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 生い茂る草むらのなかでリリアは目を覚ました。腕や脚、指先に至ってもしっかりとした感覚がある。ひんやりとした気温を肌が知覚した。まだ安定しない思考ながらも疑問に思う。
 ――なんで、無傷なの……?
 竜から落ちたとき、生える樹木が点に見えるほど高度はあった。数値にして三〇〇〇メートルだろうか。いくら『吸血鬼(ヴァンパイア)』と言えども、あまりにも高すぎるところから落下して、五体満足ということはない。
 頭部から落下した場合、まず命はない。脳ミソの損傷は思ったり深刻で、再生は不可能となる。
 身体が上下に真っ二つに割れてしまった場合、これは完全な死とまではいかぬが後遺症のようなものが残る。脊椎を完全に回復することは難しいのだ。よくて半身不随といったところか。
 脚からの落下。これはまだ大丈夫だ。時が経てば再生する。ただの骨折だろうが、粉砕骨折だろうが時間が解決してくれる。
 しかし、脚から落ちることはそう滅多にない。人の形を成すものは、大概が各部位へ命令する臓器を頭に置いている。俗にいう脳ミソだ。思考をし、決断を下すという重大な働きを持ってしまった臓器。これらは脚や腕に内包される筋肉と比べて質量が重い。故に無重力の空間に放り込まれ、手足を拘束されていた場合、頭部は下へ来る。
 自由落下も同じだ。空気抵抗はあるが、基本的に重力は質量の重い方に強く働く。つまり、重い頭の部分が必然的に下側に回るのだ。
 もちろん、落下中にどうにかして脚から落ちたりとできることは可能だ。だが彼女は、意識を失っていた。身体を動かすことすらままならない状態だったのだ。
 リリアは上体を起こす。辺りを見渡すと、一面緑が見えた。土の色を隠すようにして生える雑草。幹の部分が小さく、葉っぱに覆われてしまっている木々。空を見上げるともう陽は姿を沈め、深い夜が自分を羨望していた。草木が夜の露に濡れている。ほっ、と吐いた息が白くなった。

「気がついたかい?」

 軽やかな声。低くもなく高くもないトーン。声のする方へ体を向ける。

「…………アンタがあたしを助けたの?」

 リリアは誰にたいしても粗暴な言い方をする奴であった。別にこれはツンデレだとか、恥ずかしいからこういう口調になっているわけではない。自分を大きく見せるため――実際の背丈を見ると失笑してしまうが――にしているといっても過言ではない。いつまでも子供扱いは嫌なのだ。
 ちなみにいっておくと、ソアに振るう暴力はまったく別の理由だ。彼女曰く、踏んづけて欲しそうな顔をしている、ということらしい。これも一種の愛か。

「アンタ、とはまた酷い言い方だね。せっかく助けたのに」

 彼女から向かって右側に位置するこの人物の風貌は、なんだか奇妙だ。というか、顔からして変なのである。
 常人より高く尖った鼻。筋は真っ直ぐで綺麗だ。瞳は大きく、ブラウンに光を反射している。人間として整いすぎた顔立ち。それに加えてあの声のトーンでは、性別がどちらかわからなくなる。しかし、目を見張るところは他にもあった。
 耳だ。耳が斜め上に尖っているのだ。一種のアンテナのようにとんがったそれは、ある魔獣を連想させた。彼女はその名を呟く。

「エル……フ?」

 薄い微笑を浮かべ、そのエルフは頷いた。

「そうだよ、ぼくはエルフ。『森(フォレスト・)の戦士(ウォリアー)』のジークだ」

 ジークと名乗るエルフは緑色のレザー・チェニックに、同じく緑色のウールパンツ。どれも巷で売ってそうなものばかりだ。
 髪は淡い緑で男のくせには――ぼくと名乗ったので――長く肩近くまで伸びている。

「どうやってあたしを助けたの?」
「え、どうやってって……普通にだけど」
「あの高さから落ちて普通に助けれるはずないわよね。本当にどうやったの?」

 ぽりぽりとジークは頭を掻いた。うーん、と唸ってから、

「本当にどうやったって言われても……跳んで抱きとめただけなんだけどなぁ」
「…………たかがジャンプで助けたってこと?」

 しかし、この言葉はジークに伝わらなかったようだ。これこそ真剣に頭を捻らせて、

「じ、じゃんぷ……? どういう意味だい、それは」

 リリアは大きな瞳をさらに大きくさせて驚いた。月明かりが水晶に反射する。

「そんなことも知らないの? ジャンプってのは脚を揃えて……揃えなくてもいいけど、力を入れて飛ぶことよ」

 飛ぶ、という単語に疑問符を見せたが、数秒の思考の後、ジークは納得したらしい。

「ああ、跳躍のことか。そっちでは跳ぶことをジャンプと言うのか。なるほど……わざわざありがとう」

 爽やかな笑顔を向けてくるジーク。しかし彼女は引っ掛かるところがあった。

「そっち? どういうことよ。そっちもこっちもないでしょう」

 彼は軽く驚いたようで、リリアと同じくエメラルドの瞳を見開いた。
 ――ほんと、全身緑よね。
 率直な感想だ。失礼でもなんでも事実だ。髪も服も瞳もすべて緑だ。

「もしかして知らないのか……ぼくたち魔獣は、人と距離を置いてるんだよ。というか君も魔獣だよね。それも『吸血鬼(ヴァンパイア)』と思ってたんだけど」

 このとき改めて悟った。人は魔獣を差別しているんだった。それ故に自分も奴隷の時期があったんだった、と。
 いつしか彼女は忘れていた。肩書きではなく、ひとりのともだちとして受け入れてくれたある少年によって。泣き虫で弱虫のくせに、いつも自分を庇ってくれるたったひとりのともだちによって。
 人と魔獣という境目を越えて、二人は「ともだち」だった。
 いや、もしかしたら、ともだちより上の存在ではなかったのか。向こうはわからないが、少なくとも自分にとって、彼は……ソアは――
 リリアの瞳から頬にかけて温かい雫が走った。

「え、泣かせるようなこと言っちゃったかな……気を悪くさせたなら謝るよ。ごめん……」

 涙を拭い、前を向く。今はまだそのときじゃない。生きていればまた会える。少しだけ、ほんと少しだけ離れるだけだ。

「別にアンタが悪い訳じゃないからいいわ。気にしないで」
「そ、そう……? ならいいんだけど……」
「大丈夫よ。それで、人を避けてるのは差別されてるから?」

 エルフの恐らく男は遠慮がちに頷いた。

「まあ、ね。ぼくたち魔獣はなにかと人とは違うから。エルフだと耳が違うね……でも、極一部なんだけどたまにぼくらの耳がいい! という人も見かけるかな」
「そ、そなんだ。それでそっちとこっちってのは?」
「それは多分だけど君は人と暮らしてたんでしょう? 微かにだけど人特有の匂いが残ってるし。なによりもその服、人が作ったものでしょ? 麻と綿を繋ぎ合わせたやつ」

 そう言われてリリアは自分の服を見た。彼女の顔に合うようにか西洋風である。一応リリアだって貴族なのだ。しかしデザインよりも動きやすさをメインとしたようで、各間接部分は伸縮できるようになっている。

「そっちが人側の生活だとすると、こっちは魔獣側の生活。魔獣が人側に行くのは珍しいけど、たまに君みたいなのもいるね。それで、こっち側だとそっちの生活が違ってくるから言葉が噛み合わないときがあるんだよ」

 なるほど。納得である。生活様式が違えば通じる言葉も違ってくる。といっても、大方は変わらないだろうが。しかし、こっち側で新しく生まれた言葉などはそっち側へ伝わるはずがないので、必然的に少しの差が生じてくる。逆もまた然り。存在するだろう。
 ジークは続ける。

「まあ、君がそっち側でも助けたのは魔獣だからなんだけどね。人だったらまず助けないかな」

 突然リリアは寒気を感じた。それもそのはずだ。もう辺りは完全に夜だ。深夜になるにつれて寒さも強くなっていくことだろう。いきなり身震いしたりリアを見て、

「今日はもう遅いから、ぼくたちの村へ来なよ。魔獣だから嫌がられることはないはずさ。落ちてきた理由とかも聞きたいしさ。ゆっくり休むといいよ」