協会人としてずっと生きていくのならば、
肩身の狭い、人生になったと思う。
なぜならば、
献金はぼちぼち、
礼拝等、活動はほぼ出ない、
伝道した人はいない、
協会における肩書きなどは当然ない、
近場に住む、もしくは干渉が届く範囲の
家族・親族に正規協会員(笑)がいない、
青年期にした活動や献金は、
社会・人生経験として普通ではできないことができた、
貴重な経験だった、と思える程度(の被害?)
などの実績しかないからである。
かなりの落第生である。
でも、
協会人でなくなった今現在としては、
例えば持ち駒が「白」の立場で、
オセロで黒が8割方だった勝負が、
逆に、一気に白8割になった気分だ。
ある現役協会員さんから聞いた話では、
その方も、ここ数年の協会には、何やら良からぬものを肌で感じ取ってはいるようだが、
しかし協会と縁を切れない核心部分の一つとして、
協会に尽くしてきた精誠、というものがあるそうだ。
長年、原理を真実として受け入れ、
自らの精進と共に、世界平和を願いながら歩んできた半生を、
原理は真実ではなかった、
協会における多くの矛盾点が見える、
そうだからといって、
では、協会を離れます!と、
簡単に見切れないという主旨の言動をされる。
どこかおかしい・・
でも真実を知るのが怖い、といったところなんだろうか。
(因みにその方は、
〇〇長などの立場にはおらず、
活動や献金は、
無理ない程度にぼちぼちされている。)
私には、そのような発想がなかったので、
離教できない動機には、そういったものもあるのだと、
その方から教わったように思えた。
長年、献身してきた友人(現在は多分、協会員ではない)に、この話をすると、
「そりゃあ、そうでしょう」と、
とても共感していた。
私も、人生を捧げて・・・というとしっくりこないが、
真摯に教えと向かい合い、
真摯に原理が真実であると、
文先生がメシアであると、より確信するために
長い時間を過ごしてきた。
でも
このような話を聴くと、
「真実ではなかった」と自分の中で腑に落ちた瞬間に、
熟れた果物が、樹からすんなり落ちるように離教した自分は、
どの方面から考えても、
身軽だったんだと、改めて思う。