論理とは?
論理の流れと違和感、そして矛盾~
最近、「論理とは何か?」について考えていた。
論理というと、正しい考え方や筋道だった説明のことだと思われがちである。しかし私には、論理とはむしろ「流れ」のようなものに思えてきた。
思考の流れ、文章の流れ、会話の流れ、そして人生の流れ。
人は常に何らかの流れの中で生きている。
しかし、その流れに乗っていることを自覚しているとは限らない。
むしろ多くの場合、人は流れの中にいても、その流れそのものを意識していない。
魚が水の中にいて水を意識しないように、人もまた自分がどのような思考や価値観の流れの中にいるのかを意識せずに生きている。
これが「即自的」な状態なのかもしれない。
ところが、ある時ふと、
「何か変だ」
という感覚が生まれる。
今まで当たり前だと思っていたことが当たり前に思えなくなる。
しかし、その時点では何が変なのかはまだ分からない。
説明もできない。
ただ何となく落ち着かない。
何となく引っかかる。
これが「違和感」である。
違和感とは感覚的なものであり、まだ言葉になる前の状態である。
だから違和感があっても、
「どこがおかしいのか?」
と問われると答えられない。
それでも何かが変だという感覚だけは存在する。
この状態は、自分が流れの中にいることはまだ分からないが、その流れに何らかの揺らぎを感じ始めている状態とも言える。
そして、その違和感について考え続けると、やがて何が引っかかっていたのかが見えてくる。
そこで初めて「矛盾」が発見される。
矛盾とは、
「ここ」と「あそこ」が食い違っている。
「こう言っているのに、実際はこうなっている。」
というように、認識の中で食い違いが見える状態である。
違和感が感覚的なものであるのに対して、矛盾は認識的・論理的なものである。
つまり、
違和感は「何か変だ」。
矛盾は「ここが変だ」。
と言うことができる。
考えてみると、人は矛盾によって目覚めるのではなく、まず違和感によって目覚めるのかもしれない。
違和感があるから考える。
考えるから矛盾が見える。
矛盾が見えるから、自分がどのような流れの中にいたのかが見えてくる。
そしてさらに進むと、
「自分はこのような論理の流れに乗っていたのか」
と気づく。
ここで初めて、自分自身を流れの中の存在として見ることができる。
論理とは単なる正しい考え方ではない。
論理とは思考の流れであり、運動である。
そして本当に大切なのは、その流れに乗っていることではなく、
自分がどの流れに乗っているのかを自覚すること
なのだろう。
違和感は、その自覚への入り口である。
矛盾は、その流れを照らし出す光である。
そして人は、違和感と矛盾を通して、自分自身の認識の流れを少しずつ理解していくのかもしれない。
意味とは何か――意味づけもまた流れている
私は最近、「論理とは何か?」について考えていた。
論理とは思考の流れであり、認識の流れであり、言葉の流れでもあるのではないかと考えた。
そしてさらに問いは進んだ。
そもそも、その流れの中で何が流れているのだろうか。
言葉だろうか。
思考だろうか。
感情だろうか。
あるいは意味だろうか。
そんなことを考えているうちに、今度は「意味とは何か?」という問いに行き着いた。
例えば雨が降る。
雨は自然現象である。
しかし人間はその雨に様々な意味を与える。
農家にとっては恵みの雨かもしれない。
旅行者にとっては残念な雨かもしれない。
子どもにとっては遊びの雨かもしれない。
同じ雨であっても意味は異なる。
つまり意味とは、出来事そのものの中にあるのではなく、人間がその出来事に与えているものだと言える。
ある意味では、意味とは人間が変化や運動に貼るラベルのようなものなのかもしれない。
しかし、そのラベルは単なる気まぐれではない。
人はそれぞれ異なる人生を生きている。
異なる経験をし、異なる立場に立ち、異なる価値観を持っている。
だから同じ出来事でも意味が変わる。
意味はその人の生き方や歴史と深く結びついているのである。
さらに考えてみると、意味は個人だけが作るものでもない。
人は常に社会の中で生きている。
だから意味には様々な層が存在する。
生物としての意味。
社会人としての意味。
国家の一員としての意味。
文化の中での意味。
そして個人の精神にとっての意味。
例えば空腹になれば食べる。
危険から逃げる。
これは生物としての意味である。
働くことが大切だ。
約束を守るべきだ。
これは社会の中で形成された意味である。
国旗や国歌に特別な価値を感じる。
これは国家の中で共有される意味である。
そして同じ仕事であっても、
ある人には生きがいとなり、
ある人には苦痛となる。
これは個人の意味である。
つまり意味とは、一つではない。
自然・社会・精神という様々な層の中で形成されている。
そしてその意味づけは固定されたものでもない。
子どもの頃には意味が分からなかった親の言葉が、年齢を重ねることで突然深い意味を持つことがある。
若い頃に嫌だった経験が、後になって人生の転機だったと感じられることもある。
逆に、かつて大切だと思っていたものが、それほど重要ではなかったと感じることもある。
出来事は変わらなくても、その意味は変わる。
さらに言えば、意味を与える自分自身も変化している。
二十歳の私。
四十歳の私。
七十歳の私。
同じ人間でありながら、同じ出来事に異なる意味を見出している。
だから意味は固定されているのではない。
意味づける主体である人間自身が変化しているのである。
こう考えると、
流れているのは出来事だけではない。
論理だけでもない。
意味そのものだけでもない。
むしろ、
意味づけそのものが流れている。
人間は世界との関わりの中で意味を作り、
意味を失い、
意味を変え、
そして新しい意味を見出し続けている。
もしかすると自己形成史とは、単なる出来事の歴史ではないのかもしれない。
それは、
自分がどのような意味づけを行い、その意味づけがどのように変化してきたのかという歴史
なのかもしれない。
そして人生とは、
世界の変化を生きることだけではなく、
その変化に与える意味が変化していく過程そのものなのだろう。
そう考えると、人間とは意味を持つ存在ではなく、
意味を作り続け、意味を変え続ける存在
なのかもしれない。
言葉の前にあるもの――認識はどのように変化するのか
最近、論理とは何か、意味とは何かについて考えているうちに、さらに根本的な問いに行き着いた。
人間は本当に言葉で考えているのだろうか。
言葉と意味はどのように結びついているのだろうか。
そして、人間の認識はどのように変化していくのだろうか。
私たちは普段、言葉を使って考えているように感じている。
しかしよく考えてみると、言葉だけでは意味は成立しない。
例えば「楽しい」という言葉がある。
辞書を引けば説明が書いてある。
しかし、その説明もまた別の言葉で書かれている。
すると、その言葉はどうやって理解するのかという問いが生まれる。
言葉だけで言葉を説明し続けると、どこまでも終わらない。
そこで気づく。
人間は辞書だけで言葉を覚えているのではない。
子どもが「楽しい」という言葉を覚える時、まず経験がある。
遊んでいる。
笑っている。
夢中になっている。
その時に周囲の大人が
「楽しいね」
と言う。
すると子どもは、その時の身体の状態や感情、その場の空気や人間関係と「楽しい」という言葉を結びつける。
つまり最初にあるのは言葉ではない。
経験である。
さらに考えてみると、経験とは何だろうか。
人間は世界との関わりの中で生きている。
見る。
聞く。
触れる。
動く。
そうした五感を通して世界と関わる。
すると人間の内部には変化が起こる。
暑い。
寒い。
痛い。
安心する。
不安になる。
嬉しい。
悲しい。
まず身体が変化し、その変化を感覚する。
そしてその感覚に対して意味づけが行われ、そこに言葉が与えられる。
つまり言葉の前には身体がある。
感覚がある。
経験がある。
言葉とは、それらに貼り付けられたラベルのようなものなのかもしれない。
ここで以前教えられた言葉を思い出す。
「人間は言葉で考えているのではない。」
その意味が少し分かった気がする。
人間は単語を並べて考えているのではない。
言葉に結びついた感覚や感情、経験を動かしながら考えているのである。
頭の中では言葉と五感情報が結びつき、重なり合い、統一されながら認識が形成されている。
また、違和感というものについて考えた時にも同じことを感じた。
人間は変化がない状態では、その状態を意識しにくい。
等速直線運動をしている電車の中では、自分が動いていることを忘れてしまう。
しかし加速や減速が起きた瞬間、身体は変化を感知する。
違和感とは、そのような変化を身体が先に感知した状態なのかもしれない。
つまり違和感は論理よりも前にあり、言葉よりも前にある。
身体が先に気づいているのである。
しかし考えているうちに、さらに面白いことに気づいた。
変化は外から与えられるだけではないということである。
例えば涼しい日にじっと座っていれば身体はそれほど変化しない。
しかし自分が全力疾走すれば、たちまち身体は熱くなる。
周囲の環境は変わっていない。
変わったのは自分の行動である。
つまり人間は、自分自身で自分の変化を引き起こすことができる。
これは認識についても同じではないだろうか。
人間は環境に反応するだけの存在ではない。
自ら本を読む。
新しい人と出会う。
旅に出る。
今まで考えたことのないことを考える。
そうやって自分に新しい経験を与えることができる。
そしてその経験によって、自分自身の認識を変化させることができる。
人間の特徴は、自分の認識そのものを認識できることにある。
私は今こう考えている。
なぜそう考えるのだろう。
別の考え方はないのだろうか。
そのように、自分の認識を対象として見つめ直すことができる。
さらに人間は、自分一人では持ち得なかった認識を他者から受け取ることができる。
本を読むこともそうである。
対話することもそうである。
異文化に触れることもそうである。
そこには、自分とは異なる認識の流れが存在している。
もちろん他人の認識を丸ごと自分の中へ入れることはできない。
しかし、その一部は入ってくる。
そしてその新しい認識は、自分の中の既存の認識と出会う。
時には衝突する。
時には矛盾を生む。
時には違和感を生む。
しかし、その出会いこそが変化のきっかけになる。
自分の認識と他者の認識との出会い。
そこに新しい認識が生まれる。
それは古い自分を否定することではない。
古い自分の上に新しい見方が重なり、自分自身の流れが少しずつ変わっていくことである。
そう考えると、「言葉の流れに乗る」とは単に単語の意味を理解することではない。
相手の言葉の背後にある感覚、経験、価値観、前提、そして認識の流れを、自分の中で再構成することなのである。
そして人間とは、ただ環境によって変えられる存在ではない。
自ら新しい経験を求め、自ら新しい流れに身を置き、他者の認識を取り入れながら、自分自身を変化させていく存在である。
人間は流れの中に生きている。
しかし単に流されているのではない。
時には自ら流れを変え、新しい流れを取り込み、自分自身の認識を作り変えていく。
もしかすると自己形成とは、そのような認識の流れの変化の歴史なのかもしれない。
そして人生とは、世界を経験する過程であると同時に、自分自身の意味づけや認識の流れを変化させ続ける過程でもあるのだろう。

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