父親がクソ餓鬼化したので、ストレスについて考えてみた
最近、父親がクソな餓鬼のように見える。つまり、精神年齢が著しく低下しているように感じるのだ。 何度も不毛な指摘を吹きかけたり、表面上の出来事を無駄に癪に触る言い方で繰り返したりして、お茶の間を凍らせている(若しくは自分の心の中がペキペキに凍る)ことが多々ある。 それは、同級生に数匹いる空気の読めない身勝手な発言を繰り返す奴に同化して見え、非常に恥ずかしくなる。 そんなに人の癪を触りたいのかと思い、幾度か乗ってやったことがある。…が、全て黙秘で返された。 どうやら、喧嘩を売っている訳ではなく、ガチのマジな無意識で気持ちの癪に触れてきているらしい。 こんなの、反抗期の学生のほうがまだ幾らかマシなモノだ。だって自覚あるし、まだ取り返しの付く頃合いだから。 しかし彼は人生を半分終えた、部下をも持っている立派なおじさんなのだ。子供ほど頭の修理が効かないというのに、ここで故障するのは非常にまずいのでは、と心の中の警報器が訴えている。 以前は世間知らずの片鱗こそあったものの、ここまで気に留める程ではなかったのに、一体全体どうしてこうなってしまったのか。 ここで私は、“ストレス”と結論付けた。 最近の私の家計は、矢鱈跳ね上がる光熱費や物価高に苛まれており、節電という言葉があちこちで聞こえるようになった。暖房も石油ストーブに代替され、こたつにはダメ人間となった豚達が魚の死体のように集まるようになった。 それに加え、私のバカ高い学費や塾代、以前盗み聞きして知ってしまったボーナス30万減なども関係しているだろう。 某閏土のように、デクノボウみたいな人間になっては困るのだが、世知辛いセカイを変えられるほど私の存在は強くない。ただ、こんな大人にはなりたくないなという思いが募っていくばかりである。 世間の暴力で、人はこんなにも変わってしまうのか、と身内をもって実感している。勿論事実は知っていたが、あからさまに身の篭った精神の退化を目の当たりにしたのは初めてだった。 不安との区別が付かない私にとって、ストレスとはどういうものなのかは未だに捉えられていないが、こやつはきっと一種の関所を麻痺させてしまうのだろうと思う。 どうしようもなく、人間の根底は餓鬼だ。しかし、世間体と自身のプライドがその側面を出させまいと闊歩している。その定義に鎖をかけるのが、ストレスの役目だろう。 ここからは完全に邪推の域だが、社会にでたらこのストレスを制御出来なければ詰むのではないのか、と思う。表面上の人間関係は不変でも、内の信頼や好感度はきっと右肩下がりになっているだろう。そうして気づいたら孤立しているのでは。 社会に出ていない我ら学生は、きっとこいつとの戦い方を学ぶ絶好の機会を与えられているのだろう。数多に迫るテストや狭い箱に閉じ込めることの真意の一つにこれがあるのではないか。表面と内部の差が薄い子供同士では、自分がどのヒエラルキーに位置しているのか分かり易い。さらに、何かやらかしても無条件で保護される環境下にある。 父親の変遷から、学生時代の目的を一つ掘り当てることができた気がする。 ただ、私は彼の元についている部下が心配です。