こないだ(先週土曜日)ONEダンススクールのセミナーに行ってきました。
(私のとびとびで参加しているのですが…)
そこでは、ワーシップダンスをする上で心がけること、大切なことなどを証しやセミナー形式で教えてくれます。教会を超えて、各教会でワーシップダンスチームのリーダー的な人たちが集まっていて、交流しています。そして、セミナー後はダンスのレッスンもしていて、行くたびに新しい発見と感動を覚えて来ることが多いです。
2/11(土)にはたけしさんというニューホープ横浜(教会)の牧師が証しをしてくれていました。そこでとってもとっても恵まれてしまったので、ここで(ちょっとおくれましたが)共有したいと思います。
① 神様は「私」を「私」に創った。
私たちは、教会の中で比較し合っています。
あの人はとても恵まれているように見えるけど、私はそうじゃないとき、「私も神の子なはずなのに」「私もクリスチャンのはずなのに」と思うことありませんか。
サタンは、誘惑します「本当にお前が神の子なのかい?神の子ならやってごらんよ」と。
サタンは同じような方法でアダムとエバを、また、イエス様も誘惑しました。
創世記3:1~5を見ると、蛇を被ったサタンは、エバに「木の実を食べれば神のようになる」と言いました。でも、ちょっと待った。もうすでに、神の姿に創られたのがアダムとエバでした。
マタイ3:17~4:6では、40日間断食しているイエス様に「本当に神の子ならここから飛び降りてごらんよ」と誘惑します。
サタンは常に私たちが神の子であることに疑惑を持たせようとします。
エバは、「そうか、神のようになれるんだ(今は神のようではないと信じちゃってる)」と考え、善悪の木の実を食べてしまいました。
でお、イエス様はみ言葉でサタンに対抗し、追い払いました。
このように、サタンは「⚪︎⚪︎ならば、△△である。」→「⚪︎⚪︎でないなら、△△ではない。」というロジックを私たちに押し付けます。
それに対して、神様は「私はあなたを⚪︎⚪︎に創った。」と言います。
私たちは、自分の足りなさに直面したとき、自分もクリスチャンだけど、他の恵まれてそうなクリスチャンを見たとき、サタンのロジックに陥りやすくなります。しかし、神様は「私」を「私」として創ってくれました。「あの子」は「あの子」として創ってくれました。少しでも「あの子」に近づきたくて、真似をするならば、「私」という神さまの傑作品がこの世からなくなってしまうことになります。
言い換えると、私は足りない者だけれど、私が私として生きていくことがこの世に召された意味でもあるのです。
Ⅱコリント5:17には古い者は過ぎ去り、新しい者が生じたと書かれています。
自分の目にはまだまだ足りないとこだらけの私でも、神さまの恵みですでに完全な者と造りかえられています。
そしたら、そんな「私」にとって次のステップとは、神の恵みの土台の上に立つことです。神の愛と恵みに浸かることです。神さまの視線で自分を見ることです。
② いい子でいることの罠
繰り返し罪を犯してしまうとき「罰しないと改善しない」と思うことありませんか?
このような考えは、その罰という苦しみから逃れるためにいい子にしているけど、また罪を犯してしまったら、自分を責めるという悪循環をもたらします。
神様はもうとっくに私を許し、この世の何ものにも変えられない愛で愛してくれているのに、自分を許せず、愛せないのは自分自身なんです。
自分に「おまえはこれしかできないのか」「また?」「このデブ/ブス」などなどと、私たちは無意識のうち毎日ネガティブ独り言を言っています。
このような呪いの言葉は自分をどんどん「呪われているもの」に形造ります。
私たちは私たちが信じる方向に生きていくんです。
自分が自分を20%しか愛でないなら、神さまの100000…%の愛が20%未満のものでしかなくなります。
そんな私たちはどうすればいいのでしょうか。
まずは、自分と和解することです。
作品を褒めるとその作者に栄光が向かいます。
私たちは神さまの作品です。自分もそうです。鏡に向かって、「あんなひどいこと言ってごめんね、あなたは世界で一番美しい神さまの傑作品」と褒めてあげてください。
私たちは他の誰かになろうとする必要もないし、嘘の兜をかぶる必要もありません。
私はもうすでに完全な者、神さまの傑作品です。
イエスさまの平安と力はすでに私の中にあります。
与えられた恵みは、もう十二分にあります。