バプテスマ。
これはJWにとっても、まさに人生に一度きりの記念すべき日となります。
最後の討議を終え、結果報告を聞かされるまでの、あの落ち着きのなさったらありません。
ボクは、承認されたとの連絡を司会者から電話で伝えられた時、思わず文字通りに飛び上がっていました(^_^;)
しかしそれも昔の話で、ここ数年は、このバプテスマに至るプロセスに疑問を持つようになっていました。
理由を簡単に言えば、
「神を信じた者が、神を崇拝できようになるために、なぜこれほどの段階を必要とするのか?」
ということなのです。
一世の場合の、バプテスマに至るまでの一般的な流れは以下の通りです。
1.
まず、聖書に基づくされるテキストでの研究(現在は通称“教えの本”)
まず、聖書に基づくされるテキストでの研究(現在は通称“教えの本”)
↓
2.
神権宣教学校への入校(入校のタイミングは人によります)
神権宣教学校への入校(入校のタイミングは人によります)
↓
3.
バプテスマを受けていない伝道者となり、野外宣教に参加するため、監督たちとの“組織の本”に基づく討議によって承認を得る
バプテスマを受けていない伝道者となり、野外宣教に参加するため、監督たちとの“組織の本”に基づく討議によって承認を得る
↓
4.
承認を得、最低1時間以上、野外宣教に参加し、奉仕報告を提出する。
(そうすると、「~さんは、バプテスマを受けていない伝道者となりました」という発表が集会でなされる)
承認を得、最低1時間以上、野外宣教に参加し、奉仕報告を提出する。
(そうすると、「~さんは、バプテスマを受けていない伝道者となりました」という発表が集会でなされる)
↓
5.
(ある程度の期間を経て)本人の希望に基づき、複数回に渡る組織の本を用いたバプテスマの討議(簡単に言えば、承認のための審査)が行われる。
(ある程度の期間を経て)本人の希望に基づき、複数回に渡る組織の本を用いたバプテスマの討議(簡単に言えば、承認のための審査)が行われる。
↓
6.
承認を得られたなら、次回の大会にて公に浸礼を受け、晴れてJWとなることが許される
承認を得られたなら、次回の大会にて公に浸礼を受け、晴れてJWとなることが許される
タイミングにもよりますが、最初の研究からバプテスマまで“数ヶ月”という方もいれば、私のように“何年”もかかる人もいます。
ただ、期間の長短に関わらず、バプテスマを受けることに決まった方々が喜びと達成感に満たされることは容易に理解できます。
誰もがいくつものハードルを越えて、やっとJWとなれたわけですから。
しかし、この「達成感」は素直に喜べるものでしょうか。
というのも、このプロセスを経て得たもの、培ったものは何でしょうか。
神の公正や憐れみ?
聖書に対する愛着?
無償の救いに対する感謝?
それとも
組織のルールを遵守すること?
組織への忠誠を何よりも保つこと?
組織の取り決めを最優先にすること?
数字や立場を重んじること?
すべての方がそうだとは思いませんが、多くの人にとってのバプテスマに至るプロセスは、神の公正や憐れみを台無しにし、“神の人”ではなく“組織人間”に仕立ててしまう、まさにそのスタート地点になっている気がします。
そもそも救いへの道はシンプルなはずです。
「そして,モーセが荒野で蛇を挙げたと同じように,人の子も挙げられねばなりません。それは,彼を信じる者がみな永遠の命を持つためです。」ヨハネ3:14,15(新世界約)
聖書によれば、荒野で毒蛇に噛まれた人たちを助ける手段として、神はモーセに命じて蛇の形をした像を造り,それを旗ざおの上に取り付けさせました。
「すると,蛇が人をかんだ場合でも,その銅の蛇を見つめると,その人は生き長らえるのであった。」民数記21:9(新世界約)
この出来事を考えると、ヨハネの「モーセが荒野で蛇を挙げたと同じように」という言葉が、キリストによる救いの享受がシンプルであることを強調しているとしか思えません。
JWのバプテスマに至る行程は、神の意思と逆行しているように思えて仕方ないのです。