティーを提供する「ビュッフェレストラン」の青天井のデッキ部分を17時半から「波へい」と称して営業している。テーブルが6卓ほど並ぶ。夜は波の音を聞き、星空を見ながらアルコールをたしなめる。そのうえ、ボトルを入れれば、水も氷も無料だから、酒好きには素晴らしい空間だ。ちなみにボトルの値段は「いいちこ」が2,550円、「銀座の雀」が2,600円、「雲海」が3,312円。だいたい1本を1か月かけて飲む人が多かった。
男は「波へい」に妻を連れて参加した。ほかに夫婦1組、1人でそれぞれ乗船、たまたま相部屋となった男性2人。64歳から76歳の6人が青森県人を囲んだ。
地球一周の船旅は8回目。「南半球ではマダガスカルに行ったことがなかった。どうしても見たかった」が今回の乗船動機だった。だが「娘に猛反対されてね」という。元気に見えても杖を手離さない。高齢でもある。「さもありなん」と皆は納得した。
心臓にペースメーカも「入れている」とも。このことは、いまや、世間でよく聞くことだ。しかし、続く言葉に驚いた。
「神戸で乗船した日の夜、意識を失って倒れちゃった。診療室に運び込まれて、治療をうけたら回復した」。初耳だった。
この日は神戸から数えて34日目。この間、煙草は吸っていたし、酒もたしなんでいた。「本当ですか」という声があがった。「娘」さんの心配はもっともなことであった。
(次回は「砂漠の国ナミビアは海も楽しい」)