のどが乾いてたまりませんでした
水には油のようなものが一面に浮いていました
どうしても 水が欲しくて
とうとう油の浮いたまま 飲みました
長崎市の平和公園にある
「平和の泉」の石碑に刻まれた手記の作者で被爆者の橋口幸子さんが4月20日80歳で亡くなったという記事を昨日見つけました。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20160424/08/20130105-sora/b3/70/j/o0212032013627653128.jpg?caw=800)
9歳のときに被爆し、のどの乾きに耐えかね、一面に油が浮いた川の水を弟と飲んだ様子を手記につづり、その中の一節が石碑に刻まれています。
長崎の平和公園を訪れたことがあるかたには強く記憶に残っている一文ではないでしょうか。
原爆で家族を次々と失い、ご本人も入退院を繰り返し長く闘病されていたようです。
幸子さんの平和への願いは石碑に生き続きます。
ご冥福をお祈りいたします。
昨夜は桑田さんのやさしい夜遊びを聴くために早めにFMラジオをつけました。
そうしたら
「じいちゃん、ばあちゃん…じいちゃん、ばあちゃん…!」
と連呼する声が。
哀川翔?って最初よくわからずに聞いていたら
長渕剛さんだった!!
長渕剛は、鹿児島生まれ、祖父が熊本県生まれ、親戚も熊本在住、お姉さんが大分在住、ということで
新聞のラジオ番組表を確かめると
22時から22時半
「特別番組 長渕剛 届け!九州へ!!」
というタイトルが。
私が聴いたのは15分くらいからだから、
最初誰かわからなかったのです。
じいちゃん、ばあちゃん
激動の昭和を生き抜いてきた心根の強さがあったからこそ
今の僕らがある
今こそ、じいちゃん、ばあちゃんたちが太陽になってほしい
と語りかけながらギターで弾き語り
熊本、大分の被災地に尽力している自治体、警察、自衛隊、ボランティアへ感謝の言葉を繰り返し、九州を励ましていました。
ホントに九州全体が力をもらえたと思います。
長渕剛さん、ありがとう!
桑田さんのやさしい夜遊びでは
熊本や大分のリスナーさんと電話で会話をしながら桑田さんが被災地を気遣っていました。
熊本や九州出身の芸能人の方々、
色んな形で被災地に元気をもたらしてくれています。
ひとつひとつ、すべての支援、色んな形、それぞれの想い、ありがたいものだと思います。
巻き寿司とパンを無料配布、変顔を交えて元気と笑いも届けたコロッケさん
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20160424/08/20130105-sora/8c/e2/j/o0450033713627653132.jpg?caw=800)
苦しいときこそ笑いの大切さ、感じますね
高良健吾さんも、忙しい中、伊勢谷友介さんと共に駆けつけ、給水支援を行ったようですね。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20160424/08/20130105-sora/8e/8f/j/o0600080013627653139.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20160425/07/20130105-sora/1f/49/j/o0600080013628543784.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20160425/07/20130105-sora/e6/11/j/o0600080013628543794.jpg?caw=800)
高良健吾さんの給水を受けた方々のインタビューで印象深い言葉がありました。
おばあちゃん…何人かが口々に
「感激しました」とおっしゃっていてそれはテロップに出ていたんですが
最後に口にした言葉がテロップに出ませんでした。
多分、テレビ局のかたが意味がわからなかったから省略したのでしょう
おばあちゃんは
なこうごたった
と言ったのです。
泣こうとするごとくあった…
この場合、
泣きそうになるくらい嬉しかった
という意味です。
私の祖母も
私が学校で怪我して帰ってきたりすると
「泣こうごたったろ~?」って
気遣ってくれたりしていたことを思い出しました。
地震に全く免疫のない九州
異常とも思える数の余震
泣こうごたる日々に、
高良健吾さんらの給水支援を受けて…
泣こうごと嬉しく思えることだったんだな。
こちらも泣こうごとなりました。