教会内では、会員同士のつながりは、「横的につながる」と表現され、
教会に対する、特に否定的な思いや情報を交換することは、
暗黙の了解の内に禁止されていた。
教義の中でも、罪の繁殖、徒党を組むことが、人間始祖の堕落行為によって、
生じてしまったものとして扱われているので、
それを信じる教会員としては、当然、差し控えるようになる。
ネットもない時代だったこともあり、
一種の鎖国時代のような、思想統制を図るのには有利な時代が、
教会には過去にはあったと思う。
今でも、教理を固く信じている教会員たちは、
あふれるばかりの情報に接することは、あまりないようだ。
そういう意味においては、まだまだ鎖国状態とも言え、
そのような人々を対象に、
統制をしていくことは、今の時代においても、
組織においては有利なことだと思う。
私もはじめ、
教会から認められた情報、~教義や証など~、以外に接することには、
抵抗があった。
有害図書に触れるような、やましい気持ちがあった。
でも、そこに書かれていることは、
屈折した内容や誇張された内容があったとしても、
人々の本音であるから、知りたかった。
教会から認められている情報は、
なぜなら、読む前から、あらすじや結論が分かっているので、
読む気持ちは置きにくい。
下手をすると、言い回しまで、予測できてしまう。
最初は、おそるおそる接していた、いわゆる教会の暴露本やネット情報も、
何回も接していくと、
段々と読みこなしていくことができるようになった。
当時を思い起こせば、
信仰に行き詰って、そのような内容を求めていたわけではなかった。
ただ、より、教会や教義のことが知りたかった。
自分以外の境遇の教会員のことや、教会員の本音が知りたかった。
血分けのことが書かれた書籍や、
教祖家庭のことが書かれた、身内による暴露本や、2世の手記、
最初はそんなところから始まり、
最近では、
元教会員さんたちの教会での歩みやら、
個々の教会員さんたちが、教会生活を送る中で感じた不信感や矛盾、
そんなものと大いに出会う。
私個人の感想としては、
多少驚いたりはしたものの、
ものすごく衝撃を受けた内容というのは、あまりなかった。
現役時代でも、教会の悪口が書かれている文章を読んでも、
あまり不快には思わなかった。
ただあまり下品な表現は好まないので、
そこら辺は、教会員・非教会員としてではなく、
人としてどうかな、とは思ったが、
それ以外には、不愉快には思わなかった。
ただ狂信的な教会員が、
2世と呼ばれる立場の、自分の子どもに信仰を持たせるために、
子どもを追い詰めていく内容が、
非常に心に残った。
たまたま私が知ったケースは、
・・・死後、地獄に行かないために躍起になっていることが、
今現在、地獄の状況を招いており、
それを解消していくのは、普通のやり方では到底ムリに思えた。
そして、そういった家庭が、実は氷山の一角に過ぎないのだろう、とも思った。
現実の教会生活を見渡せば、
2000年以降の話であるが、
あれほど多くいた、自分と同世代の人たちの姿がめっきり見られなくなっていた。
私は、1992年に祝福を受けた者だが、
比率からいけば、その当時祝福を受けた人々の割合が、本来ならば相当高くなるはずなのに、
そうではない。
その当時は「みんな教会に来なくなっているみたいだ」くらいにしか感じ取れなかったが、
今の自分なら、
「これが教会に対する、信者たちの声なき声なんだ」と確信を持てたと思う。
教会員たちの、信仰や組織に対しての葛藤の大きさが、
形として表れているのだと思う。
外に出て行った教会員たちを特別視してはいけないと思う。
客観的にみて、今やその人たちは、少数派ではないだろう。
しかし仮に少数派であったとしても、
その人たちが、負け犬だった、落第者だったと、簡単に片付けてしまわずに、
一人ひとりの事情を探っていくのが、本来の教会員の立場だと思う。
世の中のアベル、真の指導者としての立場を誇るのならば、
教会に不利な情報を切り捨てずに、
離教した教会員を切り捨てずに、
むしろ、どんどん勇気を持って、
なぜその人々が、その選択をしたかを探求してほしい、知ろうとしてほしい、と思う。
生涯をかけていく道なのだから、
いやいや、生涯どころか次の「生」でも行く道だという信条があるのだから、
周囲の一ケタ程度の姿をちらりと見ただけで、
「離教する人は、神体験がなかったのよ」などと、紋切り型の判断するのではなく、
多くの個々のケースを、深く知ってほしいと思う。
ひたすら探求をして、
多くの人々が、なぜ今現在の選択をしているのかをある程度、理解した上で、
それでもまだ教会員であるのならば、
教会に対して、教理に対して、深い信心があるのだと思える。
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