今は、自分自身でそれほど迷っている問題は抱えていないが、


身近な人で、ずーっと同じ問題を話してくる人がいる。


たまたまだけれど、夫の友人でも同じような人がいるようだ。



悩んでいる人は、

自分の内部から答えを得ることもあるし、

外部から得ることもあるし、

試行錯誤している最中、環境の巡りあわせの中で、

ぼちぼち答えを見つけている人もいる。



概して言えば、

悩みを持ちかけられて、

こちら側としては、考えて考えて、慎重に答えてみたりはするが、

ほとんど役に立ってはいない。

(苦笑)


なぜなら、また同じ話が、時間を置いて、始まってしまうからだ。


私に力量がないのは、言わずと知れているが、


それでも、結局は、自分たちが行きたいように行くのだ。



巡り合せもあったのかもしれないけれど、

消去法の中で、いわゆる「仕方ない」という選択で、

迷いの中から、道を選んだ夫の友人、A氏が、


数年後に、また振り出しに戻ってしまっていた。


迷いの道に、自分から戻ってしまったようにさえ、見えた。



未来は自分が造る、引き寄せる、と言う話は、巷では盛んに語られているし、

大雑把な方向性、ベクトルを自分で設定すると、

紆余曲折しながらも、そちら方面に行く、とも聞いたことがある。


自分や身近な人たち、そして事実かどうか検証もしようもない、ネット上でも

そんな体験を多く目にする。


そんな中で、A氏は、単に、迷っているように見えるのだが、

実は、

「迷う」という選択肢を選んでいるように見えた。



迷いたいから、迷っている。


迷っている人に言ったら、怒られそうだが、

ブログなので正直に書いてみると、

申し訳ないが、そんな風に感じてしまう。




ただ、


迷いながらも、

あの方向に行きたい、という

ベクトルを持っている人は、また違うように思う。


時間は掛かっても、

苦労はしても、

その方面に、進んでいるような気がする。






だれかが良い話を持ってきてくれないかな?

だれかが誘ってくれたら、

うまくいかなくても、誘ってくれた人の責任になるから、

声掛けしてくれないかな、


そんな姿勢だと、

またまた、

「迷い」の道が提示されてしまうのじゃないか?



結局、

他の選択肢を捨てて、

一つの「選択」をするために、


「当たり」ではない結果が待っていても、

それでも勇気を持って、決断をすることが、

大いに迷う癖のある人には、必要なのかもしれない。


(こんな記事を書くのは、

自分に対しての意味もあります)




しかしそうは言っても、

人の世には、「絶対」はなさそうなので、


あるいはもしかすると、


他人からはまどろっこしくみえても、

ずっと考え続ける、迷い続ける行為が、

ある時の、ある人物には必要なのかもしれない。