前回は、統一教会の経典、原理講論の中での、
「創造原理」に初めて触れたときの感想を書きました。
前回の記事とかぶりますが、
その当時は、「ふん、ふん、なるほど。そうかもしれない」というような理解しか出来ず、
とても感動をした、と話している教会員もいる中、
私は、どちらかというと、可でもなく、不可でもなく、という程度の思いでした。
話が少し拡大しますが、
今、統一教会と距離を置いている立場にいる私ですが、
教会で言われるところの、
サタン世界からの情報である、
自然の成り立ちや生き物の生態、人類の歴史、歴史の捏造、政治の裏話などなどは、
非常に興味深く、もっと知りたい、という欲にかき立てられます。
「創造原理」からもそのような感想を持つ方もいらっしゃるとは思いますが、
私は、残念ながら、そういった思いには、
教理を聞いた当初から、離教に至るまでの年月の中では、
ありませんでした。
さて、次の内容となれば、
堕落論、ということになります。
私は、子どものころに何度かキリスト教の礼拝に参加したりしたこともあったため、
イエスキリストに対する、特別な思いが強くありました。
もちろん、礼拝に行っていたから、イエス様を慕う思いがあったのではなく、
どちらかというと、キリスト教に対する、畏怖の念が元々あったように思います。
礼拝堂に入ると、あまりの荘厳さに、とても恐ろしい気持ちになりました。
賛美歌は、当時も今も聴くと、やはり恐ろしい気持ちになります。
なぜなんでしょうね。
キリスト教の歴史がそのように感じさせるのか、原因不明ですが、
そこら辺のホラーなんかより、数段、恐ろしく感じます。
恐ろしいという表現は、適切ではなく、やはり畏怖する、と書く方が、自分の感情にぴったり来ます。
また、よくお祈りもしていました。
何かがあって、お祈りをする、というよりは、
ただお祈りをするのが好きだった、というような感覚でした。
そのため、教会での1dayセミナーで、堕落論を聞いたときには、
やはり人間の罪は、淫行からだったのだ、と思いました。
その次に、アベルとカイン、兄弟同士での殺人の話となります。
これらは講義を受ける前から、
どこかで聞いていたのか知っていた話のように思いますし、
~もしかすると子どものころに通っていた教会で聞いていたのかもしれません~
自分の中では、真実だと思う気持ちがありました。
心の奥深くに、自分の根とも思える部分と、
これらの話がつながっていると、当時は思えました。
幼いころから、人間には「罪の根」がある、という感覚があったため、
その次につながる、「復帰原理」、つまり罪のある人間を元通りにする方法に対して、
非常に関心を持ったわけです。