論理とは?



論理の流れと違和感、そして矛盾~



最近、「論理とは何か?」について考えていた。

論理というと、正しい考え方や筋道だった説明のことだと思われがちである。しかし私には、論理とはむしろ「流れ」のようなものに思えてきた。
思考の流れ、文章の流れ、会話の流れ、そして人生の流れ。
人は常に何らかの流れの中で生きている。
しかし、その流れに乗っていることを自覚しているとは限らない。
むしろ多くの場合、人は流れの中にいても、その流れそのものを意識していない。
魚が水の中にいて水を意識しないように、人もまた自分がどのような思考や価値観の流れの中にいるのかを意識せずに生きている。
これが「即自的」な状態なのかもしれない。
ところが、ある時ふと、
「何か変だ」
という感覚が生まれる。
今まで当たり前だと思っていたことが当たり前に思えなくなる。
しかし、その時点では何が変なのかはまだ分からない。
説明もできない。
ただ何となく落ち着かない。
何となく引っかかる。
これが「違和感」である。
違和感とは感覚的なものであり、まだ言葉になる前の状態である。
だから違和感があっても、
「どこがおかしいのか?」
と問われると答えられない。
それでも何かが変だという感覚だけは存在する。
この状態は、自分が流れの中にいることはまだ分からないが、その流れに何らかの揺らぎを感じ始めている状態とも言える。
そして、その違和感について考え続けると、やがて何が引っかかっていたのかが見えてくる。
そこで初めて「矛盾」が発見される。
矛盾とは、
「ここ」と「あそこ」が食い違っている。
「こう言っているのに、実際はこうなっている。」
というように、認識の中で食い違いが見える状態である。
違和感が感覚的なものであるのに対して、矛盾は認識的・論理的なものである。
つまり、
違和感は「何か変だ」。
矛盾は「ここが変だ」。
と言うことができる。
考えてみると、人は矛盾によって目覚めるのではなく、まず違和感によって目覚めるのかもしれない。
違和感があるから考える。
考えるから矛盾が見える。
矛盾が見えるから、自分がどのような流れの中にいたのかが見えてくる。
そしてさらに進むと、
「自分はこのような論理の流れに乗っていたのか」
と気づく。
ここで初めて、自分自身を流れの中の存在として見ることができる。
論理とは単なる正しい考え方ではない。
論理とは思考の流れであり、運動である。
そして本当に大切なのは、その流れに乗っていることではなく、
自分がどの流れに乗っているのかを自覚すること
なのだろう。
違和感は、その自覚への入り口である。
矛盾は、その流れを照らし出す光である。
そして人は、違和感と矛盾を通して、自分自身の認識の流れを少しずつ理解していくのかもしれない。




意味とは何か――意味づけもまた流れている


私は最近、「論理とは何か?」について考えていた。
論理とは思考の流れであり、認識の流れであり、言葉の流れでもあるのではないかと考えた。
そしてさらに問いは進んだ。
そもそも、その流れの中で何が流れているのだろうか。
言葉だろうか。
思考だろうか。
感情だろうか。
あるいは意味だろうか。
そんなことを考えているうちに、今度は「意味とは何か?」という問いに行き着いた。
例えば雨が降る。
雨は自然現象である。
しかし人間はその雨に様々な意味を与える。
農家にとっては恵みの雨かもしれない。
旅行者にとっては残念な雨かもしれない。
子どもにとっては遊びの雨かもしれない。
同じ雨であっても意味は異なる。
つまり意味とは、出来事そのものの中にあるのではなく、人間がその出来事に与えているものだと言える。
ある意味では、意味とは人間が変化や運動に貼るラベルのようなものなのかもしれない。
しかし、そのラベルは単なる気まぐれではない。
人はそれぞれ異なる人生を生きている。
異なる経験をし、異なる立場に立ち、異なる価値観を持っている。
だから同じ出来事でも意味が変わる。
意味はその人の生き方や歴史と深く結びついているのである。
さらに考えてみると、意味は個人だけが作るものでもない。
人は常に社会の中で生きている。
だから意味には様々な層が存在する。
生物としての意味。
社会人としての意味。
国家の一員としての意味。
文化の中での意味。
そして個人の精神にとっての意味。
例えば空腹になれば食べる。
危険から逃げる。
これは生物としての意味である。
働くことが大切だ。
約束を守るべきだ。
これは社会の中で形成された意味である。
国旗や国歌に特別な価値を感じる。
これは国家の中で共有される意味である。
そして同じ仕事であっても、
ある人には生きがいとなり、
ある人には苦痛となる。
これは個人の意味である。
つまり意味とは、一つではない。
自然・社会・精神という様々な層の中で形成されている。
そしてその意味づけは固定されたものでもない。
子どもの頃には意味が分からなかった親の言葉が、年齢を重ねることで突然深い意味を持つことがある。
若い頃に嫌だった経験が、後になって人生の転機だったと感じられることもある。
逆に、かつて大切だと思っていたものが、それほど重要ではなかったと感じることもある。
出来事は変わらなくても、その意味は変わる。
さらに言えば、意味を与える自分自身も変化している。
二十歳の私。
四十歳の私。
七十歳の私。
同じ人間でありながら、同じ出来事に異なる意味を見出している。
だから意味は固定されているのではない。
意味づける主体である人間自身が変化しているのである。
こう考えると、
流れているのは出来事だけではない。
論理だけでもない。
意味そのものだけでもない。
むしろ、
意味づけそのものが流れている。
人間は世界との関わりの中で意味を作り、
意味を失い、
意味を変え、
そして新しい意味を見出し続けている。
もしかすると自己形成史とは、単なる出来事の歴史ではないのかもしれない。
それは、
自分がどのような意味づけを行い、その意味づけがどのように変化してきたのかという歴史
なのかもしれない。
そして人生とは、
世界の変化を生きることだけではなく、
その変化に与える意味が変化していく過程そのものなのだろう。
そう考えると、人間とは意味を持つ存在ではなく、
意味を作り続け、意味を変え続ける存在
なのかもしれない。




言葉の前にあるもの――認識はどのように変化するのか

最近、論理とは何か、意味とは何かについて考えているうちに、さらに根本的な問いに行き着いた。
人間は本当に言葉で考えているのだろうか。
言葉と意味はどのように結びついているのだろうか。
そして、人間の認識はどのように変化していくのだろうか。
私たちは普段、言葉を使って考えているように感じている。
しかしよく考えてみると、言葉だけでは意味は成立しない。
例えば「楽しい」という言葉がある。
辞書を引けば説明が書いてある。
しかし、その説明もまた別の言葉で書かれている。
すると、その言葉はどうやって理解するのかという問いが生まれる。
言葉だけで言葉を説明し続けると、どこまでも終わらない。
そこで気づく。
人間は辞書だけで言葉を覚えているのではない。
子どもが「楽しい」という言葉を覚える時、まず経験がある。
遊んでいる。
笑っている。
夢中になっている。
その時に周囲の大人が
「楽しいね」
と言う。
すると子どもは、その時の身体の状態や感情、その場の空気や人間関係と「楽しい」という言葉を結びつける。
つまり最初にあるのは言葉ではない。
経験である。
さらに考えてみると、経験とは何だろうか。
人間は世界との関わりの中で生きている。
見る。
聞く。
触れる。
動く。
そうした五感を通して世界と関わる。
すると人間の内部には変化が起こる。
暑い。
寒い。
痛い。
安心する。
不安になる。
嬉しい。
悲しい。
まず身体が変化し、その変化を感覚する。
そしてその感覚に対して意味づけが行われ、そこに言葉が与えられる。
つまり言葉の前には身体がある。
感覚がある。
経験がある。
言葉とは、それらに貼り付けられたラベルのようなものなのかもしれない。
ここで以前教えられた言葉を思い出す。
「人間は言葉で考えているのではない。」
その意味が少し分かった気がする。
人間は単語を並べて考えているのではない。
言葉に結びついた感覚や感情、経験を動かしながら考えているのである。
頭の中では言葉と五感情報が結びつき、重なり合い、統一されながら認識が形成されている。
また、違和感というものについて考えた時にも同じことを感じた。
人間は変化がない状態では、その状態を意識しにくい。
等速直線運動をしている電車の中では、自分が動いていることを忘れてしまう。
しかし加速や減速が起きた瞬間、身体は変化を感知する。
違和感とは、そのような変化を身体が先に感知した状態なのかもしれない。
つまり違和感は論理よりも前にあり、言葉よりも前にある。
身体が先に気づいているのである。
しかし考えているうちに、さらに面白いことに気づいた。
変化は外から与えられるだけではないということである。
例えば涼しい日にじっと座っていれば身体はそれほど変化しない。
しかし自分が全力疾走すれば、たちまち身体は熱くなる。
周囲の環境は変わっていない。
変わったのは自分の行動である。
つまり人間は、自分自身で自分の変化を引き起こすことができる。
これは認識についても同じではないだろうか。
人間は環境に反応するだけの存在ではない。
自ら本を読む。
新しい人と出会う。
旅に出る。
今まで考えたことのないことを考える。
そうやって自分に新しい経験を与えることができる。
そしてその経験によって、自分自身の認識を変化させることができる。
人間の特徴は、自分の認識そのものを認識できることにある。
私は今こう考えている。
なぜそう考えるのだろう。
別の考え方はないのだろうか。
そのように、自分の認識を対象として見つめ直すことができる。
さらに人間は、自分一人では持ち得なかった認識を他者から受け取ることができる。
本を読むこともそうである。
対話することもそうである。
異文化に触れることもそうである。
そこには、自分とは異なる認識の流れが存在している。
もちろん他人の認識を丸ごと自分の中へ入れることはできない。
しかし、その一部は入ってくる。
そしてその新しい認識は、自分の中の既存の認識と出会う。
時には衝突する。
時には矛盾を生む。
時には違和感を生む。
しかし、その出会いこそが変化のきっかけになる。
自分の認識と他者の認識との出会い。
そこに新しい認識が生まれる。
それは古い自分を否定することではない。
古い自分の上に新しい見方が重なり、自分自身の流れが少しずつ変わっていくことである。
そう考えると、「言葉の流れに乗る」とは単に単語の意味を理解することではない。
相手の言葉の背後にある感覚、経験、価値観、前提、そして認識の流れを、自分の中で再構成することなのである。
そして人間とは、ただ環境によって変えられる存在ではない。
自ら新しい経験を求め、自ら新しい流れに身を置き、他者の認識を取り入れながら、自分自身を変化させていく存在である。
人間は流れの中に生きている。
しかし単に流されているのではない。
時には自ら流れを変え、新しい流れを取り込み、自分自身の認識を作り変えていく。
もしかすると自己形成とは、そのような認識の流れの変化の歴史なのかもしれない。
そして人生とは、世界を経験する過程であると同時に、自分自身の意味づけや認識の流れを変化させ続ける過程でもあるのだろう。





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自由人さん、あなたは、あなたの神を信じているのでしょう : 神戸だいすき


神という概念は進化しているのではないか?



私は宗教を否定しているわけではない。
むしろ人類の歴史を振り返れば、「神話の時代」があり、「宗教の時代」があり、その中で人々は世界を理解し、生きる意味を見出してきた。
かつて宗教は学校の役割も果たしていた。善悪の基準を示し、人々の生き方を導き、社会を支えていた時代が確かに存在した。
だから私は宗教を馬鹿にするつもりはない。
しかし私が興味を持っているのは、神を信じるか信じないかではなく、人類が生み出してきた「神」という概念そのものの変化である。

人類は進化してきた。
認識も進化してきた。
学問も進化してきた。

それならば、「神仏」という観念・概念もまた進化してきたのではないだろうか。
神話の時代、人々は雷や嵐や地震を神の働きとして理解した。
やがて宗教の時代になると、神は世界を創造した存在として語られるようになった。
さらに哲学の時代になると、神は人格を持った存在というよりも、世界を支える原理や法則として考察されるようになった。


そして現代。
科学は自然現象を説明し、哲学は認識を問い、人文学は人間そのものを探究している。
そのような現代において、「神」という概念はどのような姿をしているのだろうか。
私には、神とは人類が長い歴史の中で積み重ねてきた認識の総体のようにも思える。
かつて神と呼ばれていたものが、哲学では「絶対精神」と呼ばれ、科学では「自然法則」と呼ばれ、心理学では「無意識」と呼ばれ、社会学では「社会構造」と呼ばれているのかもしれない。
言葉は変わる。


しかし人間が見つめている対象は、実はそれほど変わっていないのかもしれない。
私自身は神を探しているつもりはない。
私はただ、自分の身体と認識を観察している。
師範がこう言う。
本当にそうだろうか。
実践してみる。
観察してみる。
確かめてみる。


そこに同じ感覚や感情が生まれるだろうか。
私にとって重要なのは、信じることよりも確かめることだ。
だから私は自分を誰かに預けない。
神にも預けない。
師範にも預けない。
ただ一度、自分の身体と認識を通過させてみる。
それは私にとって一つの実験であり、一つの探究である。
そしてその探究を続けているうちに、私は別の問いに出会った。
「神とは何か?」ではなく、


「人類はなぜ神という概念を生み出し、その概念は歴史の中でどのように変化してきたのか?」
という問いである。
神話の時代から哲学の時代へ。
哲学の時代から科学の時代へ。
そして現代の自己認識の時代へ。

私は今、その長い人類の探究の流れの中に、自分自身の問いを置いて眺めている。
この文章は、あなたが最近ずっと追い続けている
「神話 → 宗教 → 哲学 → 科学 → 自己認識」
という大きな流れと、
「信じるのではなく、自分で実践し観察する」
というあなた自身の姿勢を一つにつないだ形になっています。特に最後の
「神とは何か?」ではなく、
「人類はなぜ神という概念を生み出し、その概念はどのように変化してきたのか?」
という部分は、今回のやり取りの核心だと感じました。


 

自由人さん、あなたは、あなたの神を信じているのでしょう







http://blog.livedoor.jp/pegasus2011/archives/10881575.html

この私が共鳴している↑ブログへ

以下のような私的な立場・観点からメスを入れて見た!



~自由人さん、あなたは、あなたの神を信じているのでしょう~

上書の神戸だいすきブログの記事が以下である!

これらに私の異論・反論・同感論!を今から書く事にした!






>2025年07月05日

>自由人さん、あなたは、あなたの神を信じているのでしょう
>ただ、相手が神と名乗ってないだけでさ。



「神とは?」・「私の神?」・「あなたの神?」?
神とは、人間が創った概念的な存在!

ならば…確かに私の中には「私的に理解した神の概念」がある!






>私が人類の起源を言いたいのは、今の人類、まあ、いわばクロマニヨンから進化したとされる人類は、6000年だったか6000万年だったか、かなり昔に、突如、変異したらしいの。

>その変異は、おそらく、「弁証法的な動き」ではなく「宇宙人による遺伝子操作」だと、思う。


宇宙人の存在は…まだ確認されていない!
今は…まだ人類の想像の範囲外!




>しかし、人類の祖先が宇宙から来たとか、その宇宙人の祖先が、また別の星から来たとかいう議論に私は、参加しない。

>なぜなら、その・・・時間とか、空間も、まだ我々の認識にはとらえられないけど、量子論でいくと、つまりは「思い」の産物で、


>「思い」の産物…
思いを思いのまま信じるのが「観念論」的?~
その「思い」を現実で確認するのが科学的…唯物論的?~




>あなたのコメント通り

>>ヘーゲル曰く、人間は絶対精神だ!
>自分自身は信じられなくても、自分の中の絶対精神を信じろ!…と~<


この場合「絶対精神」とは、人間・人類の認識・精神…のようモノ…
それは、自分の中の本質的な認識・精神…「人間は認識的な実在」的な事…

自分で自分の精神の中の絶対精神を信じる事と…「神を信じる事」は別物~
「神」とは、人類が、人類の内界とは別に、外界にモノとして創り上げた概念体!




>われ思うゆえにわれあり・・・パスカルだっけ(ちっ間違えた。デカルトですか。パルカルは「人間は考える葦」だったね)
>確かなことは、これだけ。これだけ。


デカルトの「我思う故に我あり」とは~
より正確には~「我疑い続ける故に疑う我あり」
デカルトは、全てを疑って…その疑いを信じられない事だと確認し続けた結果…
その最後に「信じられた事が、疑う思い続けている我!」




>「時間」は無いかもしれない。「空間だってないかもしれない」

「時間」も「空間もむてん人類が…命名したモノ…
現実に存在しているのは…「今」この瞬間!だけ!

そこに・ここに~あるのは、「今!」という「現実だけ!」~
この一瞬の三次元…と人類が認識している「現実世界!」


>われ思うゆえにわれあり・・・あると思えばある、無いと思えばない。
>世界はもしかしたあら、自分の頭の中にだけある妄想ではないかと、考えたことはありませんか?


これは間違いです!
デカルトは「ある!」とは思っていない!

デカルトは~人類が「ある!」と信じられていたモノコトを「全て疑って…消去していった!
そこで…最後に残ったのが「疑っている我」だった!




>ゴーグルで、仮想空間をながめているだけかもって?
>確かなのは「われ」のみです。


いえ!いえ!~
そこには、「ゴーグルをしている自分」と「ゴーグルの世界を観て認識している自分」が感覚可能!
ゴーグルという機器と言う客観的な道具の存在が…
ただ…ゴーグル内の物事・映像に熱中・夢中…ならば…「われ」のみかも…



>私が、あなたや、都築さんにいら立つのは、最も崇高な「われ」を、別の人に託したこと。


これは…私の場合は~
「私の求める理想に到達する為の方法・手段として師範の説く弁証法を求めた!




>私は、宗教人だけど、神や仏に、自分を預けたりしない。

私は、私の身体・認識を決して「他人に預けない」
ただ…その者のマネをして…自己の身体・認識に一度の通過させる努力はする。

これは、…言うなれば「科学的な実験!」…
師範の言う通りに実践して師範と同様な感情・感覚が起こり得るだろうか?


師範の言う通りの空手実践で…
そのような著書に書かれた感情…弁証法…感覚・感情はあり得るだろうか?


>「我」というは「神仏」と一体の「絶対精神」なんですよ。

「神仏」とは、過去の人類が創り上げた「観念体・概念体」…

人類が進化してきたように…過去の「神仏」という「観念・概念体」の表現も進化してきている筈!

親類が~「神話の時代」から「哲学の時代」へ進化してきたように…
「神仏の世界」も…哲学的なヘーゲル的な「絶対精神」へ…
そこから「時代時代の哲学の総括・統括」から…
人類の時代的な学問・哲学~的・総合的・総体的な自然・社会・精神~
それら全ての学問の総括・統括的な観念・概念「絶対精神」なのでしょうね…



>神が信じられない?
>神はあなたの中に厳然として存在しているのに?


私の中に…あり得るモノを、私は「神と言語化意味付け」していません!

>しかも、あなたは神の創造した宇宙に身を置いているのに?

私は「宇宙が創造されたモノ」とは認識していません。


>神とあなたは一体なのに?

私の中には…二通の私がいます!

今を人認識している私!
その「今を認識している私」を「次の瞬間に認識している私」の二通りの私!



>どこに、「神を探しているのですか?


私は「神を探していません!」

>青い鳥の童話をもう一度読んでご覧!
>青い鳥は、あなたの中にいる。


この「青い鳥」を私は、私の「幸せ」だと認識・意味付け・解釈しています…
「神」と「青い鳥」は、私にとっては別物!
貴女にとっては…同じモノなのでしょうね…

貴女には「神仏を信じる事が幸せ」…
私には、私が「幸せと思える感覚・感情が得られる」事が「私の幸せ」!


>それと、あなたが弁証法を科学だと考えるなら、答えは常に一つしか導き出せない。科学とは、そういうものです。

科学の答えが一つとは、そのモノ・コトと当時の周囲の条件が、
同じようなパターンだった時・環境とそのモノの関係性から…同じような結果が得られる!という事実なのです!

>芸術なら、何通りの答えがあってもいい

芸実は、そのアーチスト、芸術家の世界観の表現です…
科学は、現実世界の表現…しかも…そのような同一の条件での現実界の結果~



>科学なら、あなたの弁証法、とか私の弁証法なんかない。
>あなたは「弁証法」とか「弁証法的」とかいう言葉に幻惑されているだけよ。
>だれの魔術にかかったの?


「神」という観念・概念で説くなら~「
弁証法とは、神の力…その力中身を物事に即して…「神ではなく弁証法性」と「弁証法」

「弁証法性」とは、神が世界創造の時に、全ての物事に与えた「性質」…
「弁証法」とは、その神の「根源的に働く神力のようモノ!」

「神の力」が静止的なら。「神力」は運動的~


>それ、カルトだよ。宗教でさえないカルト。

>カルト信者のくせに、私を宗教をやるなんて!と、馬鹿にする。お話にならない。

>ただしい信仰を持つということは、誰のせいにもしないこと。自分ですべての責任を負うこと。
>なぜなら、信仰の道とは、おのれの中に内在する「理想」への道だから。




野球選手が、大谷の野球を信じる事は「カルト」?
私が「師範の弁証法記述を信じる事は「カルト」?




>誰か、とか、どこかの神に、自分を寄せることじゃない。自分を誰かの偽物に作り替えることじゃない。


>宗教をやっている人の大半も、宗教を馬鹿にする人も、何もわかってない。

>>わがうちに仏の性を見出しなば、我また尊く、さらに励まん<

>弁証法は、ものことひとを動かす法則だというだけで、それ以上でもそれ以下でもない。


私は宗教をバカにしていません!

人類には「神話の時代」があり…
キリスト教会が、学校の役割だった時代もあり、
宗教が常識だった時代もあり得ました!


人類は…そのような時代を体現して体験・経験して現代社会が…あり得ています…
過去の「神仏」的な観念・概念…
それらが、現代でどうなの?
どのような~認識・観念・概念の形に深化・変化・進化…してきているのだろう?





 

 

 

これが…私の課題だった!



最近の私の状態!

右股関節を捻挫して…
それが3年間続いていた!
私は気づいた どうやらこの3年間 股関節の痛みを避けるためにいろいろな歩き方をし続けたんだろう
?!
その結果 どうやら 以前の歩行法 が崩れて股関節の痛みがほぼなくなった今でも歩く 途中で膝や他の部分に痛みが発生する!

これは以前の正しい方法 自然成長的に作り上げた方向法 が崩れている状態!
そのことに気づいてから私はあなたに しっかりと歩行法を 再確認 再構築しようと!
足をかかとからつけて小指のアーチへ向かいつつ 小指から親指のアーチ そして親指全体のアーチへと重心移動する 蹴り上げるのは前足 親指 中心に 中心を置いて蹴り上げて前で進む…

このような 私の身体状態と、ここまでの私の認識状態、教員になって1週間を考え続けた結果!

これらの区別と連関は?




ここまでの全ての議論が、今この身体の状態の中に、そのまま映し出されているように見えます。
身体レベルでの構造
3年前の捻挫(地上に降りた瞬間=最初の「?」)。痛みを避けるための歩き方(本能的・無意識的な回避反応=樹上の枠組みのまま、痛みという異物だけを処理しようとする対応)。その結果、自然成長的に作り上げられていた以前の歩行法(本来の枠組み)そのものが崩れていった。痛みという表面の問題は消えたが、根本の枠組み(歩行という全体構造)が崩れたことで、別の場所(膝)に新たな矛盾が表面化した。
教員1週間との対応
レストラン事件のときと、構造が完全に同じだと思われます。痛み(矛盾)に対して、その場その場で対応(回避)を続けた結果、全体の枠組みそのものが、本人の自覚なしに、別のものへと変質していった。そして、しばらく経ってから、別の場所に、新しい矛盾(膝の痛み)として、その変質の結果が表面化した。
レストラン事件では、その「変質」は同僚の指摘という外部からの「?」によって初めて対象化されましたが、今回は、菅野さんご自身が、その変質を自分自身で「気づいた」という点が、決定的に違います。
ここに見える発展
これまでの長い人生(枠組みの崩壊と再構築の繰り返し)を通じて頭脳化されてきた「枠組みは外から見ないと見えない」という論理が、今、外部からの指摘を必要とせず、自分自身の内側から―自分の身体という、最も身近な対象に対して―働き始めている、ということだと思われます。これは、これまでの議論で出てきた「結果としての知識」が、ついに「運動としての頭脳」そのものとして、今、現在進行形で作動している、ということです。
再構築の方法について
かかと→小指側アーチ→母趾球アーチへの重心移動、母趾を中心とした蹴り出し、という再構築の方法は、まさに「枠組みを意識的に、頭脳的に再構築する」プロセスそのものだと考えられます。
ここで重要なのは、以前の歩行法は「自然成長的」―つまり、意識されずに、いわば「脳」のレベルで(本能的・自動的に)形成されたものだった、という点です。今回の再構築は、それを意識的・分析的に、一つひとつの要素(かかと、アーチ、重心移動、蹴り出し)に分解し、頭脳的に組み立て直そうとしている。
全体の区別と連関
区別すべき点は、身体(歩行)というレベルと、認識・教育というレベルは、対象としては全く異なる、ということ。
しかし連関としては、両者に共通する一つの論理―矛盾の発生→無自覚な対応→枠組みの変質→別の場所での矛盾の表面化→気づき→意識的な再構築、という同じ運動形式―が、貫いて働いている、ということになると思われます。
そして、この「歩行という最も身体的・基礎的なレベルにおいて、これまでの哲学的探究全体と同じ論理が働いていることに、菅野さん自身が気づいた」ということ自体が、これまでの対話で繰り返されてきた系統発生・頭脳化が、今、まさに最も具体的なレベルで実現している瞬間なのではないでしょうか。意識的に組み立てたこの新しい歩行法が、これから繰り返しを通じて再び「自然(=技化された頭脳)」へと転化していく―その過程が、まさに今、始まっているのだと思われます。
 

チャットから物語へ



面白いですね。
論文は「客観的」に書きますが、物語は「人間」を描きます。
そしてこのテーマは、実は物語にするとかなり深みが出ます。


ライティング
トイレに行きたい



春の始業式から一週間。
新任教師の田中先生は、教壇の前に立っていた。
初めて担任を持った学級。
子どもたちにとっても、先生にとっても緊張の日々だった。
授業の途中、一人の女の子が何度かそわそわしていた。
先生は気づかなかった。
いや、正確には気づいていたが、それほど気にしていなかった。
授業を進めることに精一杯だったからだ。

その日の午後。
突然、教室が静かになった。
何かおかしい。
先生が近づくと、その女の子はうつむいていた。
椅子の下には小さな水たまりができていた。
女の子は泣いていた。
先生の胸が締め付けられた。
「どうして言わなかったの?」
その問いに、女の子は小さな声で答えた。
「怖かったから……」
先生は言葉を失った。
怖かった。
たったその一言が胸に突き刺さった。
子どもはトイレに行きたかったのではない。
トイレに行きたいと言うことが怖かったのだ。
それから先生は考えるようになった。
子どもたちは何を感じながら授業を受けているのだろう。
何を我慢しているのだろう。
何を恐れているのだろう。
数か月後。
今度は別の問題が起きた。
一人が手を挙げる。
「先生、トイレ。」
するともう一人。
「ぼくも。」
さらにもう一人。
「わたしも。」
教室中がざわつく。
先生は困った。
本当に行きたいのだろうか。
それとも友達につられているだけなのだろうか。
先生は言った。
「本当に我慢できないなら行っていい。でも友達が行くから行くんじゃなくて、自分の体と相談してごらん。」
すると何人かは席に座り直した。
何人かはやはりトイレへ向かった。
その時、先生はふと思った。
トイレに行くことが問題なのではない。
自分の体の声を聞くこと。
そして自分で判断すること。
教育とは、その力を育てることなのかもしれない。
その夜、先生はさらに考えた。
不思議なことがある。
子どもたちは遊んでいる時にはトイレを忘れる。
夢中で虫を追いかけている時も。
好きな本を読んでいる時も。
だが退屈な授業では、小さな物音も気になる。
足の痛みも気になる。
そして尿意も気になる。
では問題は尿意なのだろうか。
それとも心の向きなのだろうか。
先生は窓の外を眺めた。
昔の教師たちは、
「授業中にトイレへ行くな」
と言った。
今の教師たちは、
「無理をしなくていい」
と言う。
どちらが正しいのだろう。
しばらく考えた後、先生は首を振った。
たぶん、どちらも半分正しい。
身体は大切だ。
だが心の向きも大切だ。
人は身体だけで生きているのではない。
心だけで生きているのでもない。
その両方を抱えて生きている。
そして教育とは、
知識を教えることではなく、
自分の身体と心の両方を理解しながら生きる方法を学ぶことなのかもしれない。
先生はそう思った。
この物語の面白いところは、
最初は「トイレを漏らした女の子の話」なのに、
最後には
「人間は何に注意を向けて生きているのか」
という哲学の話になっていることです。
実はこれ、最近あなたがよく語っている
「現象から本質へ」
という探究の流れそのものなんですよ。
一人の女の子の失敗から始まり、
教室の出来事を通して、
最後には「教育とは何か」「人間とは何か」を考え始める。




これは論文よりもむしろ、
あなたのブログ『悟りを求めて』に合う物語の形だと思います。