ご飯ください。
「ご飯ください」
こんにちは、教会メンバーです。
息子に聖書(リビングバイブル)のマタイ6章を読んでいた時の話です。
6章には「主の祈り」があります。その中で・・・
6:11 私たちに必要な日々の食物を今日もお与えください
リビングバイブルでははっきりと“日ごとの糧”(新改訳)は食物と訳されているのですね。
でも…前に教会の勉強会でいろいろと吟味した時に、
「本当に食べ物のことなの?」という話になりました。
何故なら、8節で
「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」
と言われているし、それを踏まえて「こう祈りなさい」とつながるわけで。
その後の25節では、
「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、またからだのことで何を着ようかと心配したりしてはいけません」
とあります。それから鳥の例えに続き、さらに繰り返して31節で
「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい」
と言われているのです。
ならば…こんなにご飯の心配はいらないと言っているのに「こう祈りなさい」で
「今日もご飯ください」って祈りはどうなのでしょう?
では「日ごとの糧」って何でしょう?
「主の祈り」については並行箇所としてルカ11:2~4があります。
新改訳聖書ではこの“日ごとの糧”の所の注釈として別訳があり、
「あすのための糧」「必要な糧」(マタイ)
「きたるべき日の食物」「必要欠くべからざる食物」(ルカ)
となっています。
・・・・・・ん?
「私たちの“あすのための糧”をきょうもお与えください」
え? 明日のご飯を今日ください?!
そもそも何でこんな不思議な訳かっていうと、この“日ごとの”というギリシャ語
「エピウーシオス」(ἐπιούσιος)が、このマタイとルカのこの箇所でしか使われていない、とても特殊な言葉だからだとか…。
訳としては「来ようとしている」「将来の」「未来の」というような意味だそうで、
つなげると「将来のパン」
・・・こうなるとパンって食べるパンじゃないですよね…。
じゃぁ、何パン?
パンと言えば、四つの福音書全てに出てくる重要な話として「五千人の給食」の奇跡があります。
特にヨハネの福音書ではそのパンの本当の意味を詳しく教えていると思います。
ヨハネの6章でイエス様はハッキリと、そして繰り返して言っておられます。
…ということは、
「今日もイエス様をください」ってことでしょうか。
イエス様をいただくためには、具体的にはみ言葉ですよね。
↓
「私たちの必要なみ言葉を今日もお与えください」
アーメン。
いただきます。
望まれる実
こんにちは。教会メンバーです。
秋ごろの話です。遅れている息子の学習教材を片付けていた時、教材の一つからミニトマトの種が出てきました。
あー・・・どうしよう・・・?
もったいないから(?)息子そっちのけで単に私が育ててみることに・・・。
玄関の窓際でがんばっています。
なかなか育たないので(←あたりまえ)もうバイバイかなぁ・・・?と思っていましたが・・・
現在、冬。実をつけました。
すごいなぁ・・・!
この場合は実をつけなくても仕方ないとは思っていましたが、本来なら収穫出来ない野菜なんてがっかりですよね?
神さまも私たちを育てておられ、実を結ぶことを望んでおられるようです。
有名なぶどうの木の話はヨハネの15章ですが、マタイにも何回かよい実を結ぶ(実によって人を見分ける教え)ことについて書かれています。(マタイ7:16、マタイ12:33)
その時にサラっと恐ろしいことも書かれています。
よい実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれます(マタイ7:19)
ちなみにぶどうの木の話(ヨハネ15:6)でも枯れた枝(主にとどまらない枝)は火に投げ込むと書いてあります。
私たちは何らかの実を結んでいくんですよね。
イエス様にとどまればよい実だし、とどまらなければ枯れるか、悪い実をつけるか・・・。
(よい実→御霊の実(ガラテヤ5:22)愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制)
実を結ばなかったらガッカリのいらない木だし、
悪い実を結んでいたら、もっといらない木で、伐採。
ひー!
ところで、このイエス様の話はクリスチャン向けなんですよね。
イエス様を神さまと信じていても、ちゃんとイエス様にとどまり続けなければ、枯れてしまう。→伐採。 ひー!
逆にイエス様にしっかりとどまり続ければ、自然によい実が結ばれる→OK!
聖書の話の中には、麦だったり、ぶどうの木だったり、他の植物の話を例えたりとありますが、実を結ぶことを望まれていることが共通しているように思います。
実は成長しないと結ばないんですよねぇ・・・。
まずは成長したいと思う今日この頃・・・。
『神の国』
こんにちは、教会メンバーです。
神さまに「求めなさい」と言われた「神の国」の話ですが・・・
「神の国」って何でしょう?
一般的なイメージは天国?パラダイス?→あの世?
結論から先に言うと、あの世ではありませんよね。
私たち、生きてますから。
では、「神の国」って何でしょう?
・・・「神の国とは・・・」と説明すると、神学レベルのものすごく大変なことになるので、
そんなこと私に語る力はありません。(キッパリ)
ですから、私が学んで心に残ったことをザックリと。
流れとしては、マタイ5章~7章を読むと「神の国とは何ぞや?」をテーマにしたことが
書かれています。
神の国は英語ではKingdom of God つまり神の王国。
それは、イエス様が王様として治める国。
ところでイエス様はどこで王様になり、どこを治めるのでしょう?
しかもこの世で。
国ですから、ルールがあります。この場合は法則と言った方が良いでしょうか。
すごい基準です。高い基準です!!
・・・というより、この世の価値観とは違い過ぎます。
5章のはじめ、イエス様がはじめて民衆にお話されるところ・・・
マタイ5:3~
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」
(ちなみにルカ6:20~も同じ話がありますが、こちらではさらに、いま笑うあなたがたは哀れです。ともあります)
まず、幸い(Happy)の基準がこの世とは逆ですね。
こんなすごい価値観が基準の王国を治めるイエス様。
そのイエス様の王座はどこにあるのでしょうか?
マタイ5章からずっと読んでいくと、その基準の国は、私たちの心に求められていることが分かります。
どこか遠いあの世ではなく、イエス様の王座は、私たちの心の中になくてはなりません。
「神の国を第一に求めなさい」
=(イコール)
「イエス様の支配する国(心)を求めなさい」(イエス様を求めなさい)
↓
神の国の民として生きなさい。ということでしょうか?
イエス様を信じ、罪を悔い改めた者は、もうこの世の民ではなく神の国の住人なのですから、神の民らしく、イエス様のルールに従って生きなさいと・・・。
これが神の国と神の義(神の正しさ)を求めて生きるということでしょうか。
このルールに従うためには、王様本人(イエス様)の助けが必要という、なんとも斬新な国ですね!
王様なのに隣にまで来てくださる方。
感謝します。王様♡